箱根学園純愛綺譚





*彼と彼女の話・その1

桜の季節、彼女は箱根学園に入学してきた。
家の仕事の関係で会う時の彼女はいつも清楚な着物姿で、きちんと髪を結い上げほんのり薄く化粧もしていた。落ち着いて微笑み、所作も美しくお行儀がよく、東堂の母をはじめとする身内一同に大変受けが良かった。
その彼女がシンプルな制服に身を包み、すっぴんで、髪の毛もすとんと下ろしたまま、その辺のチープな雑貨屋で100円くらいで売っていそうなプラスチックのヘアピンをつけて、ハイソックスにビニール素材の上履きを履いて、ごく普通の女子高生のような顔をしてそこに立っていた。

「……普通の女子高生みたいに見えるな」

東堂は思ったそのままの感想を漏らした。
彼女はぱちぱちと瞬きをして東堂を見る。少しの色もついていない目元はひどく子供っぽく見えた。

「普通の女子高生ですから」

呆れたようにも面白がるようにも取れる口調で彼女は言った。そうだな、と東堂は笑った。

「尽八さんも、普通の男子高生みたいに見えますね」
「この俺を捕まえて普通の男子高生という事はないだろう、桜。どう見ても隠しきれない高貴なオーラが駄々漏れの美形ではないか」
「ごめんなさい私オーラとか見えない人なんで…」
「あれだ、お前は俺の顔面に耐性があるからそういう事が言えるんだな」
「はあ、そうかもしれませんねー」
「美人は3日で慣れるというからな。お前はそれこそ子供の頃から俺の顔を見てきたせいで美的感覚が麻痺してしまったんだな、悪い事をした…」
「はあ、そうかもしれませんねー。でも慣れないと困ります。一生一緒にいる訳ですし」

桜のその言葉に、周りの生徒たちが一斉に振り返って二人を凝視した。
東堂は箱根学園では有名人である。いろんな意味において。ファンクラブもある。いろんな意味での。
その東堂と、新入生の女子が意味深な会話をしている。二人は旧知の仲のように見える。これは箱根学園のニュースである。東堂尽八ファンクラブの女子と新聞部の部員は瞬時にアンテナをそちらに向けた。

「それもそうだな」

新入生女子の衝撃台詞をあっさりと受け止めた東堂は、唇の端を引き上げた。諦めたような笑い方。

「──君に、この学校に来てほしくはなかったな」
「知ってます。でもやりたい事やるのに環境が整っていたし、親の意向もあったので」
「親の意向か」
「はい。でも一番の理由は」

「あなたがいるからです、尽八さん」「桜……」とでも続きそうなやり取りに、息をのむギャラリーの誰もが期待した。しかし彼女の口から出てきたのはあまりにもあまりな理由だった。

「ここが一番家から近かったからです」
「……相変わらずだな、桜」

東堂が笑う。今度は純粋な笑いだった。思わず吹き出した、という体の。
そして一度はずっこけたギャラリーは、続いた東堂の言葉に大爆発することになる。それはまさに箱根学園を揺るがす大ニュースだった。

「まあ来てしまったものは仕方がないな。ここはいい学校だ。三年間を有意義に過ごすといい。
──入学おめでとう、婚約者どの」



*箱根学園3年女子生徒Aさん(東堂尽八ファンクラブ会員No.7)の話

箱根学園内のみならず他校にも会員を持つ東堂尽八ファンクラブの総数は数十人を超える。その中でも会員No.が一桁の会員は古参のファンとして、下位No.の会員達から憧れと尊敬を持って「ナンバー」と呼ばれていた。
ナンバーはファンの顔である。東堂尽八の名を汚すような事があってはならない。彼女等は常日頃から努力を重ね、「東堂尽八のファン」を名乗るに相応しい人物であろうとしてきた。外見を磨き、学業に励み、上品さを身に付け。そして思いやりと心の広さを持つように。いくら美人で成績が良くても意地悪な女では台無しである。東堂尽八様のファンたるもの他人を見下したりはしないのだ。それにいろいろと規格外の東堂尽八を長年追っていれば否が応でも心は広くなった。世界は広い、常識に囚われることなどつまらないといろいろな意味において体現してくれる彼であるので。
うつくしくかしこく、ゆかしく、そしてあかるくなごやかに。人として常に高みを目指す彼女たちは、単なる古参というだけでなく、憧憬を集めるに相応しい人間だった。東堂尽八ファンクラブのナンバーは、東堂尽八ファン以外からも一目置かれ信頼されていた。

