クラスメイトの柳沢くんの事を、私は『だーねくん』と呼んでいる。
「だーね」は彼の口癖だーね。
「おはようだーね」
からりとドアを開けて音楽室に入って来るだーねくん。
「今日も寒いだーね」
三月とはいえまだまだ冬だからねえ。
「またピアノ弾いてたんだーね?」
そうだよ。私は暇さえあればピアノを弾いている。
って、ピアノの音で答える私。だーねくんには伝わってる筈って勝手に思ってる。
「…それは、何ていう曲?」
あ。
私は口を尖らせた。だーねくんの唇みたいに。
「だーねくん」
「……」
だーねくん、って呼ぶと彼はいつも複雑な顔をする。
初めてそう呼んだときは目を丸くしていたけれど最近はさすがに慣れてくれて、代わりに少し呆れたみたいな顔になる。その顔はちょっと好きだ。距離が近いかんじがする。
「急に普通の喋り方するの禁止。特にピアノ弾いてるときは」
「……」
「はい、やり直し」
「……」
だーねくん、呆れ顔のままで溜め息を一つ。その溜め息はちょっとわざとらしい。お芝居っぽい。でもそういうのもかわいい。溜め息つきながらでもちゃんと言い直してくれる、彼は優しい男の子だ。
「……分かっただーね。それは、なんていう曲だーね?」
はい、よくできました。
私は満足して指を鍵盤に滑らせる。きらきらした音が鳴る。
「踊る仔猫」
「こねこ?」
「そう、仔猫」
「…ふうん」
きらきら、弾む音。朝の音楽室。差し込む光。鍵盤にちらちら反射する光、つかまえて、音にする。
音楽の特待生の私が朝からピアノの自主練をしていても全然不思議じゃない。ルドルフってそういう学校。みんな一生懸命、好きな事を学び伸ばすために此処にいる。でも本当は私が弾くにはこの曲は簡単すぎる。だーねくんには分からないかもしれないけど。
「……小森みたいな曲だーね」
急にそんな事言われて音が乱れた。簡単なとこなのに指が滑って。だって心臓が跳ねたから。
「小森が間違えるなんて珍しいだーね」
だーねくんはにかっと笑う。
真面目な顔してても口角上がってる唇の形は、確かにアヒルさんに似ているかもしれない。ちょっとキュートだ。
「だーねくんずるい。顔かわいい」
「は!? かわいくないだーね!」
「かわいいよ。女の子はわざわざメイクでそういう唇作るんだよ。天然なんてずるい」
「……そんな事言うのは小森だけだーね」
溜め息なんてついてるだーねくんは、でも音楽室を出て行かない。テニス部の朝練が終わって授業が始まるまでの少しの時間、いつも一緒にここにいる。
理由は私のピアノが好きだから、だって。
ふうんって思う。
それちょっとつまらない。私の事が好きだからだったらいいのに。
そんなふうに思う私は、だーねくんの事をちょっと好きだ。
だから自主練にかこつけてピアノを聞かせてあげる。きらきらした音いっぱい鳴らす。それが私の一番の武器って知ってるから。
だーねくんが音で魔法にかかってくれたらいいのに。少女趣味かな? でも、アヒルさんキャラとかわいい語尾で自分プロデュースしてるだーねくんには魔法がお似合いだ。恋の魔法。
だーねくん、私にしちゃいなよ。
「でもさ、柳沢ってはっきりいって結構エロいよ?」
「…………」
碌でもない、木更津淳。私はむっつりと黙りこんだ。
碌でもないけどこの男は実は、私と恋バナをする仲である。なぜそうなったか? 詳しく訊かないで。
とにかく、今日もだーねくんがかわいかった、だーねくんはあんなにかわいくてずるい、そもそも「だーね」とか言うのがまず意味わからないかわいいずるい、と私が夢心地に語っている最中にこれだ。涼しい顔してエロいとか言うんじゃありません。
「お調子者だしね」
「…………」
まだ言うか、木更津淳。
「小森みたいな子が柳沢を好きだなんて意外だなあ」
「……私みたいな子って何?」
「分かってるくせに」
木更津淳はくすくす笑う。このくすくす笑い、かわいいんだけどすっごい腹立つ。
「小森ってさ、観月と付き合ってると思われてるよね、皆に」
「あー、それは、礼拝のとき並ぶからでしょ」
ピアノの私と讃美歌を独唱する観月くん。セットで皆の前に出ることが多い私たちにそういう噂が立ってる事は知ってる。
「つまり、観月と並んで絵になるかんじの女の子って事だよ」
「はあ」
「否定しないのが凄い」
ひょいと肩を竦める木更津淳。
「肯定する訳でもないよ。でも木更津くんの言いたい事は分かる。みんながそう思うのも」
観月くん、黙ってれば美男子だし。私も黙ってピアノ弾いてればまあそれなりのかんじだ。
「つまり小森と柳沢って全然似合わないんだよね、絵的に」
ほんっっっと碌でもない事しか言わないな、木更津淳!
