いっしょにごはん | ナノ


ベビーパール・ティアラ 1


まず大切なのは、浄水じゃない、ふつうの水道から出る水を、なるべく勢いよく出してくんだばかりの水である、ということ。
しっかりと沸騰させて、でも沸騰は一度だけ。何度もわかし直したら、だめ。
まっ白な湯気があがるお湯を、あたためたカップに注いで(まちがってもやけどとかしないように、ここは細心の注意をはらうところです)。ティーバッグを入れるのはそれから。ゆっくりとしずかにお湯にしずめます。
3分間の砂時計の、砂が落ちきるちょっと前でティーバッグを取り出します。やはり、しずかに。
大事なのはそこでティーバッグをゆすらないこと。なるべく濃く出そうとしてゆらすと、えぐみが出るから。お湯の後にティーバッグを入れるのもそのためです。ティーバッグに水圧をかけないように。

いくつかのポイントに気を付けてていねいに心をこめていれれば、おとくよう50パック入りのティーバッグの紅茶だってじゅうぶんおいしくいれられるって、ふじくんに教えてもらいました。



「…うん、おいしい」

ひとくち飲んで、りょうくんが笑ってくれたからわたしはほっとしました。
りょうくん、こういうところで絶対におせじを言わない人だから。

パパのいないところで熱いお湯を使うのは、本当はだめって言われています。
でも今日はりょうくんのおうちのキッチンで、りょうくんがちゃんと横で見ててくれたから大丈夫だと思ってやらせてもらいました。パパにはないしょ。知られたらきっとうるさいです。

りょうくんの、ひとりぐらしのマンションのキッチンはとてもきれい。あんまり使ったあとがなくてぴかぴか。そして、物が少なくてがらんとしています。
…うちのキッチンなんて、たくさんのものでごちゃごちゃ。うさぎさんのミトンとか、ハートのかたちのおなべとか、あひるさんの計量カップとか(…ちなみに、計量カップなんてだれも使いません。かわいくて飾ってあるだけ…)。りょうくんのキッチンにはそういう余計な(?)ものがなんにもなくて、色も少なくて。ちょっと落ち着きません。

「りょうくん、ちゃんとごはん食べてる?」

使ったあとのないぴかぴかキッチンに、わたしは少し不安になって訊きました。…さっき、持ってきたケーキを入れるために開けた冷蔵庫もみごとにすっからかんでびっくりしたし。

「食べてるよ? 昨日は樹っちゃんちに行ったしさ、その前はサエのとこであの変なそぼろ丼食べたし」

「へんなそぼろ丼って! ガパオ!」

「そうそう、なんかそんなかんじの名前の。あれ美味いよね」

ずずず、とわたしのいれた紅茶を飲みながらりょうくんが笑いました。
…外食ばかりじゃ栄養がかたよるっていうけれど…いっちゃんの食堂やうちのごはんならだいじょうぶかな。でも今度りょうくんがSAE CAFÉに来てくれたときにはお野菜と果物を多めにのっけてあげるようにパパに頼んでおこう、とわたしはひそかに決めました。
…パパ。今はちょっと、思い出したくないひとだけど。

「で、今日はどうしたの?」

「どうしたのって…」

「さくらがここに来るときって、大抵サエとケンカしたときだろ。今度はどんな面白い原因なのか聞かせてよ。ネタにするからさ」

「…………りょうくーん…」

「何? 俺なんか間違ってる?」

「……まちがって、ないけど…」

つやっつやのきれいな黒い髪をさらりとゆらしてりょうくんが笑って、わたしはがくんとうなだれてテーブルにおでこをごっつんこしました。いたい…。

りょうくんは、作家さん、です。
本を書いてるの。すごいです。
わたしも読みたいけれど、りょうくんの本は漢字が多くてまだ読めません。

りょうくんはいつでも「ネタ」というものをさがしてて、いろんな方向にぴーんとアンテナをはっています。おもしろいなにかを見つけたときにきらっと目がひかるかんじがすきです。他のひとにはおもしろくもなんともないことでも、りょうくんのアンテナにひっかかったものは、りょうくんの中でまほうをかけられていきいきとした文章に生まれかわってでてくるんだって。って、ふじくんが言ってました。だからりょうくんはまほうつかい。

わたし、本はだいすきです。
しらない世界に行けるから。ちがうひとになれるから。

さえきさくらでいることがすきで、パパのむすめでいることがだいじだけど、本の中でちがうひとになれることはたのしいです。そこはすごく自由。

「サエはかなり自由にさせてるほうだと思うけど」

わたしのこころを読んだみたいなタイミングでりょうくんが言ってびっくりしました。

「…わかってる、よ」

「うん、さくらは分かってるよね」

紅茶のカップから立ち上る湯気ごしに見るりょうくんの顔はすごくやさしくて。こういう顔はあんまり見せてくれないひとのくせして、このタイミングでずるいなあって思いました。

