「こーちゃんっ!」
「…っ、馬鹿! 花音の馬鹿、人の気も知らないで何やってんだよほんとに…っ」
こーちゃんがこんなふうに取り乱して怒る事って初めてかもしれない。声が掠れてる。……泣かせちゃった。それ、全部私の為。私の事でこの人がこんなに揺れてるって思ったら私まで泣けてきた。
「こーちゃんごめんね、ごめんね…っ」
「……花音、本当に、もうお願いだから」
何処にもいかないで。
震える声でこーちゃんが言った。
こーちゃんもずっと怖かったんだ。私が自分の事だけでいっぱいいっぱいだったなか、こーちゃんは私を支え続けてくれながらずっと怯えてたんだ。私がこーちゃんの手の届かないところにいってしまう事。……この人は、私を失う事を怖いと思ってくれてる。
その事実に胸を突かれるより先に、私はただ純粋に盲目的に、こーちゃんのお願いを叶えたいってまず思った。こーちゃんが「お願い」するなら絶対に全力で叶えてあげたい、どんな願いでも私が叶えてあげたい。大好きだから。笑ってほしいから。悲しんでほしくないから。
だから。
「絶対もうどこにもいかない、こーちゃんのそばにいる。こーちゃんと一緒にいる」
必死で、全力で答えてた。絶対にそうしようって、こーちゃんが願ってくれるなら絶対絶対そうするって心から。
「……本当に?」
「本当」
「一生?」
「うん、一生」
「……………………分かった。信じる」
長い沈黙の後でやっと笑ってくれたこーちゃんの顔、私は一生忘れない。
泣きやんだばかりの赤ちゃんみたいな笑顔だった。「信じる」って言葉をこんなに素直に言われたのは初めてで。この人を裏切るくらいなら死ぬ。冗談じゃなく。シンプルにそう思った。
「…どうしよう。私まだこーちゃんと大事な話してないのに。いっぱい話さなきゃいけない事があって、そういうの聞いてもらってから、結婚しようって言ってくれた約束の事とかちゃんと二人で考え直さないとっていろいろ考えてたのに。一生一緒にいるなんて今誓っちゃって。こーちゃん後で後悔しても知ら」
「しない。後悔なんて。それに花音、一人でたくさん悩んでいたのは分かるしその気持ちは俺の為のものだと思うから嬉しい、だけどそんな話し合いは無意味だよ。話なら聞く。花音が聞かせてくれる気持ちになったときに、俺が聞く事が花音の助けになるのなら聞かせてほしい。でも辛いなら無理して話す必要はないし、ずっと何も言わなくたっていいんだ。俺が欲しかったのは花音の本心だから。今それを聞けたからいい。俺は一生君を離さない」
こーちゃんはほとんど一息に言って、それから「…だから、時間はたくさんあるから、ゆっくりいこうよ。ね」と笑った。
私は口が利けなかった。
好きな人が、世界で一番優しくて強くてかっこいい人だったなんて、知ってたけど知らなかった。私でいいのかな、いい筈ないんじゃないかな。こんな凄い人にはもっと相応しい素敵な女性がいる筈で…って言いたいのに言えない。こーちゃんが望んでくれてるのは私だから。
こーちゃん、物凄く完璧な男の子なのに、女の子の趣味だけが壊滅的だねって可笑しかった。
「…花音の泣き笑いの顔って、ほんとぐちゃぐちゃだけど凄く可愛いよね」
ほらやっぱり。こーちゃんの趣味は最悪だ。
「こーちゃんあのね、さっき分かったんだよ。私、ずっとこの海に帰りたかったの。でも一人で海に来て気付いた。海だけじゃ駄目なの。足りないの」
「足りない…?」
「うん。こーちゃんが足りなかった。さっきまで」
大きく見開かれたこーちゃんの目に、夜の海と私が映ってる。今はもう何も足りなくないって思った。こーちゃんが来てくれたから。
「こーちゃんが私の海だった。世界で一番綺麗な海。ずっと、帰って来たかった」
叔父さんの家で。
自分らしさをひとつひとつ失いながら、少しずつ息が出来なくなって沈んでいくようだった。
あの夜から私が生きてこれたのは全部こーちゃんのおかげ。私の中の綺麗なもの、大事なもの、人を信じる気持ち、強さ、全部真っ黒に塗りつぶされて何もなくなってただつめたい泥の中に沈んでいくしか出来なかった時期、こーちゃんだけが支えだった。どんなに自分の中が真っ黒に塗り潰されても胸の真ん中でぴかっとひかるもの。私の中でこーちゃんだけは綺麗なままで、そこだけは誰にも汚せなかった。それを自分の指針にして生きてた。嵐の中で船を港に繋ぎ止めるもやい綱みたいに。
世界中の綺麗なもの全部集めたみたいな鮮やかな青。澄んだ、世界で一番綺麗な水。
こーちゃんが私の海。
私の、恋の仕方はそんなふうだった。そんなふうにこーちゃんを好きになってた。
「……海、は」
夜で辺りは暗くて明るい物なんて何もない筈なのに、こーちゃんは眩しそうに目を細めながら私を見下ろした。長い睫毛の先に少しだけ水滴が残ってて綺麗だった。
「海は凄く好きだ。俺の大事なものなんだ。──花音と初めて会った時、初めて海を見たって言ってたよね。初めて見て、凄く好きになったって」
「うん」
「本当に海を好きになったんだなって分かったよ。呆れるくらい素直に一生懸命海を見ていたから」
「……呆れるくらいは余計」
くすくすと笑い合う。
あれからまだ1年も経っていないのに凄く遠い日のような気がした。
「あの時さ、俺の大好きな海をこんなに一生懸命好きになってくれて嬉しいなって単純に思ったんだけど……実は少し嫉妬もしてた。海に」
「嫉妬?」
「うん。この子にこんなに想われるなんて羨ましいなって」
びっくりした。
こーちゃんは静かに笑ってる。私は驚いてその顔をまじまじと見上げた。嫉妬? 誰が誰に? こーちゃんが、海に?