絵的に全然似合わないとか!
「…………それちょっと酷過ぎるのでは」
誰にってだーねくんに。
でも木更津淳、これでいてだーねくんのテニスの相棒で親友なのだ。だーねくんの事誰より分かってて、大好きなくせにこういう事を言う。だからこそ私の恋バナの相手でもあるのですが。
「小森はさ」
少し首を傾げてくすくす笑ってる木更津くんはかわいい。人畜無害そうに見える。見えるだけ。
「観月とか僕とかじゃなく、柳沢を好きな自分が好きなんでしょ。皆が気づかない柳沢の良さを見つけられる自分は特別みたいな」
ほら、もう、すっごい、辛口!
「……木更津くんって明るくねじ曲がってるよね」
ぼそぼそと私が言うと、木更津淳は今度こそ本気で可笑しそうに吹き出した。
「そういう事言ってくれるから小森と話すのは楽しいよ」
左様ですか。
「ルドルフにあんまりいないタイプだよね」
「木更津くんもね」
「あ、分かる? 僕、千葉のヤンキー中出身」
「えっ、ヤンキー?」
「うん」
ヤンキーなんてこの時代にまだ生息していたのか。千葉、恐るべし。
ヤンキー木更津(この場合元ヤン木更津というべきか?)は相変わらずくすくすと笑っている。揃えた黒髪がさらさら揺れた。
だーねくんは、木更津くんみたいにさらさらの髪じゃない。ちょっと癖ある。全然関係ない事を思った。
「聖ルドの奴等は基本お行儀が良くて優しいよ。観月なんてあれで悪ぶってるつもりなんだから可愛いよね」
「…………」
木更津淳の言う事、ひとつも間違ってない。
私はだーねくんが好き。
でもきっとだーねくんを好きな私が一番好き。
だーねくんは確かにちょっとキュートだけど万人にモテるタイプじゃない。というかモテない。つまり恋のライバルがいない。競争率が低い。
結構エロい。知ってる。だからわりとちょろい。お調子者だからその気になってくれるのもすぐだった。
ピアノ弾いて『だーねくん』なんて呼んで笑って、お人好しな彼を悪い魔法にかけようとしてる、私。
「……でも好きなんだけどな」
好きになっちゃったの。ちょっとだけど。
それは本当なの。
「やっぱり、駄目なのかな」
私なんかじゃ。
呟きは勝手に口から零れてた。ピアノの音みたいにぽろんって響いた。
「駄目じゃないだーね!」
「……え」
突然、特徴あり過ぎる語尾の声が耳元で弾けた。それもピアノの音っぽかった。私の呟き、床に落ちる前に拾い上げて繋げるフォルテシモ。
「……だーねくん」
顔上げたらなんだか怒った顔のだーねくんが立ってて、私はぽかんとした。
「はい、だーねくんだーね」
むっつりしたまま頷くだーねくん。隣で木更津淳が「柳沢」ってのんびり呼ぶのを無視して、まっすぐ私を見下ろしてる。私だけを。あれ? これってなんか。
「駄目とか、勝手に決めるのは小森の良くないところだと思う。まず確かめるのは俺の気持ちの方なんじゃないか? …………だーね」
一息に言ってから明らかに不自然に付け足される「だーね」。木更津淳が小さく吹き出した。
私はといえば、ときめいてた。