「あいつさあ」

あいつ、ってパパのこと。
サエ。おまえ。あいつ。あのやろう。パパのおともだちがパパを呼ぶときの言い方が、すき。言葉はらんぼうでもすごくやさしくひびくのがわかるから。

「はたから見てるとね、そりゃいろいろと危なっかしいよ。あののほほんとした奴が一人で子育てしてるんだから。あいつのやり方は一見放任主義に見えるし、親切のつもりでいろいろ言いたくなる人間はたくさんいるだろうね」

「…うん」

たくさん、たくさんいる。
「心配」って言葉をふりかざして、ひとのこころに土足でふみこんでくる、親切そうな顔をしたたくさんのおせっかいさんたち。

「サエも顔だけはいいし、相変わらず無自覚に無防備だし、そういうところに付け込もうとする人間だっているよね」

「……」

そう、いる。
わたしはまだ小学1年生だけど、ちっちゃくても女だからわかる。
うんざりするくらい見てきました。それこそようちえんに入る前から。

まずわたしにやさしくして、わたしをかわいがって、パパに近づこうとする女の人。わたしを心配するふりして、わたしたちのなかに入り込もうとする人たち。

この世界はやさしいことばかりじゃなくて、きれいな顔とやさしい言葉の後ろにかくれている、息がつまるようなどろどろとした苦しいきもちがいっぱい。

わたし、けっこうつよい。
パパがだいすきだし、大事だし、ふじくんもダビデくんもバネちゃんもけんたろうくんもいっちゃんもさとしくんもりょうくんも、みんながついててくれるから。
だから普段は、「一人で子育てするなんて大変じゃない?」とか「さくらちゃんにちゃんとリズムの整った生活させてるの?」なんてパパに言ってくるおねえさんやおばさんがいても、パパの前に立ちはだかって「だいじょうぶです! ご心配ありがとうございます!」ってにっこにこ笑顔で言えるくらいつよいんです。
毎日のようにぶつけられる言葉の小石にいちいちへこたれてなんかいられません。

そんなこうげきされるすきを見せないように、どりょくもおこたりません。
「お母さんがいないから」なんて言われないように、はやねはやおき、ちゃんとします。学校でねむそうな顔なんてしません。なんでもよく食べて健康そのものだし、はみがきがんばってるから虫歯も一本もないの。お勉強だってクラスでいちばんです。わすれものもしない。「お父さんお忙しいし仕方ないわよね」なんてぜったいだれにも言わせたくないから!

でも。

「…わたしが、パパの『さまたげ』になってるっていうのは…もうどうしようもできないもん」

「妨げ、って」

りょうくんがきれいな目を丸くして、それからひゅっときつく細めて「誰に言われた?」と訊きました。

「……」

「さくら。言って」

ちょっときびしい声。

「…おんなのひと」

「女」

女、って吐き捨てるりょうくんの言い方は少しこわいです。

「この頃お店によく来てて、いつもパパに話しかけてて、わたしにはリボンとかくれたりして」

「サエ狙いか」

ずばり言い切るりょうくん。
えーと、うんまあ、その通りですけど。
そのおねえさんはいつでもとてもきれいな、気合いの入ったかっこでお店にやってきていました。ご近所さんばかりののんびりしたふんいきのカフェではちょっと浮いたのは、たしか。わたしにはいつでもやさしかったけど、なぜかこわい気がしてました。そのひとのこと、ふじくんもあんまりすきじゃないみたいだったし。常連さんの高校生のおねえちゃんたちなんかはっきり「むかつく女!」って言ってた。

パパは、まあ。あの調子なので。ふつうににこにこして、他のお客さんと同じようにせっしてました。時々つっこまれた質問されたりなれなれしくさわられたりしても、さらっと笑ってかわしてて。
…たぶん、あせったんだと思います、あのおねえさん。どんなに笑顔で、優しい言葉を返してくれても、仲良くなれたつもりになっても、パパってええと…のれんにうでおし? そんなかんじ。こころの中まで踏みこませることは絶対ないから。
パパのこころをうばえないって気づいて、かなしくなって、そしたら、パパのいちばんそばにいるわたしに矛先がむかった。そんなところだと思います。

『ねえさくらちゃん。あなた、お母さんのところへ行くつもりはないの? 普通離婚した夫婦って母親の方が子どもを引き取るものよね。ねえ、あなたの存在がどれだけ佐伯さんの妨げになっているか考えた事あるかしら。ないわよね。あなたはいつでも愛されて守られているお姫様だものね。でもそろそろ考えてもいい頃じゃないかしら。1年生でしょう。あなたの大好きなパパの幸せを邪魔しているのは誰かしら。パパの為に何かしてあげられる事があるって思わない?』

ねえ、さくらちゃん?

