幼い指を絡めた





「花音、体冷たい。すぐ風呂に入って」
「こーちゃんだってつめたいよ。あったまらないと」
「──じゃあ、一緒に入る?」

悪戯っぽく笑ってこーちゃんが言う。私達は目を合わせて一緒にぷっと吹き出した。
このやり取りを前にもした事があったから。あれは真冬だった。剣ちゃんが行方不明になって皆で探して、満潮になった海で溺れかけた時。あの時も助けてくれたのはこーちゃんだった。

「いいよ、一緒に入ろ?」

あの時は一大決心で言った言葉、今度は簡単に言えた。

「え。花音、本気で?」

こーちゃんの方がびっくりしてておかしい。先に言ったのはこーちゃんなのに。

「本気だよー。ほら風邪ひいちゃうから早く!」
「…や、前も言ったけど俺はこれくらいじゃ風邪ひいたりしないから」
「じゃあ言い直す。こーちゃんと一緒に入りたいから、一緒にお風呂入って下さい」

今度こそ石のように固まってしまったこーちゃんの手をぐいぐい引っ張って私は歩き出した。



オジイちゃんの家はさっきと同じでしんとして、私達以外誰もいない。

「オジイちゃん、まだ帰ってないんだね」
「あ、さっき電話で、帰るのは朝になるって連絡が」
「そうなんだ。…いっぱい迷惑かけちゃってるね」

いくら弁護士さんが同席してくれていても、あの叔父さんとの話し合いがすんなり行く筈がない。たくさん嫌な思いをさせられているよね。私ひとり、当事者なのにさっさと逃げて来てしまったけれど。
オジイちゃんの家の懐かしいタイル貼りのお風呂にお湯を張りながら私は小さく溜め息を吐いた。

「それは花音が気に病む事じゃないよ」
「……うん」
「…まあ、花音には難しいかもしれないけど。花音は大人への甘え方をよく知らないから」

苦笑いしてこーちゃんが頭をぽんぽんと撫でてくれた。

「うーん。でも練習する。ちゃんと甘えるの」
「練習するんだ」
「うん。だって、どうしようもなくなったら大人に頼るの、本当に大事なんだって分かったから。それに私はもうオジイちゃんの娘になるんだから甘えないとかえって失礼、なんだよね」
「また難しい事考えてるな」

こーちゃんはくすくすと笑って濡れて髪をかき上げてる。

「花音はそのままでいいんだよ」
「そのまま…」

今は、それが一番難しい気がするよ。
ずっと自分を押し込めて小さくなっていたから呼吸の仕方も分からない。そんな、心細さがある。

「花音、大丈夫だよ」

私が不安になるとすぐに見抜いてしまうこーちゃんが、ふわっと笑って私の頬に触れた。てのひらがあったかくて心地よくて、猫みたいに顔をすりすりってしちゃう。甘え方ってこういう事なんだと思う。

「こーちゃんに触られると安心する」
「そう? じゃあいつでも触ってようか」
「いつでもって訳にはいかないけど…でも怖いときは手を繋いでくれる? 私、前よりずっと怖いものが増えちゃったから……急に、理由もなく怖くなったりしちゃうから」
「花音」

また抱きしめられた。
抱きしめられる度に距離が縮まっていく気がする。抱きしめられる事を体が覚えて、ぴったり隙間なくくっつけるようになってきた。こーちゃんの腕の中とか胸の感触とか、居心地良すぎてちょっと怖いくらいだなって思った。

「花音、大丈夫。いつでもいるから。俺がいて落ち着けるならいくらでもこうするから」
「……うん、すごーく、落ち着く。こうされると怖くない」

目を閉じて言ったらますますきつく抱きしめられて、「それはちょっと苦しい」って思わず笑いだしたらこーちゃんも少し笑って「ごめん」って腕を緩めてくれた。

「でもこんなんじゃどんどん駄目になっちゃう気がするなあ……」
「駄目に?」
「うん、こーちゃんに甘え過ぎて。こーちゃんがいないと何もできない駄目な子になっちゃいそう」
「…………」
「…こーちゃん?」

