いっしょにごはん | ナノ


グリーン・ライラック epilogue


目が覚めて一番に感じたのは体の痛み。
次いで、昨日の出来事が蘇ってきた。不二を訪ねて珍客がやってきて、どういう流れかテニスをする事になって、ついつい乗せられて倒れるまで本気でやってしまった事。
……筋肉痛。笑えない。

「いたたた…」

思わず口に出しながら起き上がり、時間を確認する。寝過ごしてはいなくて安心した。
同時に、目覚まし時計の下に挟み込まれたバネからのメモが目に入った。

…どうりで、昨日自宅に帰って来た記憶がないわけだ。

なんだこれ。二日酔いかよ。みっともない。
俺はベッドの上で頭を抱えた。
ぶっ倒れたのは体力不足のせいだけじゃないと解っている。テニスに酔ったんだ。二日酔いというのはある意味で当たっている。

薄い布地のカーテン越しに差し込む朝の光が眩しい。
俺はのろのろと起き出して、階下に向かった。

朝食は一日の活力源である。これはオジイのモットー。
食欲なんてまるでなくても、とにかく朝食は作る。そして家族と食べる。以前はまるで無頓着だったくせに、離婚してから頑なに守り続けている事の一つだった。
子どもには朝食は絶対に必要だ。そして、ひとりで食べさせない事。



「……あれ」

店へ続くドアを開けると、パンの焼ける香ばしい匂いと、もうひとつ、甘く清澄な香りが俺を包んだ。

「……さくら?」

「あ、パパ。おはよう!」

まだ朝の早い時間なのにすっかり身支度を整えたさくらが、笑顔で振り返った。
両手にたくさん、切りたてのラベンダーとローズマリーの枝を抱えている。ちいさなグラスやピッチャーをテーブルに並べて、今日店に飾るグリーンを作っているところだった。甘く清澄な香りの源はこれかと納得する。

「おはようさくら。早いね」

「うん。なんか、目が覚めちゃって。ごはん作っておいたよ!」

言葉の通り、カウンター席には完璧な朝食の用意が整っていた。軽く焼いたパンにゴーヤとツナを挟んだサンドイッチと、レタスとトマトのサラダ、人参ジュース。
さくらは3歳の頃から子ども用包丁を使いこなしている、俺とは似ても似つかない器用な子どもだけれど、これには驚いた。

「…すごいな。ありがとう」

お礼を言うと、えへへ、と照れたような笑顔が返ってくる。信じられないほど可愛い。

「ほんとは卵も焼きたかったんだけど」

「それは駄目。俺がいないときにガスを使うのは禁止!」

「…って言われるのわかってるからやめといたの」

目玉焼き上手に作れるのにー、と口を尖らせるさくら。上手に作れる事は俺が誰よりも知っている。こんなできた小学1年生がいていいのかと思う。

「十分だよ。…でもさくら、俺はミキサーも一人で使うのは駄目だって言わなかったっけ?」

ラベンダーの花を生けるさくらのちいさな肩がびくりと揺れた。けれど彼女はそれ以上の動揺を見せることなく、ぺろりと舌を出して笑う。

「そうだったっけ? 忘れちゃった」

……これは、絶対に不二の影響だ。俺は溜め息をついた。

「そんなことよりパパ、起きたなら早く食べよう! しょうかこうそをせっしゅしなくちゃ!」

生の野菜や果物には消化を助ける酵素が含まれているから、朝はたっぷり採るのがいいんだよ。俺が前に言った言葉を、さくらはしっかり覚えていて律儀に守っている。

「はいはい」

ミキサー使用の件は後でもう一度話し合うとして、俺は笑いながら、せっかくさくらが用意してくれた朝食の席に着いた。さくらも花を生ける手を止めて駆け寄ってくる。

「ねえパパ、昨日のこと、おぼえてる?」

「昨日の事って…」

まさに二日酔い患者に対するような質問の仕方に苦笑が漏れた。

「ごめんね。ひさしぶりに全力でテニスしちゃって、加減が分からなくてさ。心配かけたね」

さくらの頭をくしゃりと撫でると、さくらは猫のように目を細めながら、「ううん、それは大丈夫なんだけど。バネちゃん来てくれたし」とさり気なく答えた。
…実は、結構びっくりさせたと思う。さくらの前であのまま寝込んだのは失態だった。
でもこれ以上さくらに謝っても、俺の為になんでもないふりを取り繕っている彼女のプライドを傷つけるだけなので、俺は喉まで出かかっている「本当にごめんね」の言葉をぐっと飲み込んだ。