「A先輩」

呼び掛けられて一瞬だけ動きを止め、Aはにこやかに振り返った。

「なぁに、小森さん」

たおやかに流れる黒髪、優しい笑み。華道部の他の面々からほうっと溜め息が漏れる。

「完成したんですけど、ちょっと…」
「納得できないところがある?」
「はい」

花を生けたばかりの花器を前に、後輩の小森桜は難しい顔で首を傾げていた。

「悪くないとは思うんですけど、なんだか…。手を入れ過ぎて分からなくなってしまって」

へにゃりと眉を寄せて縋るように見られた。Aはおっとりと微笑む。後輩に頼られるのは嬉しいし、先輩冥利に尽きると思う。──例えその後輩が、東堂尽八様の婚約者とされる少女であっても。
東堂様に婚約者がいるなんて話は、今春、この少女が入学してくるまで誰ひとり知らなかった。入学式の日の朝、今や『伝説の邂逅シーン』と言われている東堂と少女の再会の場面をばっちり目撃してしまったAの心はざわめいた。その日のうちに、東堂尽八ファンクラブの広報担当でもあるAの元に新聞部が取材にやってきた。「今のお気持ちは!?ファンクラブとしての公式見解は?」
Aはにこやかに微笑んで、答えた。
「東堂様に婚約者がおられたとは知りませんでしたが…私たちはいちファンであって、東堂様のプライベートに干渉する権利などありませんので、知らない事はたくさんあって当然です。え?呼び出す?シメる?うふふふふいやですわ何をおっしゃっているのかちょっとよく分かりませんわー。そんな怖い事よく思いつきますねー」
そう、東堂尽八ファンクラブのナンバーともあろう者がそんなことで心を乱されてはならん、ならんのだ!
Aも、他のナンバーもにこやかにたおやかに平常心を保って今まで通り東堂様を応援した。そんな彼女たちの姿勢に感銘を受け、初めは騒いでいた下位のメンバー達も次第に落ち着きを取り戻し、楽しく活動へと戻った。現在のところ婚約者の少女を校舎裏に呼び出したり靴に画鋲を入れたりするような不届き者は報告されていない。それどころか陰口を叩く者すらいない。Aは誇らしさに胸が震える思いだった。
その、東堂様の婚約者の少女、小森桜は、今、Aと同じ華道部に所属している。
ちなみにAは華道部の部長で、生け花の師範の資格も持っている。
Aは桜の生けた花をしげしげと眺めた。
本人が言う通り、悪くない。というかかなりいい。基本をきちんと押さえながらも伸びやかな自由さがある。華やかだ。それでいて品がいい。
かなりの腕前だ。本人によると、彼女も生け花は長年やっていて、やはり師範資格も持っているという。
それでも「分からなくなってしまって」と言う彼女の気持ちは自分にも覚えがあるもので、Aは優しく微笑んだ。花は、生きものだから。こころがそのままあらわれてしまうのだ。

「小森さん、何か迷っているのでは?」

桜の目が真ん丸になった。

「A先輩ってエスパーですか? すごい、なんで分かるんですか」

幼い反応に思わず笑ってしまう。

「だってお花に出ているもの」
「花に? えー、本当ですか? どの辺に?」
「そうねえ、このトルコ桔梗とか。本当は真っ直ぐ立てたかったんじゃない? その方が堂々とするもの。でも今は傾けなければいけない気がした、そうじゃない?」
「そ、そうなんです」
「でもね、これはこれでいいと思う。華やかで元気で、上品で。でも少しだけ抜け感があって、そこがかわいく見えるの。少し頼りない、若さというか。非の打ち所の無い完璧なものよりも、見る人をほっと和ませると思うわ」
「…本当ですか? 和ませる為のお花にしたいんです、私。ちゃんとできてますか」
「もちろん。そうだと思ったわ。小森さんは自分の作品を作りたいんじゃないのね。人のためのお花を生けたいのね」
「…そう、なんです」

桜はきらきらした目でAを見つめた。

「人をお迎えする花を生けたいんです。…お花の先生もそんなふうに言ってくれたことないのに、A先輩ってすごいですね」
「ふふふ。それはねえ」
「はい、なんでですか」
「それは私も女子高生だから、かなあ」
「へ?」