長い沈黙の意味が分からなくて顔を上げたら、こーちゃんはちょっと不思議な表情で私を見ていた。驚いてるような、呆然としているような、よく分からない表情。

「こーちゃん、どうかした?」
「え。…いや、何でもないよ。──花音は自分で考えるよりずっと自分に厳しい子だから、そんな心配はいらないと思うな。少なくとも俺に関しては、頼ってくれればくれるほど嬉しい」
「……そうかなあ」
「そうだよ」

笑うこーちゃんはもうすっかりいつも通りで、私は一瞬の表情の意味を聞きそびれてしまった。

「それより花音。風呂、本気で一緒に入るつもり?」
「え? 本気だけど」
「……」

オジイちゃんのお家のお風呂は浴槽がそんなに大きくないからすぐにお湯が溜まる。覗いてみたらもういいかんじだったから、私は「じゃあ入ろう!」とこーちゃんの手を引っ張って脱衣所に押し込んだ。
こっそり、小さく深呼吸して。
自分から服を脱いだ。濡れた制服のスカートをすとんと床に落として、セーラーのリボンを解いて。

「……花音」
「こーちゃん。さっき海で、私が話したくなったら話を聞いてくれるって言ったよね」

本当は、こーちゃんも聞きたくないのかもしれないなって思った。だってちっとも楽しい話じゃないし…不快な話だから。

「花音、無理に話さなくても」
「話さないでいる方がつらい。もうひとりで抱えたくない」

凄く酷い、身勝手な事を言ってるって分かってた。でも。
甘えていい、頼っていい、一緒に生きていくってこういう事でしょう?

「ごめんなさい。でもたすけてほしい。私の痛み、半分持って行って…?」

真っ直ぐにこーちゃんの目を見て頼んだ。こーちゃんはそれだけでもう痛いような真剣な目をしていたのに、私と視線を合わせるとふわりとやわらかく笑ってくれた。

「こーちゃん?」
「ん?」
「どうして笑うの?」
「うん、嬉しいから」
「……うれしいの?」
「うん。花音がやっと頼ってくれたからうれしい」
「やっと、って。今までだってずっと頼りっぱなしだったよ?」
「そんな事ないんだよ」

こーちゃんは凄く優しく笑ってる。私は信じられなくて少し震えた。

「花音が、自分の問題に俺を巻き込んでくれる事がうれしいんだ」

…ほんと、信じられない。こんなに優しい人がいるなんて。
今日はもう一生分泣いたって思うのに、まだ涙がぽろぽろ零れてきた。このままじゃ体がからからになってしまう。

「ああほらまた泣く……うん、でもいいよ。俺の傍でなら泣いてもいいよ」

笑いながら私の頬を指で拭ってくれて、こーちゃんはとても真面目な声で言った。

「半分じゃ足りない。花音の痛みを全部俺にくれる?」

こーちゃんって、本当、趣味が悪い。かわいそうになっちゃうくらい。
私みたいなのを好きになってかわいそう。
痛みを全部持って行くなんて絶対無理。でもそれがかなしかった。こーちゃんの願いを叶えてあげられないから。

「花音。体、見せて」
「……うん」

この人は全部を受け止めてくれる。もう何も隠さなくていいんだって思ったら物凄く安心して、私はセーラー服を脱ぎ捨てた。下着も外して、何も身につけてない状態でこーちゃんの前に立った。
こーちゃんは何も言わずに私を見てくれた。全部、目を逸らす事なく。

こーちゃんは去年の夏に水着姿の私を見てる。あの頃と今の私の体は全然違う。凄くくたびれてぼろぼろになっちゃった。
叔父さんに殴られた痕、抑えつけられた痕、抵抗したから乱暴にされて床や家具にぶつかった切り傷、擦り傷、痣。捻られた痕、鬱血の痕。酷かった傷は病院で手当てを受けてほとんど塞がっているけれど、痕はまだ生々しく残ってる。早く消えてほしいのにいつまでも消えないで、あれが現実だったって私に見せつける。食べられなくて吐いてたから痩せて骨ばってて全然女の子らしくない、今にも倒れそうな病人じみた体。
お風呂場から隙間風が吹いて、少しだけ震える。

