いっしょにごはん | ナノ


やさしい場所 2


サエさんが会社を辞めたことにももちろん驚愕したけど、もっと衝撃だったのは、奥さんと別れたサエさんが、ひとりで子どもを育てようとしていることだった。

「ちょ、サエさんそんなことできるの!?」

僕は半分呆れて突っ込まざるを得なかった。バネさんと聡くんが深く頷く。

「ほら見ろサエ、剣太郎だってこう思うんだぞ」

…ちょっとバネさん、『僕だって』ってどういう意味さ。

「甘いんだよお前は。子どもひとり育てるのがどんだけ大変なことか分かってない」

小学校の先生をしているバネさんの言葉には実感がこもっていた。対して、

「うーん。まあ、覚悟はしてるよ。ははっ」

爽やかに笑って答えるサエさんは、軽い。軽すぎる。
絶対分かってないよこの人!

「何度も言うようだが実家を頼れよ。お前ひとりじゃ無理だ」

聡くんが真面目な調子で言って、僕はまたまた吃驚した。

「え、サエさん実家も頼らない気なの!?」

そりゃ無理ってものだ。
バネさんや聡くんがお説教したくなる気持ちも分かる。いくらサエさんがなんでもさらっとこなしちゃう人だからって、子育ては違うだろう。

「実家は、ちょっといろいろあって。これ以上迷惑かけられないし」

「それはお前のプライドだろ。そんなものよりさくらちゃんのこと考えてやれ」

聡くんの言葉に、サエさんはちょっと首を傾げて、困ったように笑った。

──あ。この仕草と笑い方は知っている。
へこんでいる時のサエさんの癖だ。試合で負けた時、僕が怪我をした時、テニス部に心ない言葉を投げつけられた時…自分だってざっくり傷ついてるのに、それを隠して、落ち込む僕たちを宥めるときにサエさんがよくしていた表情。

僕は、サエさんが実はかなりへこんでいることにようやく気が付いた。
そうだ、あまりにもさらっと説明されたから受け入れてしまったけれど、離婚も退社も、子どものことも、物凄く大変な大事件じゃないか。ここに至るには余程の事情と、様々な過程があったに違いない。誰も傷つかずに離婚なんて出来るわけがない。
そんなときでも爽やかに笑ってるから分かりにくいんだよサエさんは!

「──プライドも、いいと思うのね」

ぽつんと樹っちゃんが言って、皆ははっとして彼を見た。
樹っちゃんは、サエさんじゃなくて、サエさんの胡坐の中におとなしく座っている小さな子を見ていた。すごく優しい目で。

「サエのプライドなんて、昔っからつまらなくて、くだらなくて、かっこつけで、どうしようもないダメダメなシロモノでしたけど」

「ちょ、樹っちゃん、その辺で…」

やわらかい口調で辛辣なことを言う樹っちゃんに、サエさんがよろよろと懇願する。
そうだ、サエさんは昔から樹っちゃんにだけは頭が上がらなかった。…というか、樹っちゃんに逆らえる者なんてテニス部にはいなかった。

「でも、父親のプライドは子どもには大事なものでしょう。俺は、サエを信じてますよ」

にっこりと笑う樹っちゃんは、今でもやっぱり最強だった。
サエさんは珍しく真っ赤になって「樹っちゃん…!」と感動してるし、さっきまで苦言を呈していたバネさんと聡くんも、顔を見合わせて「しゃーねえな」って笑ってる。亮くんは…うん、彼も相変わらずクスクス笑ってる。