きょとんとする桜に、Aはいたずらっぽく笑いかけた。

「私も普通の、恋する女の子だから。迷いとか気持ちが分かるのかも」
「…………私は」

困ったように下を向いてしまう桜は、生け花だけでなくお茶や日本舞踊なども習っているとか。華道部とは別に英会話と古文の特別講座も受けているらしい。箱根学園は学ぶ意欲のあるものには広く門戸を開く。しかしレベルも高く、どれも片手間でできるものではない。勉強と稽古事で桜はたいそう忙しく、東堂様といちゃつく暇もないようだ。週二回の華道部の活動日以外はAは自転車競技部の見学に行くが、桜が東堂様と一緒にいる所を見たのはあの入学式の日のみだ。

「温泉旅館に泊まりに行って、お部屋でこのお花が出迎えてくれたら、私はすごく寛ぐなあ」

Aがおっとりと言うと、桜は真っ赤に染まった顔をぱっと上げて、口をぱくぱくさせた。
可愛い、と思う。
この子のやっている事は、旅館の女将修行なのだ。箱根の老舗東堂庵の名に恥じぬように。

「東堂様の事、大好きなのねえ」
「そっそんなことないです全然ないです好きじゃないです私は温泉が好きだから旅館の女将になりたいだけの政略結婚なのです尽八さんの事なんか全然好きじゃないですそんなのA先輩達の愛の方がずっと深いですし!」

突然飛び出した政略結婚などという不穏な単語に思わず吹き出してしまいつつも、Aは少し驚いていた。

「まあ、私が東堂様のファンだって知ってたの?」
「……知ってました」
「まあ、その上で華道部に来たの? 嫉妬の鬼と化した私に苛められるとは思わなかったの?」
「……A先輩そんな女神みたいな顔で怖い事言うのやめてください…。ええと、その、尽八さんに勧められた、ので」
「え」

今度こそAは絶句して桜を見つめた。

「私が生け花で悩んでるの知ってて、尽八さんがこちらの華道部を勧めてくれたんです。美しくそれは優しい花を生ける部長がいる、よい指針になる筈だって」
「……と、東堂様が…」
「ええと、それと……A先輩の事、高潔で素晴らしい女性だって褒めちぎってました。あんなファンがいてくれる俺は恵まれているな、涙が出そうだ!俺もファンサービスしなくてはな!なんて高笑いしながらファンクラブ会員に配るブロマイドにさらさらサイン書いてました…」
「と、と、と、東堂様が…!」

そのサイン入りブロマイドの事は知っている。先日頂いて自宅の神棚に奉ったばかりだからだ。何故神棚に男の写真を?と首を捻る両親を「箱根の山神様だからいいのよ」と説得して。
過酷としか言いようのない鍛錬の日々を送る自転車競技部の、中でもぴかぴかのエースクライマーとして、副部長として。一秒の暇もない生活の中でたかがファンクラブの民の為にその御手でサインを…しかも神々しいばかりの御尊顔ドアップのブロマイドに…!
山神のファンサービスという名の慈悲の心にAは泣き崩れた。東堂様、一生ついていきます。ファンとして。

「あっあっA先輩泣かないでください! だからですね、尽八さん私の事なんか全然好きじゃないんですよー。婚約者といるときに平気でファンクラブ用のブロマイドにサイン続ける男ですよ。尽八さんもファンクラブの皆さんみたいなきらきら綺麗で優しい女の人たちが好きなんですよ本当は。私と婚約してるのは親に言われたからです、私が若女将になるのが家的にベストだし、私と婚約してればとりあえずある程度の自由はもらえるから都合がいいんですよ、そういう計算で動いてるんですよー。私だって目的は尽八さんのご実家の若女将の座ですし!尽八さんの事なんて全然好きじゃないですし!」

真っ赤になって慌てた桜が、一生懸命に言葉を紡ぐがその内容はあまりにもあまりだ。新聞部をシャットアウトしておいてよかった、とAは心から思う。今この部屋にいる華道部の面々もファンクラブ会員達と同じく信頼できる仲間達だ。下世話な噂話を流して喜んだりすることはあるまい。そうよね?と確認の意味を込めて周りを見渡すと、皆、心得たように頷いてくれた。素晴らしい。