夕日の中。わたしがおつかいから帰って来てひとりのところをねらったみたいなタイミングで。
いかにも優しそうな表情を顔にはりつけて、ゆっくりと、ききわけの悪い子どもに教えるように、私の目をまっすぐに見て言った彼女。夕日のオレンジに照らされて、彼女のくちびるが赤く光っていました。すごくすごくこわかった。わたしはつよいはずなのに。そんな言葉、慣れているはずなのに。

…考えたことないわけないよってさけびたかった。いつでも考えてる。でもそれがまちがいだってことも知ってる。そんな気持ちに負けたらいけないって知ってるから立っていられる。

あなたこそ、パパのこと何も知らないくせにかってなこと言わないで。
そんな子供っぽいようちなせりふが、のどにひっかかって消えました。結局なにも言えなかった、わたし。

「……成程、よく分かった」

りょうくんが、紅茶のカップをテーブルにおいて、うでぐみをしてうなずきました。しずかに。
それからふっと笑って、

「こんなときでもやっぱり泣かないんだな、さくら」

って言うから。わたしはうーんとあいまいに笑いました。

「あ、その顔、サエそっくり」

「……そうかなあ」

「そうだよ」

それ、よく言われるけどわかんない。
パパにそっくりだったらうれしいなあって思うけど、わたし、自分ではあんまりパパに似てない気がしてます。

「ねえりょうくん、この話、『ネタ』になるかな?」

わたしの問いかけに、りょうくんはいたずらっぽく目を光らせてくすりと笑いました。

「勿論。すげーいいネタになったぜ。ありがとな、さくら」

「うん」

役に立てるのは、うれしい。

夕日の中でおねえさんに会った日から、わたしはうまくごはんが食べられなくて、夜あんまり寝られなくて、信じられないことにすこーしだけだけどおねしょとかしちゃったりして、もうあんまりなさけなくて泣きたい気分。
おねえさんの言葉がむねの中でつめたくかたくおおきくなっていって、いつでも苦しくて。
なによりこんなことに負けてる自分がくやしくて。

だけど、ぜったいパパには言いたくない、です。
心配して、心配して、最近ではすごくあせってるのがわかる、パパ。なやんでる。自信をなくしてる。…ごめんなさい。そうさせてるのがわたしだってことがなによりつらい。でもどうしても言えないの。
優しいことばをくれるだろうふじくんにも、ぎゅっとだきしめてくれそうなダビデくんにも、あかるくはげましてくれそうなけんたろうくんにも、本気で怒ってくれそうなバネちゃんやさとしくんにも、いっしょに泣いてくれそうないっちゃんにも、言えません。

…りょうくんだけ、って思った。
りょうくんだったらぜったい、わたしをなぐさめたりあまやかしたりしない。守ってくれようとしない。『ネタ』にして、おもしろがってくれるって思ったから。わたしが今ほしいやさしさは、そういうしゅるいのものだったからです。
だから、今日、ひとりでここに来ました。

りょうくんのところにあそびに行きたいの。
わざとパパが買い出しに出ている時をえらんでふじくんに言ったら、ふじくんは何かをわかったみたいな顔で笑って、りょうくんのすきなケーキをお土産に持たせて送り出してくれました。
「はやく帰って来るんだよ。パパが心配するからね」って、優しく髪をなでてくれながら。

「サエの奴、めんどくさいのに目付けられたんだな。さくらも苦労するな」

りょうくんがテーブルごしに手を伸ばして、頭をなでてくれました。

「しょうがないよ。パパ、もてるもん」

「いや、あいつが悪い。あいつがいい加減無自覚過ぎんのが悪い。昔からそうだった。そのせいで周りの俺たちがどれだけ迷惑を被ってきたことか……ああ思い出したらムカついてきた。クソ、サエの奴あれもこれもまたネタにしてやる! しかもあいつをネタにすると評判いいんだよな、それがまたムカツク!!」

「……あはは…」

「さくら、俺、さっきの話、しっかりきっちりネタにして書き上げるから。忽ち重版間違いなしの大ヒット、傑作を生み出してやるから」

「う、うん」

「だからもう傷つくな。時間のロスだ。お前の人生の損失だ」

傷つくな。って。
泣くなとか忘れろとか元気出せとかじゃなくて、傷つくなって。
それはすごく、りょうくんらしい励まし方で。言われてはじめて、こころがざっくり傷つけられていたことに気付きました。

「お前が受けた痛みは、読者が共感し、苦しみ、乗り越えて昇華する作品になる。俺がそういう本を書く。だからお前はもう苦しまなくていいよ。『いいネタもらった』ってせせら笑っとけ!」

…せせら笑うって、どんなの?
って戸惑っていたら、りょうくんが実際にやってくれました。わあ、すごい、むかつく笑い方だ。これをあのおねえさんの前でやってやればよかったんだ。

「…りょうくん、ありがとう」

おかしくなって、ふわんとこころがかるくなって、笑ってお礼を言ったら、りょうくんってば「ちがう、こうだ」とさらににくたらしく『せせら笑い』のお手本を見せてくれるから。もうおかしくておかしくて、わたしはおなかをかかえて笑いころげてしまいました。

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