校門を出ると肩の力が抜ける。どおおおんと襲ってくる疲れ。
また自分が俯いてるって気付いて、私は慌てて空を仰いだ。うす青い、春の空。
…やだなあこんなの。
クラスの女の子とも、もっと仲良くしたいのに。
知ってる。本当はこんなの私じゃない。
私はこれくらいで委縮するような気の小さい子じゃなくて、遠巻きにひそひそしてる女の子たちにだって平気で話し掛けて、笑いかけて、心の中に入って行って強引に友達になっちゃうくらいには逞しい人間のはず。なにしろあの自由気儘な人の娘だし。子どもの頃から母娘二人、ずっとアウトローに生きてきたんだもん。ちょっと空気読めないって思われるくらい慣れてる。そんな事障害にならないくらい人が好きで、みんなと友達になりたくて。
私を見るとちょっと目を吊り上げるクラスの女の子たちの事だって本当は好き。かわいいなあって思う。だってそれくらい不二くんや英二くんを好きって事だよね。焼きもち焼いちゃうなんてすごくかわいい。
だから私、本来だったら、彼女たちの輪に強引に入って行って腕を組んで不二くんの前に引っ張り出して、みんなまとめて仲良くさせちゃいたい。本当はそうしたい。それが本来の私。
でもそうできないのは……少し、怯えているから。
彼女たちに? そうじゃない。
何に怯えているのか、誰が怖いのか、自分でもはっきり分からない。分からないけれど、東京に来てから私は少しずつ変わっちゃった。気が付いたら息苦しくて下を向いてることが多くなった。ずっと、説明できないぼんやりとした不安に付き纏われてる。その不安感が私を臆病にさせてる。本来の自分じゃなくなってる。
本当はクラスで孤立しつつある事なんて大した問題じゃなくて、そんなの自分の態度一つで解決できるってわかってるのに行動に移せない。…悪いのは彼女たちじゃなくて、現状を変えられない私。
だから…やだな。
こんな自分はやだな。
こーちゃんが見たらどう思うかな。
空を見上げて溜め息を吐いたのと同時に、鞄の中でマナーモードにしていた携帯がブルブルと震えだした。…心臓が凍りつきそうになった。また、説明できない不安。
「……」
のろのろと携帯を取り出す間にもそれはずっと震え続けていて、メールじゃなく着信だって分かった。長く続くコール。途切れないで私が応答するのを待っている相手。
この時間中学生は部活中だから、こーちゃんじゃないのは分かってる。私が学校から出るタイミングを見ているかのように電話をかけてくる相手は、きっと。
「…やっぱり」
液晶画面に示された相手の名前を確認して、私は肩がずんと重くなるのを感じた。…なんで、重くなる必要があるのかはやっぱり分からないままだけれど。多分…多分私は、ちょっとだけこの相手が苦手なんだと思う。そんなふうに思うのは凄く恩知らずで駄目な事だけど。
途切れないコールに、仕方なく私は通話ボタンを押した。
「──もしもし。…叔父さん?」
叔父さん。ママの弟。私が居候させてもらってる相手。
『花音ちゃん、どうかしたの?』
叔父さんは「もしもし」も言わずに開口一番そう言った。
「え。どうかって…」
『電話に出るの遅かったね。今、下校中の筈だよね。電話に出られない時間じゃないよね』
「……」
…だ、だからこういうところが……その、苦手っていうか怖いって思っても仕方ないんじゃないかなあああ…。
『誰かと一緒にいるの?』
口調は穏やかなのになんだかぞわぞわする。私は一生懸命平気な声を取り繕った。
「いえ、一人です。ちょっとぼーっとしてたから」
『ぼーっとしてたの? はは、花音ちゃんは本当に姉さんと似てるなあ』
姉さん、って叔父さんが言うのは私のママの事。叔父さん曰く、私とママはとてもよく似てるらしい。外見も性格も。…外見はともかく、性格は…あの浮世離れした人に似てるとは思いたくないんだけどなあ。
「えっと、叔父さんは会社ですよね?」
叔父さんは会社員だから、会社にいて当然の筈の時間。でも私は半ば返事を予想しながら訊いていた。
『いや。今日は仕事が早く終わったから。もう家にいるんだ』
…ほらやっぱり。
『花音ちゃんも早く帰っておいで。今日の夕食は何かな』
「えっと、焼き魚とか、しようと思ってるんですけど…」
『それなら塩焼きよりムニエルがいいな。花音ちゃんは本当に姉さんに似て料理上手だから毎日助かってるよ』
「…は、はあ…ありがとうございます。あの、スーパーに寄って帰りますので」
『分かった。待ってるね』
叔父さんの機嫌の良さそうな声を最後に通話が終わる。
私はしばらく携帯を耳にあてたまま立ち尽くした。
…樹っちゃんとさとちゃんに教えてもらったやり方で、お魚の塩焼き、しようと思ってたんだけど……ムニエルはママの得意料理で私も慣れてるから別にいいけど……って、そうじゃなくて。
なんだろうこれ、って思う。
これ、普通なのかな?
私、普通の親戚づきあいとか全然してこなかったから分からない。
別に変な事言われた訳じゃない、ただの夕飯の献立についての会話。
それなのにどうしてこんなに…。
「こわいの…?」
呟いた途端に、携帯がまた振動して今度こそ心臓が止まるかと思った。
思わず取り落としそうになりながら慌てて画面を確認する。
──メール。差出人は『黒羽春風』。
…こんな事で、ほっとして涙が出そうになるなんてやっぱり私はちょっとおかしい。
ふにゃふにゃに緩んだ頭でメールを開いて、現れた添付写真に今度こそ私の緩すぎる涙腺が決壊した。
『元気してっか?そっちにはもう慣れたか?英語の授業むずかしくね?』
いかにもバネちゃんらしい短い本文と、写真。
──名前を呼ばれて振り返ったところを撮られました、ってかんじの、こーちゃんの写真。
ちょっと目を丸くしてる。油断した顔してる。さらさらの髪の毛が少し乱れてる。場所は多分六角中だ。後ろに桜の木が見える。
「……似合ってないなんて、こーちゃんの嘘つき」
学ラン姿が本当にめちゃくちゃかっこよくて大人っぽく見えて、でも表情がかわいくて、ああ、バネちゃんといる時のこーちゃんだ。
あったかい気持ちが溢れだして、こーちゃんもバネちゃんも大好きって思ったら心がつよくなるのが分かった。
理由の分からない怖い気持ちがほどけてく。息が出来るようになる。
「…ありがとう」
どこにいても空はつながっているから、私は大丈夫。