「とりあえず小森さんはお黙りなさいね」

ふんわりと言えば桜はぴたりと口を閉じて俯いた。髪の毛が数本跳ねている間から見える耳は真っ赤でとても暑そうだ。
少なくともこの子はとても単純だ。嘘がつけない。

「そうね、まずは、この可愛らしい迷いを隠さないまま、もっと艶やかに誘う花を生けられるようになりましょうか」
「……え?」

きょとんと首を傾げる桜を、東堂尽八が自分に託した意味をAは考える。
ファン冥利に尽きると言うものではないか。

「今のアプローチでは駄目。花で、落とすのよ」

ふっふっふ、と笑う。
A先輩ちょっと怖いですそれに落とすってなんですか私は別に尽八さんの事なんかこれっぽちも、とかなんとかこの期に及んで寝言を垂れ流し続ける桜を、馬鹿な子ね、と思う。馬鹿で可愛い素直な花だ。
「尽八さん」と呼ぶその声のあまやかさを、自分で知らないなんて。

羨ましくなんかない。妬んだりしない。
この子が一生知る事がないだろう「東堂様」と呼べる自分達の矜持が、誇り。恋愛ではないからこそ尊く永遠に錆びる事の無い気持ちを。

(ファンを舐めるんじゃねえぞコラ)

こころのなかでドスを聞かせ、Aはおっとりとたおやかに微笑んだ。



*箱根学園1年真波山岳くん(自転車競技部所属・天使)の話

「『真波くんは東堂さんの秘蔵っ子』って本当?」

そう聞かれた時、真波の頭に浮かんだのはクエスチョンマークだった。
秘蔵っ子って、なんだ。
確かに一部でハコガク最強の末っ子とか言われているのは知っているけれど、東堂さんはお父さんポジションではない。それは断然福富さんだ。じゃあ東堂さんはお母さんかと言われるとそれも違う、お母さんは荒北さん。新開さんも泉田さんも黒田さんもお兄ちゃんってかんじだなあ、あれ?じゃあ東堂さんって俺の何?ていうかこの子は誰だ。
ぽかんとして見つめ返す真波を見て、相手は言い方を間違ったと思ったらしい。ばつの悪そうな顔で言い直した。

「ごめんね、変な言い方しちゃったみたいで。ええと…真波くんは、クライマー、なんだよね。それで、尽八さんが育ててるっていうか、指導係?みたいになって鍛えてるって聞いたの。それ本当?」
「『尽八さん』!?」
「え、反応するのそっち!?」
「ていうか君、誰だっけ」
「え。同じクラスの小森桜だけど。4月からずっと同じクラスだったけど。席も隣なんだけど」
「え、そうだっけ」
「私何回か真波くんに教科書見せてあげたり消しゴム貸してあげたりしたけど」
「そうなんだ。いつもありがとう!」

にっこりと笑うと桜は3秒ほど黙り、その後で「クライマーってみんなこんな変なの?」と呟いた。

「なんかそれよく言われるなあ…」
「やっぱり」
「でも変じゃない人もいるよ。黒田さんとか、すっごいマトモだよ!」
「尽八さんは?」
「東堂さんがマトモな訳ないよね!? ていうか『尽八さん』って何? キミ東堂さんの何?」
「えっ…。婚約者だけど」
「えっ」
「えっ」

……後で委員長に聞いたところ、小森桜が東堂尽八の婚約者(ファンクラブ公認)という話は箱根学園では既に常識で、知らないなんてあり得ない、という事だった。

「俺全然知らなかった。全然興味なかった」
「最高。真波くん最高。好きだわー」

はっきりと言った真波に、桜は目をきらきらさせた。

「そう? ありがとう。で、聞きたかった事って何? 確かに俺は東堂さんにしごかれてるけど」
「うんあのね、自転車乗ってるときの尽八さんって、どんなかんじ?」
「えっ?」

