グリーン・ライラック 6
パパとあとべさんがコートに入って、ダビデくんとリョーマくんが入れ違いに出るかと思ったら。
「へえ。アンタもやるの?」
リョーマくんがにやりと笑ってあとべさんにラケットを向けて、あとべさんのきれいな眉を跳ね上げさせました。
「ひさしぶりじゃん。面白そう。──佐伯さん、俺とダブルス組んでくれない?」
「えっ!? いやでも、俺、テニスは趣味程度にしかもうやってないよ?」
プロの選手に指名されたパパが目を丸くしたのに、リョーマくんはあっさりと「知ってる」と頷きました。
「六角のテニスって昔からそうだったじゃん。勝敗よりも楽しさ優先みたいな。千葉の古豪なんて呼ばれて、実際馬鹿みたいに強いくせに、プレイしてるアンタたちは馬鹿みたいに楽しそうでいつも笑っててさ。あの頃はそれ、理解できなかったけど…今なら少し分かるよ」
「越前…」
パパはリョーマくんを呆然と見返して、それからなんだか眩しいものを見たときみたいに瞬きをして、「馬鹿みたいはひどいな」とくしゃりと笑いました。わたしは胸がどきりとしました。
テニス。
パパが大事にしていたもの。パパの人生にわたしが関わる前の、パパの大切な大切なもの。
テニスはわたしも大好きだし、パパは今でも時々こうしておジイちゃんのコートでみんなでテニスを楽しんでます。だけど、絶対本気にはなりません。いつでもゆるく打って楽しむだけ。
パパがテニスで本気を出さないことを、バネちゃんがひそかに歯がゆく思ってること、わたし知ってます。パパと打つときいっちゃんが困ったみたいな笑い方をするのも、りょうくんが何かを見抜くみたいな目でパパを見てるのも知ってます。
ダビデくんだけは、淡々と何度でも誘いに来て、ほとんど強引にパパをコートに引っ張り込んでいたけれど。
リョーマくんは、つよい光を宿した目でパパをまっすぐに見据えて、六角のみんなみたいに優しくなく、ストレートな言葉で誘うから。
リョーマくんの言葉が、パパの胸に刺さったのがはっきりわかりました。
──お願いリョーマくん。パパをそっちに連れて行くのはやめて。
思ってしまってから、わたしは唇をかみました。
パパの足かせになりたくない。パパが行きたいところ、どこにでも自由に行ってもらいたい。心から思ってたはずの願いが、実はニセモノだったって突きつけられるよう。
パパごめんなさい。さくらはすごく悪い子です。
「さくら!」
良く通る大きな声で名前を呼ばれました。
はっとして顔を上げたら、ダビデくんがコートの中から必死な顔してわたしを見ていました。見返すわたしに真面目な顔で大きくひとつ頷いて、それからネットの反対側のパパとリョーマくんに向き直って。
「サエさん、やろう! ダブルス!」
宣言するダビデくんの後ろで、あとべさんがやれやれと肩をすくめたのが見えました。ダビデくんは今度はあとべさんに向かって、「よろしく」と手を差し出しました。
「…まさかてめぇと組むことになるとはな…百人斬り」
「……跡部さんって結構根に持つタイプですよね…」
「ああん?」
「あと部員思い、後輩思い。そういうところはうちの先輩と同じ」
「あの馬鹿と一緒にするんじゃねぇよ。あの野郎は代表合宿を後輩に譲る程の大馬鹿だぜ、知ってんのか」
「うん。知ってる」
「そうかよ」
あとべさんは唇の端を引き上げる笑い方をして、差し出されたダビデくんの手をぱしんと叩きました。
「足引っ張んじゃねえぞ」
「うぃ。……跡部さん跡部さん」
「ああん?」
「あれやって下さい。『ほうら凍れ』ってやつ!」
「…………」
あとべさんがなんだか複雑な表情で黙り込み、パパとリョーマくんがブッとふきだしました。
『ほうら凍れ』って……なに?
「あとあれも! 『スケスケだぜ』!!」
「…………」
スケスケって、なに!?
ダビデくんは目をきらきらさせて全身でわくわくしてるし、あとべさんはなんだかうんざりした顔でそれを見返してるし、パパとリョーマくんはほとんど爆笑していて、意味がわかりません!
「いいじゃん、久しぶりにやってあげなよ、跡部」
「うるせぇぞ佐伯!」
ネット越しにケンカしてるし…。
意味が分からず目をぱちぱちさせているわたしを、リョーマくんが振り返ってちらりと笑いました。
「さくら」
「…はい?」
「良く見てなよ」
「……はい」
迫力に押されて頷くと、リョーマくんは満足そうに笑ってネットに向き合いました。
「じゃ、やろうか」
リョーマくんのその言葉ひとつで、空気が変わったのがわかりました。
夕闇が迫って暗くなりかけた空に、あざやかな黄色いまあるいボールが、信じられないくらいきれいな軌跡を描いて。しなやかに振り上げられたラケットがそれを受け止め、はじき返して。
パァン、と。今まで聞いたこともないくらいきれいな音がしました。
そしてわたしは、今まで見たこともないくらいきれいなものを見ました。
すっかりおひさまが沈んで、真っ暗になったオジイちゃんのコート。
大の大人が4人、ぐったりと寝っ転がっています。あーあ…。
一応タオルを配って、自動販売機でスポーツドリンクを買ってきて配って、うちわで順番に煽いであげたりしましたが…土のコートに寝っ転がったまんま誰も起きません。もう。
日頃運動不足のパパはともかくとして、リョーマくんまで力尽きて転がっちゃってるのはどういうことですか。どれだけ本気出したんですか、みなさん。
…すごく、すごく楽しそうに夢中で打ち合ってた姿を思い出して、わたしはため息をつきました。
オジイちゃんのコートには照明なんてしゃれた物はついてなくて、道路に面した側からかすかに街灯の光が届くくらいで、暗いです。
「…パパ」
きれいなほっぺたをぺったりと地面につけて目を閉じているパパの隣に座り込んで、顔にかかる明るい色の髪の毛をそっと払いました。さらさら、指をすり抜ける感触。
「…つかれてる?」
いろんなことに。がんばることに。がまんすることに。まもることに。
疲れてる?
ごめんね。
そこまで言えずに、わたしはパパのほっぺたをなでました。つるりとつめたい肌。
「…さくら」
寝てるとばかり思ってたパパが、薄く目を開けて、かすれた声でわたしを呼んだから、わたしはびっくりして手を引こうとしました。その手をつかまえられて、頬に当てられてしまったけど。
「さくらの手はあったかいな」
パパがやわらかく笑って、わたしは泣きたくなりました。赤ちゃんみたいに、パパに抱きついてわーんって大声で。
でも、そんなこともうしないの。だってわたしは。
「さくら、あのね」
また目を閉じてしまいながら、パパが言いました。半分寝ぼけてるみたいな声で。
「急いで大人になろうとしなくて、いいんだよ。…でもそれ、俺のせいだよな。ごめん」
──やっぱりパパは寝ぼけてます。
起きてるパパがこんなこと言うわけ、ぜったいないもの。
ごめん、なんて。
わたしが傷つくのわかってて、パパがぜったい言うわけない。
…あんのじょう、パパは言うだけ言ってすぅすぅと寝息を立ててしまって。
闇にしずむコートで、わたしはひとりで涙を拭いました。
いいよね。誰も見ていないから。
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