いっしょにごはん | ナノ


グリーン・ライラック 7


『────ふぅん。なるほどね』

電話の向こうのふじくんの声は遠く、後ろからはざわざわと外国語が聞こえました。

わたしはつめたい受話器をにぎりしめて、地球の反対側にいるふじくんに甘えるみたいに目を閉じました。わたしの姿が見えたみたいに、ふじくんがふふっと笑ったのが空気の音でわかりました。

真夜中の、誰もいないお店の中。
わたしはカウンターの席に座って、外国にいるふじくんと電話で話していました。



あれから。

いつまでもコートの中で泣いてるわけにはいかなくて、わたしはすぐに気を取り直して、パパの携帯からバネちゃんに電話をしました。大人4人は気持ちよくへとへとになって寝こけたままで、まったく役に立ちそうもなかったから。本当、男の人って勝手ですよね!
すぐに飛んできてくれたバネちゃんは、惨状を見てぽかんと口を開けて、それから目を吊り上げて全員を怒鳴りつけ叩き起こしてくれました。
タクシーを呼んで、まだぼうっとしているリョーマくんを押しこんで帰して。
あとべさんはどうにか立ち直って自分で電話して、迎えに来たものすごくぴかぴかの黒い車に乗り込みながら、「じゃあな。いい女になった頃にまた来るぜ、さくら」とかなんとか超絶おバカさんなことを言って去っていって。
ダビデくんも、バネちゃんにお尻を蹴られながらなんとか立ち上がって、コートの片づけをしました。

で、パパはというと。
バネちゃんがどんなに怒鳴っても叩いても起きずに、平和そのものの顔ですぴょすぴょ寝ているものだから、仕方なくバネちゃんとダビデくんが交代でおんぶして家まで連れて帰って来てくれました。
軽々とパパをおんぶしながら、「軽くなったなー、こいつ」とぽつんと言ったバネちゃんの言葉が胸に引っかかったわたしに、ダビデくんがまじめな顔で「明日からサエさんを甘いもの攻めにしよう、さくら。ダビデスペシャル食べてもらおう」と言って、なんだか笑ってしまいました。

パパはそのまま一度も起きずにベッドで眠ったまま。
真夜中に電話が鳴って、パパを起さないように急いで出てみたら、ふじくんからの国際電話でした。
ずっと電波も通じない場所にいたけれどやっとホテルに戻って来れたから、と笑った後、ふじくんは優しい声で言いました。

『何があったの、さくらちゃん』

何かあったの、じゃなくて、何があったの、って。
わたしの声の色だけでいろんなことがわかっちゃうふじくん。

パパを起さないように、子機を持ってそうっと階段を下りてお店に移動して、今日あったことをふじくんに話しました。そもそもリョーマくんもあとべさんも、ふじくんに用があってわざわざ来たわけだし。
ふじくんは、わたしの要領を得ない下手な説明をいちいち相づちを入れながらちゃんと聞いてくれて、『ふぅん、なるほどね』と言いました。
ふじくんのいないところで、ふじくんの荷物のこととか、勝手に話が進められちゃったみたいで気がかりだったけど、その返事を聞いたらほっと気が抜けました。

『さくらちゃん、大変だったね。おつかれさま』

「や、大変とか、そんなことはないけど…なんかびっくりしたの、いろいろ」

『跡部とか、いいキャラでしょ』

「あはは」

あの強烈な個性を放つ人を、「いいキャラ」とあっさり言い捨てるふじくんにわたしは笑いました。

「それよりふじくん、マンションの方はだいじょうぶなの?」

『ああ、それね。すっかり忘れてたよ。越前もわざわざ千葉まで来るなんて律儀だよね。あははは』

「あはははってねえ…」

『うん、後で佐伯にも聞いてみるけど、多分僕の資料は跡部が全部引き取ってくれてると思うんだ、その流れなら』

「あ、そうなんだ…」

そう言えば、「俺に任せな」とかなんとか言ってたな。
あとべさんって何者なんだろう。ふじくんに仕事の依頼をしたり、パパを引き抜こうとしたり、リョーマくんにはスポンサーとか言ってた。実はすごい人なのかなあ。

『さくらちゃん、跡部に感心することないよ。僕に恩を売っといて、なるべく有利な条件で契約させようと思ってるだけだから』

「…え。ふじくんはそれでいいの?」

『まぁね。跡部の仕事は今までも何回か受けてるし。彼が持ってくる話は面白いから嫌いじゃないよ、大丈夫』

「そっか。よかった」

『ありがとう。心配してくれて』

クスクスと笑うふじくんの声が、雑音にまみれてガサガサして聞こえます。
はやく、ちゃんと近くで聞きたいな。

『──さくらちゃん』

「はい」

『さくらちゃんは、大丈夫?』

うん。
だいじょうぶだよ。わたしは元気です!