知らないの?思わず首を傾げると、うん知らない、と桜もこくりと頷く。

「なんで?」
「見たことないから」
「なんで?」
「見るなって言われてるから」
「東堂さんに?」
「尽八さんに」

へー、と真波は思った。

「なんでだろうね」
「…多分、見られたくないんだと思う。本当に好きな事してるときの顔」
「へ。なんで?」
「……私と尽八さん、政略結婚前提の婚約者だし。尽八さん私の事全然好きじゃないし。親とか家とか、そういう、自分を縛るものに属してる私が、本当に大好きで大事な自転車って部分にまでのこのこ顔出して欲しくないんじゃないかな」
「…………ふう〜ん?」
「わ、私だって尽八さんの事なんか全然好きじゃないしいいんだけどね」
「ほおお〜」
「……真波くん全然分かってないね? というかなんか面倒そうだなーどうでもいいやーと思ってるね?」
「うん」
「最高。真波くん最高。好きだわー」
「ありがとー」
「で、尽八さんは」
「自転車乗ってるときの東堂さんね、えっとね、鬼だよ!」
「えっ」
「鬼」
「オニ…」
「あー、あと、忍者?」
「忍者?」
「そう。あとなんだっけ、よく東堂さんが言ってる…えーっと、スリーピング…スリーピングなんとか」
「スリーピング…? スリーピングビューティ?」
「そうだったかなー。なんかいろいろ言ってるよ。あと、これ」

真波はキメ顔で『バチーン☆』と指差しのポーズをした。

「…………え?」
「これやると女の子が喜んでくれるんだって」
「……へ〜……」

薄笑いを浮かべ遠い目をする桜。
真波は思わず笑った。東堂さんを好きじゃないなんてすごい嘘をつくなあこの子。

「桜ちゃん」
「なに? 真波くん。ていうか『桜ちゃん』って」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
「名字忘れちゃってさー」
「真波くんやっぱりいいわー」
「ありがとー。あのね、桜ちゃん、東堂さんは誰より速く登るよ」
「…………」
「凄い、綺麗だよ」
「……そっか」
「うん。今度こっそり見においでよ。東堂さんに見つかっても俺のせいって事にしてあげるよ」

真波がそう言うと、桜は「真波くん本当に最高」と笑った。

「でもいいよ。ありがとう」
「そう?」
「うん。あと当然だけどこの会話尽八さんには内緒ね」
「うん」



「……って事があったんですけど〜、東堂さん桜ちゃんの事嫌いってほんとですかぁ〜?」
「………………真波お前な」

その放課後、二人で山頂を攻めている最中に真波は全てをあっさりと暴露し東堂に尋ねた。
東堂は深刻な頭痛に悩まされてる人のような顔で深い深い溜め息をついた。

「突っ込みたいところは山ほどあるが…まずは何より、何故『桜ちゃん』呼びだ?」
「えっそこですかぁ? ええと、名字聞いた筈なんですけど忘れちゃってー」
「お前な…。それから何故お前が桜に告白されている?」
「なんででしょうねー。桜ちゃん俺の事好きだって!」
「……」
「東堂さんの事は好きじゃないって言ってました〜」
「……」

普通に会話をしているが、二人は山頂に向けて緩やかな上り坂を駆け上がっている最中だった。他の部員はついて来れず、辺りには二人だけしかいない。

「ていうか俺、東堂さんに婚約者がいるなんて知らなかったです! なんで教えてくれないんですかずるい!」
「真波…ずるいの意味が分からないが…箱学で知らなかったのは多分お前だけだ」
「桜ちゃんも驚いてました」
「そりゃ驚いただろうよ。いろんな意味でな」
「東堂さん、なんで桜ちゃんに自転車乗ってるとこ見せたくないんですか?」
「……」
「桜ちゃん、自転車乗ってる東堂さん見たそうでしたよ。俺自慢しちゃいました」
「そうかそうか、自慢したくもなるだろうなぁよしよし。…だが桜は別に興味なんてないだろう」
「でも見に来るなって言ったんでしょ?」
「それは…あれだ。俺の華麗な走りなぞ見たら、桜が俺に惚れてしまうかもしれないではないか」
「……」

真波はこてんと首を傾げる。

「東堂さん、ごめん、俺全然分かんない!」

東堂は溜め息をついて、まるで出来の悪い小さな子供に言い聞かせでもするように、ゆっくりと話し出した。

「さっきお前が言ったように、婚約者といっても桜は俺の事を好きな訳ではない。あれは親同士が決めた縁談なんだ」
「はぁ」
「桜の家も箱根の老舗の旅館の一つでな、家とは昔から親同士が仲がいいんだ。商売敵ではあるがこの時勢に温泉旅館を存続させていく仲間同士でもあり」
「ふぅーん」
「桜は昔から自分の家業が大好きで、旅館の女将になるのが夢なんだ。うちは俺も姉も跡を継ぐ事にさほど熱意がないから、うちの親は酷く羨ましがっていたな。桜の家は彼女の兄夫婦が継ぐ事が決まっているのをいい事に、桜は東堂庵の若女将に貰い受けようと…親同士が盛り上がってしまって」
「へぇー。ドラマみたいですね〜」
「陳腐な昼ドラだよ。本人達の意思なんて関係ない」
「でも桜ちゃんは女将さんになりたいんだからちょうどよかったんじゃないですか?」
「本人もそう言っている。でもそれが本当に幸せか? 夢の為とは言え好きでもない男に嫁ぐ事が?」
「…ん?」

