いっしょにごはん | ナノ


ベビーパール・ティアラ 2


俺は今、とても分かりやすく落ち込んでいる。

さくらと二人で故郷に戻って来てからの日々は平和で、俺はもう半分隠居の気分で生きている。親であるという事は、自分の人生における優先順位の一位が自分ではなくなるという事だ。妻と別れる事を決めてからの俺は、自分でも驚くほど欲が少ないと思う。さくらとの穏やかな日常があればそれでいい。
だから、この俺を落ち込ませる原因なんて、実はかなり少ない。

「少ないっていうか、さくらちゃんしかないでしょ。今の佐伯の心を揺らせるものなんて」

「…………」

「佐伯、君ちょっとめんどくさい人になってるよ。悩んでるのも落ち込んでるのもさくらちゃんでしょ。佐伯までつられて落ち込んでてどうするの。君は親なんだからどーんと構えてあげないと」

「…………」

「ちょっと佐伯、聞いてる!?」

「……うん、聞いてるよ不二」

午後3時半、ランチタイムが終わった店には誰もいない。もうすぐ夕方の混む時間になる、それまでの僅かな静寂の時間。
俺はカウンターに沈没しながらへらりと笑った。笑った、つもりだったがそれは単に唇の端を歪めたに過ぎなかったらしい。アップサイドなんたらかんたらとかいう林檎のケーキを仕込みながら、不二が「変な顔」とずばり言ってくれた。
優しげな顔をして誰にでも人当たりよく穏やかなこの幼馴染みは、どういう訳か俺に対してだけはまるで容赦がない。その上、言う事の全てが嫌になるほど的確だ。

──さくら。
さくらの様子がおかしい。元気がない。
数日前、「ただいまー!」と帰って来た時の声が元気過ぎた。作った声だった。俺も、それから不二もすぐに彼女の様子がおかしいことに気付いたけれど、いつも通りに元気に振舞おうとする彼女の努力が痛いほど伝わってきて、何も訊けなかった。気付かない振りをした。
子どもの世界にだっていろいろな事がある。ちいさな心を傷一つ付かないように守ってやりたくても、そんな事は出来やしない。さくらは毎日たくさんの傷を乗り越えて生きている。
けれど。今回の傷は、根が深いようだった。
昼間は元気に明るく笑っていても、夜、寝る前。急に不安そうに瞳を揺るがせる。しっかり準備した筈のランドセルの中身を何度も何度も確認して、何度確認しても心配が消えない様子で俯いて…夜もなかなか眠れないようだった。
それでも、朝になれば元気な顔を作って学校へ行くさくら。

「小さい頃は、俺にしがみついてわんわん泣いてたのにな…」

思わず溜め息を零す俺を、不二は可哀想なものを見る目で眺めた。「鬱陶しい」と顔に書いてある。

「…あのね佐伯」

「分かってるよ、さくらはもう赤ちゃんじゃない」

「うーん、まあ…分かってるならいいんだけどね」

さくらに、全てを話して欲しいとは思わない。いや本音を言えば思うけれども、確実に成長している彼女にそんな事を望むのは親のエゴだと思っている。
さくらが、がんばってひとりで乗り越えようとしているなら、俺はそれを助けたい。でも…。

「…俺って駄目だよな……」

最悪なのは、俺がさくらの様子に気付いてみっともなく心配しまくっている事を、当の彼女に悟られてしまっている事だ。
さくらは、俺の動揺に気付いてる。俺を心配させまいとして笑ってる。

今朝、さくらが学校に行く前。
俺はついに我慢が出来なくなって言ってしまった。「何か悩みがあるなら言って欲しい」と。
それに対してさくらはびっくりした顔で「なにもないよ!」と答えた。答えてから、思い切り「嘘をついちゃった」という顔をした。自分を責めているのが分かって、俺は「さくらは何も悪くないよ」と言った。さくらはまたひどく驚いた顔で俺を見て、それから小さな声で「…そんなことない」と呟いて俯いた。

最悪だ…俺が。

「…………」

ずぅん、と重くなる頭。情けないが俺は落ち込むことに耐性がない。普段何も考えずに生きている(というのは不二の弁だが、当たらずとも遠からずだと自分でも思う)ツケはこういう時に回ってくる。ぐるぐると暗い思考に支配された額を冷たい木のカウンターに伏せると、微かな溜め息と共にぽすんと頭を撫でられた。
幼馴染みの、細い指。子どもの頃と同じ励まし方。

「佐伯」

少しトーンを落とした、柔らかい声。顔を上げなくても、今不二がどんな表情をしているのか分かる気がした。きっと呆れたみたいに笑ってるんだ。
子どもの頃、おとなしそうな顔をして大胆な事をやらかすのは大抵不二の方で、俺はどちらかといえば彼のフォローをする役だった。でも時々、本当に時々、その立場は逆転した。ちょうどこんな風に。

「…さくらちゃんはね、君にそっくりなんだよ」

「……全然似てないよ」

俺はあんなにしっかりしてない。あんなに頑張り屋でも意地っ張りでもない。あんなに、毎日頑張って生きてないし、誰かを幸せにする事も出来ない。さくらと俺は全然違う。

「似てるよ」

不二は今度こそ笑いながら俺の頭を掻き回して、「だから余計に見えないのかもね」と呟いた。

「…何が」

むっとして顔を上げると、目の前に買い物かごが突きつけられた。さくらお気に入りの、可愛らしい小花柄の布が内張りについている、大の男が持って歩くには少し恥ずかしいシロモノだ。不二は有無を言わさぬ笑顔でそれを俺に受け取らせた。