…もしも相手がふじくんじゃなかったら、いつもみたいに笑ってそう言って、安心させてあげることができたんだけどな。わたし、そういうの慣れてるんです。
だけどふじくんには通用しないのわかってたから、ちょっと黙りました。
それから、口が勝手に動くのにまかせてみようって思って、何も考えずに息を吸って、口をひらいてみました。

「…だいじょうぶじゃ、ないよ」

ああほら、やっぱり。
本音がぽろぽろと出てきて止まりません。

「ふじくんがいなくちゃ、ぜんぜん大丈夫じゃない。ふじくんおねがい、はやく帰ってきて」

なんてわがまま。
ふじくんは大切なお仕事をしてるのに、こんなこと言ったらだめなのに。

それなのに、ふじくんの『うん』って声が優しくて、わたしのわがままな口はますます止まらなくなります。

「ねえふじくん、あとべさんってなあに? パパをつれていっちゃうの? パパは、ほんとうはちがうお仕事がしたいの? ここにいたくないのかな」

『さくらちゃん』

「今日ね、はじめて本気でテニスするパパを見たの。今まで見てきたパパのテニスとぜんぜんちがった。わたしの入っていけない世界だった。あんな楽しい、こわい世界を知ってるのに、パパはどうしてふだん本気でテニスしないの? 本気になったら、戻って来れないから…? ねえふじくん、パパは、いつも、本気になることから微妙に逃げてる気がする。それはわたしのせいなのかな」

わたし、ずるい。
パパにはぜったい言えないこと、ふじくんにぶつけてる。

『…さくらちゃん』

ふじくんが電話の向こうでふわりと笑った気配がしました。見えないけど、わかりました。伝わってくる空気の動きで。

『さくらちゃんって、本当に佐伯とよく似てる』

「え…?」

『そっくりだよ、君たち親子。お互いを思いやってるところとか、他人の事は驚くほど見抜くのに、自分の事には無頓着なところとか』

「ふじくん?」

『さくらちゃん、僕はね』

なんだか微妙にはぐらかされてる気がして名前を呼んだわたしのせりふは、ふじくんの、あまくかすれるような声にかき消されました。

『君たちのそういう不器用なところがとても好きだよ。放っておけないし、人を散々振り回してくれるし、迷惑で厄介な性質だけど。とても、美しいと思っているよ』

がさがさ。
ひどい雑音混じりの、遠い遠い国から届くふじくんの声。
言われてることの意味はちっともわからなくても、無条件に、ぜんぶを預けたくなる声。

『──さくらちゃん、泣かないで』

くすりと笑いながら言うふじくんは、やっぱりぜったい、どこかでわたしを見てるんじゃないかと思いました。

『君の疑問に、僕は答えることができると思う。本気になることから逃げているのは僕も同じなんだ。佐伯の気持ちも分かるよ。誰もが皆、跡部や越前みたいに自分の信念だけを貫ける訳じゃない。でもねさくらちゃん、君はまだ理解する必要はないけれど、逃げるとか逃げないとか、そんな事は大した問題じゃないんだよ』

「…すごく、たいしたもんだいに思えるんだけど」

『うん、さくらちゃんみたいな若い子はそれでいいんだ。でもね、一番大切なものがあれば、それを守る為なら、犠牲とか我慢とかそんなの本当に大したことじゃないんだ。そりゃ諦めてるものはたくさんあるけど、選びとったものが人生だから。大切なものがあるだけで、自分の軸になるから』

「……ふじくん、むずかしいよ」

『あはは。でもさくらちゃん、佐伯に関しては君が思うよりずっと簡単だよ。よく見てごらん、君のパパは何も諦めてなんかないって分かるから。むしろ全てを手に入れてるんじゃないかと思うよ。羨ましい限りだよね』

「……」

ふじくんの言うことはやっぱりむずかしい、です。
だけど、むずかしい言葉でわたしをごまかそうとしてるんじゃなく、真剣に話してくれてるのはわかりました。だから。

「…ありがとう、ふじくん」

言ったら、ふじくんが電話の向こうでめちゃくちゃに優しい顔で笑ったのがわかりました。見えないけどちゃんとわかりました。

『さくらちゃんはいいこだよ。僕は大好きだよ』

「……」

『ほら、泣かない。すぐに帰るからね』

「え! あの、さっき言ったことなら気にしないでいいの! お仕事大事にして!」

『ほら、やっぱりいい子だ。わがままになりきれないの、パパと一緒だね』

「ふじくん…」

『大丈夫だよ。本当に、仕事は終わったところなんだ。明日にも帰ろうと思っていたところ』

「…ほんとにほんと?」

『ほんとにほんと。だから、待っててね。お土産持って帰るから』

「…うん。待ってる。ふじくんだいすき」

『僕もさくらちゃんが大好きだよ。…あ、そうそう、さっき言った事は君のパパには内緒にしてね。癪だから。僕とさくらちゃんだけの秘密だよ?』

「もう、ふじくんてば」

思わずふきだしたら、『よかった。やっと笑ってくれたね』って優しい声が聞こえて、また泣きたくなったけどがまんしました。



おやすみなさいを言い合って通話終了ボタンを押した後も、わたしは子機を耳に当てたまま、寄りかかるように目を閉じていました。

真夜中の、やさしいやさしい電話。

──ありがとう。


→エピローグ






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