さくらは子どもだけれど、きちんとひとりの、プライドの高い女性で。
俺はそれを尊重したいし、尊敬もしているから。大切にしたいと思う。

「…あとべさんが言ってたことなんだけど」

さくらが言いにくそうに口を開いて、俺はたちまち昨日の跡部を思い出した。
…そしてむかついた。

「さくらが気にする事はないよ! 跡部って昔からああなんだから。本気にしなくていいんだよ」

俺の答えに、さくらはきょとんとその大きな目を見開いた。

「え。あの、どういう…?」

「だから、大きくなったらいい女になるだのなんだの、ああ言われた事気にしてるんだろ? あれね、跡部にとっては一種の挨拶みたいなものだから。社交辞令のつもりなんだろうけど、言われる相手によっては立派なセクハラだよな。さくら相手に言う事じゃない」

憤慨する俺を、さくらはぽかんと見つめていた。
俺の影響で大人と接することが多いとはいえ、あれはもはや人外の何かだ。数年ぶりに会ったけど全然変わってない。さくらにとっては宇宙人に話しかけられたも同然だろう。動揺して当たり前だと思う。

「あの、パパ。あのね、そうじゃなくてね」

「なに? あいつ他にもまだ何か言ったの? まさかとは思うけど嫁に来いとかなんとか寝言言われたんじゃないよね!?」

まだ何かあるのか! むかつきながら問い詰めると、さくらはますますぽかんとした顔になって、それからブーッと噴き出して声を立てて笑い出した。
ちょ、さくら、可愛いけどお行儀が悪いよ!

さくらは一体何がおかしいのか、涙まで流しながら笑い転げている。ひとしきり(かなり長い間)笑った後で涙を拭きながら

「パパ、だいすき」

と笑った顔は朝から反則だ。
可愛くて、愛しくて、それだけで世界がきらきらと輝きを増すような笑顔。
そんな少女漫画な、と思うが真実だから仕方がない。俺は冷静だ。そしてこの6年間毎日この反則技をくらい続けている。

「さ、食べよう。今日もいちにちがんばりましょう!」

彼女の元気につられて、俺もなんだか分からないうちに笑顔になって、「いただきます」と声を合わせた。
朝は食欲がないけれど、とにかく一緒に食べる。そうすれば美味しい。
さくらと食べる食事は、きちんと体のすみずみに行きわたって細胞になる。そういう食事だ。
俺たちはがたがたの、危うい家族だけれど、一緒に食事をする大切さを知っている。

「美味しいよ」

本心から褒めたのに、さくらは「うーん」と複雑な笑い方をする。

「まだまだだよ。さくらもっと練習してうまくなるね!」

「十分美味しいと思うけどなあ」

「ゴーヤとツナの味付けがね、もう少し。…うん、でも、パパと食べるとおいしいね」

やわらかな頬にパン屑をくっつけたまま、さくらがにっこりと笑う。
俺は無意識に手を伸ばしてそのパン屑を取って自分の口に入れながら、「君といると毎日が奇跡の連続だよ」と呟いた。
またキザな台詞言っちゃって、と笑われるかと思ったのに、さくらは噴き出すことなくふわりと目を細めて微笑んだ。

「それじゃあ、大事にしないとね、まいにちを」



開け放たれた窓から、爽やかな朝の風が吹き込んでくる。
ラベンダーとローズマリーと、微かな潮の香り。

夏が来ようとしていた。






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