好きでもない男?いやいや桜ちゃんはどう見ても東堂さんの事…。
真波の思考を余所に東堂の語りは止まらない。もともと流れるように喋る男だ。

「桜はまだ恋を知らないんだ。恋も知らずに、旅館が好きだからという気持ちを大人に利用されているだけだ。旅館経営に必要な勉強や作法をあんなに一生懸命に学んで、今が花の女子高生が遊ぶ暇もなくて、可哀想だろう」
「そうですかねー。俺も東堂さんも遊ぶ暇もないくらい走ってるじゃないですか」
「馬鹿真波。俺達のこれは遊びだろう。全力の」
「桜ちゃんにはそれが勉強なんじゃないんですかー? だって楽しそうです。生きてるって顔してるし」
「……お前たまにさらりと核心を突くな」

東堂は呟いて、しかし、とその柳眉を寄せた。

「親の事ばかり悪く言えない。俺も彼女を利用しているんだ」
「東堂さんが?」
「ああ。うちの親は俺が自転車をやる事をよく思っていない」
「え」
「一刻も早く家業を継いで欲しいのに、いつ自転車の道に進むと言い出されるか気が気ではないのだろう。本当は今すぐにでも辞めさせたいらしい」
「俺そんなのやです絶対!」

思わず本気で叫んでしまった真波に、東堂は薄く笑った。

「しかし、若女将候補の桜と婚約していれば、ある程度俺の首に首輪を着けた状態を保てていると思うのだろう。親も自転車を続ける事を黙認してくれるという訳だ。…俺が桜との婚約を解消しない理由はそれだ。俺も親と同じだ、彼女を利用しているんだ。な、昼ドラだろう?」
「昼ドラ見た事ないんで分かんないけど東堂さん、お願いだから桜ちゃんとそのまま婚約してて下さいね。俺東堂さんが自転車辞めるなんて絶対やです」

真波のあまりの言い様に、東堂は今度こそ本気で吹き出した。

「お前、欲望に忠実過ぎるだろう」

だって仕方が無い。真波にとっては同級生の桜より東堂の方が大事だ。それに、東堂が思うより桜はずっと強かな気がする。どうも東堂の口から語られる桜は実物より大分美化されているような…。

「だが俺はやはり桜が不憫だよ」

まだ言うか。

「今は目的があるから、お互いメリットがあって婚約していると言える。だがもし桜が自転車に乗る俺の勇姿を見て俺に本気で惚れてしまったりでもきたら、それこそ可哀想だろう。予め決められた相手に恋をして嫁ぐなんて。だから俺は、桜に箱学に来て欲しくはなかった。傍にいて欲しくなかったんだ」
「はぁ」

この人のこの自信はどこから来るのだろう。凄いや、さすがは東堂さん、と真波は思った。

「桜とはこのまま距離を置いた付き合いを続けて、いつか桜に本当に好きな相手が出来た時は婚約を解消しようと思っている」
「……東堂さんって、桜ちゃんの事すごい好きなんですねー」
「…………おい真波、今の話を聞いてどうしてそういう結論になるんだ」
「だってそうでしょ、桜ちゃんの事めちゃくちゃ大事にしてるじゃないですか」
「…………」
「それなのに好きじゃない振りして、桜ちゃんに他の好きな奴が出来るのを待ってるなんて、東堂さん純愛ですねー」
「……はっきり言って可愛いとは思う。思うがそれとこれとは」
「東堂さん真面目ですよね。俺だったら婚約を利用して自転車も桜ちゃんも手に入れますけど」
「……」

東堂は毒気を抜かれた顔でぽかんとしている。真波は笑った。
緩やかな上り坂は、この先のカーブを過ぎれば激坂になる。その上は山頂だ。一番高い所。真波はまだ、この先輩に勝った事がない。