「はい、気分転換。買い出し行って来て、佐伯」





輸入食材を扱う店でスパイスを買い、文房具屋で修正ペンとセロハンテープを買い、薬局で洗剤を買う。
その先々で「あら、今日はサエちゃん? さくらちゃんじゃないのね」と声を掛けられた。薬局ではタワシをおまけに貰った。これがさくらだったら飴をくれたところだろう。自分の昔馴染みの場所に、いつの間にかさくらが馴染んでいる事がなんだか不思議な気がした。

不二に押しつけられた買い物メモを確認し、最後にオレンジを買う為に果物屋に向かう。と、背後から声を掛けられた。

「サエさん!」

声だけで相手は分かる。振り返ると案の定、商店街の人混みの中でも飛び抜けてでかい男が少し駆け足で俺の傍までやって来た。

「やあダビデ」

「うぃ」

ダビデは肩にエコバッグ、手には薬局のビニール袋を提げていた。

「くすり屋行ったら、ばあちゃんに今サエさんが来たとこだって言われて」

「追いかけてきてくれたんだ?」

「これ、おまけに貰った」

ダビデが少し嬉しそうに見せてくれたのは飴。さくらと同レベルだ。

「俺はタワシ貰った」

「タワシ……タワシを貰ったワシ…ブッ」

「ははっ、ダビデは面白いなー」

「…俺のダジャレで笑ってくれるの、昔からサエさんだけ」

「そうだっけ?」

「うぃ。あと、最近では不二さんも」

「あはは! 面白いのになー」

「サエさん。くすり屋のおばちゃん、サエちゃんこの頃実家帰ってるのかって心配してたよ」

「……」

昔馴染みの商店街はとても居心地が良くて、そして居心地が悪い。俺は曖昧に笑ってダビデの台詞を聞き流した。
ダビデは黙ってついてくる。俺も特に話す事もなく、なんとなく二人並んで賑やかな商店街を歩いた。
果物屋が見えてきたところで、ダビデが唐突に(と言っても、この後輩はいつでも大体唐突だ)口を開いた。

「サエさん、もしかして具合悪い?」

「……」

こいつは…ぬぼーっとしてるくせになんでこう目敏いんだ。動物的勘ってやつだ、きっと。
そっけなく「別に」と返すと、ぐっと肩を掴んで体の向きを変えさせられた。はあ!?

「ちょ、ダビ!?」

通行の邪魔にならない道の端に連れて行かれて、強引に顎を掴まれて上を向かされて。
俺の顔を至近距離からまじまじと覗き込んで、ダビデは「やっぱり。顔色悪いよサエさん」と言った。ていうかこの体勢!

「こら! 離せって」

全くいくつになっても変わらない。俺は怒るよりも可笑しくなってしまって、笑いながらダビデの端正な顔を正面から平手でぱちんと一発殴ってやった。

「い、痛い…。さすがサエさん、容赦無い」

「馬鹿」

けらけらと笑う俺に、ダビデは恨めしそうに鼻を押さえながらも「…さくらの事?」と訊いてくる。俺は溜め息をついた。

「まったくお前は…」

実家の話題の時のように、流してくれる気はないらしい。

「サエさんが悩むなんて、さくらの事くらいだよね。さくら、どうかしたの?」

「……」

いや、図星だ。図星なんだけどさ……。
不二にしろダビデにしろ、俺ってそんなに普段悩みのない男に見えるのか? 少し不安になった。

「サエさん、さくらの事だったら、俺」

ダビデが真剣な顔で何かを言いかけた時、俺の上着のポケットから唐突に「ぽーにょぽーにょぽにょさかなのこー♪」という能天気な歌が流れだした。

「……サエさん、その着信音って何…?」

台詞の続きを奪われたらしいダビデが、がくりと肩を落として力なく訊いてくる。
俺はそれどころじゃなかった。何故ならこの着信音は、さくらに持たせている子ども用携帯専用のものだったからだ。防犯ブザーを兼ねたお守りの意味で持たせたそれを、今までさくらが使った事はない。俺は慌てて携帯を取り出し、着信ボタンを押した。

「──もしもし!? さくら!?」

さくらの名前を聞いて、ダビデもはっとした表情になったのが分かった。俺の携帯の音声を聞こうとでもするようにぐいぐいと頭を押し付けてくる。ちょ、痛いし重いしうざい!
そんな、馬鹿馬鹿しくも真剣な俺たちの耳に飛び込んできたのは、予想もしていなかった声だった。

『…あー……サエ?…』

「…へっ?」

一瞬頭が真っ白になる。息がかかりそうな近さでダビデが「亮くん…?」と呟いてはっとした。そうだ、これは亮の声だ。

「亮!? なんでさくらの携帯から電話してくるんだ!? さくらがどうかしたのか!?」

「サエさん落ち着いて」

「うるさいダビデ、あと近い! 亮、一体なんで…」

『あー、サエ、ごめん。さくら今俺の家に遊びに来ててさ』

「は!?」

聞いてない。けどまあ、それはいい。さくらが亮の家に遊びに行く事は今までにもあったし…。

『うんまあ、それでさ。ええと…さくら、酔っ払っちゃったから迎えに来てくれる?』

「「────はぁ!?」」

…今度こそ、俺とダビデの声が重なった。

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