僕は、さっきからずっとおとなしくしているサエさんそっくりの彼の子どもを覗き込んだ。

「さくらちゃんっていうんだ? 女の子?」

「あ、うん。女の子。もうすぐ1歳になるんだ」

サエさんがひょいとさくらちゃんの両脇を掴んで立たせてみせた。可愛らしいピンクの洋服を着ている。うわ、靴下ちっちゃいなあ。

「さくらちゃん、抱っこしてもいいかな?」

きょとんと僕を見上げてくるサエさんそっくりの幼い顔に聞くと、さくらちゃん
はじーっと僕を見つめてこくんと頷いた。

「え!? 今うんって言った!? サエさんこの子もう言葉わかるの!?」

「ははっ。どこまで理解してるかは分からないけどね、自分の名前とか、いくつかの単語には反応するよ。──さくら、剣太郎にご挨拶しよっか」

どうぞ、とサエさんがにこにこしながらさくらちゃんを差し出してくるから、僕はびくびくしながら受け取って、抱っこした。
…うわあ、あったかい。やわらかい。ふにゃふにゃしてる。軽い! でもずっしりしてる。子どもって全身を預けてくるんだ。

うわーうわーと感動する僕を、先輩たちは優しい目で見守ってくれた。

「ひ、人見知りとか、しないんだね」

「うん。全然しないんだよね」

「おとなしいんだね、このくらいの子って、もっと泣いたりうるさかったりするもんだと思ってた。女の子だから違うのかな」

小さい子どもの事なんてよく分からないけど、2歳になる甥っ子は凄くうるさい。あれはあれで可愛いけどさ。

「うーん」

サエさんはまたちょっと困ったみたいな笑い方をした。

「…ずっと、彼女と託児所任せだったから。俺もね、ほとんどさくらのこと分かっていないんだ」

「…え?」

「…たぶんね、この子、少し普通じゃないのかもしれない。おとなしすぎるし、言葉も行動も遅いんだって。人見知りしなすぎるのもおかしいんだって」

「……」

…離婚の原因、とか。訊きたいことを何でもズバリと訊けるほど、僕も子供じゃなくなっていた。サエさんがひとりで抱えようとしてる問題があまりに重い事に悲しくなった。なんでサエさんは、つらいときにいつも笑うんだろう。

そのとき、抱っこしたさくらちゃんが、きゅっと小さな手を僕の胸に当てて突っ張って、ぴったりくっついていた体を離すような仕草をした。自然と顔が離れて、サエさんそっくりの整った顔が間近で僕を覗き込んで。
…それから、ほにゃりと笑った。

「わ…うわ…っ! サエさん! さくらちゃん笑ったよ!」

僕が感動していると、サエさんは「そりゃ笑うくらいするよ」と苦笑する。

「やだなあサエさん! 何当たり前みたいに言ってんの! ほら見て見て、すっごい可愛いよ!」

力いっぱい力説する僕に怯えもせずに、さくらちゃんは顔中でにこにこして、きゃっきゃと声まで立てて笑ってくれた。うわ、ほんと可愛い!

「うわーうわー、見て見てサエさん! バネさんも皆も! 可愛いなあ〜」

先輩たちもさくらちゃんを…というか、さくらちゃんと僕を見て笑ってくれた。なんだか僕もさくらちゃんと一括りにされて笑われてる気がするけど、まあいいや!

「サエさん、この子全然おかしくなんかないよ! だってこんなに可愛いもん!」

「なんだそりゃ、無茶苦茶だな」とバネさんが噴き出して、「可愛いのは剣太郎だよね」と亮くんがクスクス笑う。樹っちゃんと聡くんが目を合わせて微笑むのが視界の端で見えた。

サエさんは、無理してる時の笑い方じゃない、僕の大好きな優しい顔で笑ってた。

「ありがとう、剣太郎」

数年ぶりに聞けた言葉に、泣きたくなるほどほっとした。



──そこへ、遅れてきたダビデが到着して。
ダビデもやっぱりサエさんを見るなり目を丸くして、それからすっごく喜んでるのが分かる声で「サエさん」と言って、そして僕に抱っこされてるさくらちゃんに気付いてあんぐりと口を開けた。

「…サエさん、子供生んだの?」

…僕たちが一斉に爆笑したのは、分かるよね。


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