「東堂さん、羽根、出してもいいですか」
「あ?」
「風、来ます」
「ああ」

東堂が笑う。真波が坂で笑うと皆引くけれど、東堂だけは別だった。
だから東堂の純愛っぷりに内心ドン引きした事は内緒にしておこうと真波は思った。
天使だなんだと言われているが、実は本当に少しだけ天使っぽい技が使える自覚が真波にはある。無邪気な振りして引っ掻き回して、そしてくっつけるという大技だ。
東堂さんが自転車辞めちゃうのは嫌だから、という凄まじく自己中心的な動機で真波は必殺技を発動する事を決めた。



*彼と彼女の話・その2

「……来るなと言ったのに」

苦虫を噛み潰すような表情の東堂を見て、桜はしゅんとした。
真波山岳に呼ばれてうっかりレースを見に来てしまって。その上東堂尽八ファンクラブに見つかり、ボコボコにされるかと思いきや温かく迎え入れられて、A先輩の隣で東堂の『指差し☆』をまともに食らう羽目になってしまった。A先輩も死んだが桜も死んだ、東堂が馬鹿過ぎて。走る姿は確かにかっこよかったのに全てが台無しになった瞬間だった。
そしてレース後、表彰台から戻って来た東堂は不機嫌だ。
やはり、自分の大切な場所を、押し掛け婚約者などにずかずか踏み荒らされたくないのだろう。来るべきではなかった、と唇を噛み締めて俯いた桜の頭を、東堂が撫でた。唐突に。

「は!?」
「……その反応は女子としておかしくはないか」
「いえ…ちょっとびっくりしたので…」
「そうか。驚かせて悪かったな」

頭を撫でられるなんて何年振りだろう。本当に小さな子供の頃、まだ婚約だなんだという話が出るずっと前にはこうして何度も撫でてもらった。一緒に遊んだり、笑ったりした。
その頃から桜は東堂が好きで、初恋で、婚約の話は願ったり叶ったりだったのに。
東堂が難しい顔をするから、きっと迷惑なんだと思って、東堂の邪魔にならないように、これは愛のない政略結婚の為の婚約だと自分を騙し続けてきた。それでもこの男が欲しくて。
どんなに浮気をされまくっても利用されても、一生一緒にいられたらいい。
勿論東堂庵も大好きだから、自分は仕事に生きよう。
そう思っていたのに。

「……見られてしまったなら仕方が無いな。可哀想に、俺に惚れてしまったな」

しみじみ呟くこの男は何だろう。

「だから見せたくなかった。お前が俺に惚れなければ、逃がしてやる事も出来たのになあ」
「尽八さん? ちょっと意味がよく」
「桜ちゃん、東堂さんはね、自転車に乗る姿を見られたら桜ちゃんが自分に恋しちゃう!って思い込んでて」
「は!?」

桜は真波の台詞に目を剥いた。確かに走る姿は素敵だったけれどそんなのは今更だし、あの変な口上やら指差しポーズやらにはむしろ呆れ返った。それらを見て惚れただろうと決めつけられても…。

「あの、尽八さ」

否定の言葉を最後まで言えなかったのは、おっとりと微笑んだA先輩に口を塞がれたからだ。あのおしとやかなA先輩が口を塞いでくるなんて!? 桜はショックで固まった。

「ふふふ、小森さん、東堂様の素敵さに声も出せないみたい」
「そうかそうか。…ならば仕方が無い。責任を取らんとな」
「そうですね、東堂さんかっこいい!」
「ワッハッハ。もっと褒めろ真波」

そして、東堂は桜を見つめた。酷く優しく。子供の頃のような眼差しで。

すきだといっていいのか、と。

そんなふうに見られたら、桜は体中の力を抜くしかない。ほにゃりと。呆れ返っていたけれどやっぱり好きな人には敵わない。

大好きなのに相手の為に気持ちを押し殺して我慢に我慢を重ねてきた二人が、見つめ合う。余計なものを拭い去られた目をして。
まだそこにはたくさんの誤解と勘違いと思い込みとすれ違いがあり、とてもちぐはぐだけれど、これから二人でゆっくり、それらを取り除いていけばいい。そして、ふたりになればいい。

自覚のない当事者ふたりと、共犯者ふたりが、顔を見合わせて、いたずらっぽく笑った。




『文末企画』に参加させて頂きました)
文末「顔を見合わせて、いたずらっぽく笑った。」を作って下さったのはハルヒさんです。




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