「……こーちゃん、って」
「何? 呆れた?」
「呆れたっていうか……そういうところ、全然見せてくれないよね。びっくりした」
「だってかっこ悪いだろ」
「かっこ悪い……」
そういう問題かなあ? でも。
「でもこーちゃん、嫉妬する必要全然なかったんだよ。だって……」
「うん。聞かせて?」
「……私があの時好きになったのはこーちゃんがいる海だもん。初めて海を見た時も、それから海に行く時はいつもこーちゃんがいてくれて。……大好きなのは海だけじゃなくて、こーちゃんがいる海なの。私は」
「うん」
「こーちゃんが好きなの。きっと初めて会った時から」
「うん」
うん、って返事と一緒に抱きしめられて、抱き上げられた。腰の高さまであった海水より上に。もう何度目になるか分からないけど本当に驚く。少しだけ会わないうちにこーちゃんの背が伸びて力が強くなってこんなことできるようになっちゃった事に。驚くし、どきどきするし、意味もなく泣きたくなるからやめてほしいなって思った。
「ねえこーちゃんこういうのやめようよ、私ほんとに恥ずかしいから!」
「どうして? 恥ずかしくなってくれても俺はいいよ?」
「私はよくない!」
ははっ、てこーちゃんは笑ったけど、それでも降ろしてはくれなかった。暴れてバランスを崩したらこーちゃんが危ないから私はおとなしくするしかない。ずるい。
「花音」
ほら、その声も! その呼び方もほんとにもうずるいから!
「花音。さっき、オジイの家で寝ながら泣いてた。…お母さんを呼んで」
「え? あー…それは、夢を見てたから」
「『私もそこに行きたい』って言ってた」
「は? あ、あー…それはええと…正確には『そんなにいいところなら行ってみたいなあ』くらいのかんじで…。あのね、こーちゃんが考えてるのとは多分全然違って、ほんとにどうしようもない夢だったんだよ! そんな深刻な話じゃなくてね、」
寝ながら泣いて、死んだママを呼びながら「私もそこに行きたい」って……それって凄くシリアスな状況にとれるよね?(実際はとても気の抜けるどうしようもない夢だったんだけど)しかもその後で私が海にざぶざぶ入って行くのを見つけたら……それ、もう誤解しても仕方ない。こーちゃんにどれだけの心労を与えたのか今更理解して、私は慌てて弁解しようとした。
「いいけどね」
こーちゃんは私の話を聞かずに、少し拗ねたみたいな言い方をした。
へ? い、いいんだ…。
「でも花音。花音がいつかお母さんの所へ行くときは俺も一緒だよ。嫌になるほど生きて、テニスチームが出来るくらいの子供と孫に囲まれて行くんだからね! 分かった!?」
「……………………」
「……花音? 返事してよ」
「………………あの、ええと…………テニスチームまではちょっと無理かなあって……」
「そこ!?」
こーちゃんの肩ががくりと下がったけど仕方ない。だってどこから突っ込んだらいいのか分からなくて。それからくすくすと笑いが込み上げてきた。
まったく花音は…って溜め息を吐くこーちゃんの首に抱きつきながら訊いてみる。
「ね、こーちゃん、それってプロポーズ?」
「っ……そう、だよ! 決まらなくて悪かったね」
「全然。凄くうれしい」
うれしいよ。ありがとう。
抱きついたままでこーちゃんのやわらかな髪にくちづけた。ら、引き剥がされて抱きしめ直されて唇にキスをされた。
どうしようこーちゃん、私たち物凄く馬鹿っぽいよ。三流のコントみたいだよ?
でも、うれしいって思ってしまってる私ももうどうしようもない。
「好きだよ、花音。君が本当に好きだ。──おかえり」
行き場がなく流されて漂ってた広い海の中でやっと私の港に着いた。ここが帰る場所。
重い荷物を全部投げ出して、大好きな人の腕の中で目を瞑る。
「……ただいま」