「花音」

こーちゃんが壊れ物を触るみたいな優しい手つきでそうっと肩を抱いて引き寄せて、私の左の胸に手を当てた。

「心臓跳ねてる。…そんなに緊張しないで」
「…っ、無理…」

そんなの難し過ぎる。無茶言わないで、って抗議しようとした声はキスに飲み込まれた。

「…んっ……」

何度も角度を変えて唇を重ねられて、息するために開いた口に熱い舌が入って来てもう何も考えられなくなる。こーちゃんはそのまま私の左胸に置いた手をゆるゆると動かした。

「! やっ…」

恥ずかしさで頭が沸騰しそうになって縋りついたら、両手で強く抱きしめられた。…胸から手が離れて物凄くほっとした。

「……嫌だった?」

私の髪に顔を埋めるようにしながらこーちゃんが訊く。凄く近い場所でいつもより低く掠れた声がしてまた心臓が跳ねた。

「……や、じゃない…」
「…じゃあ、怖かった?」
「こわくもない……」

本当に怖くはなかった。叔父さんに触られたのと、行為自体は同じ筈なのに全然違った。怖くはないけどただ…。

「……でもものすごくはずかしいからできればやめてほしい……」

顔を見られないようにぎゅうぎゅう抱きつきながら呟くと、こーちゃんの手が裸の背中を優しく撫でた。

「ひゃっ!」
「また跳ねる…」
「笑わないで! だって恥ずかしいんだよ!?」
「ははっ…可愛いな」
「か……っ」
「可愛いよ、凄く」
「な……っ」
「花音」

本当に本当にこーちゃんは物凄く性質が悪いと思う、はっきり言ってしまえば「タラシ」だと思う。私が口をぱくぱくさせていると、こーちゃんはまた私をきつく抱きしめた。

「ころしてやればよかった」
「……え…?」

聞き間違いかと思った。でも。

「殺してやればよかった。あの男」

私を抱きしめながら、絞り出すように零れた声は震えていて。
こーちゃんが本気なんだと分かった。

「こーちゃん…っ、だめだよ」

こーちゃんにそんな想いを抱いてほしくなくて、そんな事で心を曇らせたくなくて、私は必死で彼の背中に腕を回した。

「だめだよそんなの。私といてそんなふうに思っちゃうならもう一緒にいられないよ。私のせいでこーちゃんが」
「──大丈夫だよ、花音。分かってる。驚かせてごめん」

ふ、と息を抜いてこーちゃんが力なく笑う。
それから「痩せちゃったね」って私の肩を優しく撫でた。

「俺が頑張って太らせないとな。手料理いっぱい作ってあげるね」
「……え。ええーと…」

急に話が飛んで付いていけない。っていうかこーちゃんの手料理ってあんまり期待できない。こーちゃん、台所では片付け専門の人だから。

「大丈夫。樹っちゃんに習って料理覚えるから任せといて。…その前に樹っちゃんも花音がこんなに痩せちゃったの見たらムキになって美味しいもの作ってくれるよ。間違いない」
「あ…」

こーちゃんの口から出た懐かしい名前。でも素直に喜べない自分がやだなって思った。

「あの、こーちゃん。ごめんね。私、樹っちゃんとかバネちゃんの事も…その、怖いかもしれない。まだ分からないけど。周ちゃんや英ちゃんの事すら怖かったし…。前みたいに皆と仲良くできるか、ちょっと怖い」
「……」

こーちゃんは黙って私の肩をとんとんと撫でてくれて、「じゃあ尚更、俺が料理頑張らないとな」と明るく言った。

「こーちゃん…」
「花音、無理しないで。俺がいるから。大丈夫」
「……大丈夫ってこーちゃんに言われると、本当に大丈夫になる気がしてくる」
「だろ? 花音は大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫」
「…もっと言って」
「うん。大丈夫だよ。だいじょうぶだいじょうぶ」


→ 約束は、祈り


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