だってだーねくんかっこいい。かわいいだけじゃなくてかっこいいんだもの。テニスの試合してるときみたい。
「……だーねくんが、『だーね』って言い出したのは2歳からって聞いて」
「え?」
今なら聞けるかもしれない。そう思って私は口を開いた。だーねくんは予想外の台詞だったようで目を丸くしてぱちぱち瞬きをしてる。あ、睫毛も結構長いなあ。
「それって、なぜ? かわいいと思ったから? 誰かの気を引きたかったから? それとも、ただ単純に『だーね』が好きだの?」
「え…」
だーねくん、びっくりしてる。でも私は真剣だった。聞きたい。聞かせて。
私が真面目に見つめていると、だーねくんは「ええと」と考えながら口を開いてくれた。
「…覚えてないだーね、小さかった頃だし…。ただ、何かのきっかけで『だーね』って言ったら親が可愛いって喜んでくれたのは覚えてるから、それが始まりだったのかも……だーね」
誰かが喜んでくれたから。その人の気を引きたくて。
自分をつくる。プロデュースする。ちっちゃい子も大人も、みんなする事。
私はそっと目を閉じた。ああ、と。
だーね、って彼が言うときの声のトーン。初めて聞いたとき、ちょっとピアノに似てるって思ったのだ。
そのリズム、一定の音階。
ぽろんって鍵盤を叩くと、音がきらきら、鳴る。
「だーね」、私にはそんなふうに聞こえるから。
いっぱい聞きたいな。いつも聞いていたいな。そう思って。
「……やっぱり好き」
ゆっくり目を開けて笑った。精一杯かわいく見えるかんじで、だーねくんみたいに口角上げて。
悪い魔女の魔法にかかって下さい。
だーねって言ってて。
鳴ってて。私のそばで。
きらきらした音で。
ずっと。
だーねくんがぶわっと真っ赤になってくれて、私は内心「成功した」と思う。だけど私だってどきどきだったし顔も熱い、きっと完璧な魔女にはなれてない。
木更津淳が隣でひゅうっと口笛を吹いた。さすが元ヤン。
だーねくんは誤魔化すみたいに髪の毛をぐしゃっとやった。…だーねくんの癖毛がますます酷いかんじに乱れる。あれ、絶対、今度切ってもらおうって思った。ああでも、そしたらだーねくんの意外に整った顔が衆目に晒されてライバルが増えてしまう。悩むところだ。
「……小森が、俺の事まだちょっとしか好きじゃなかったり」
げ。
「俺の事を好きな自分に気分良くなってたり」
ばれてる。
ていうか聞いてた? いつから?
固まる私に木更津淳がそっと教えてくれる。
「柳沢はもともと気付いていたんだよ。テニスは心理戦だからね、こう見えても意外と鋭いんだ」
「意外とは余計だーね」
そ、そうだったのか。ごめんねだーねくん、私も今「意外」って思った。だーねくんは絶対に鈍くてちょろいと思ってました。
「でもそんなのはどうだっていいだーね。小森の考えてる事は大体分かるだーね」
「えっ嘘なんで!?」
「ピアノに全部出てるから。駄々漏れ。…だーね」
「え」
ピアノ。音。だーねくんといるときに指先が奏でる音はきらきら。
「……あんなに、好きだ好きだって音聞かされてたらこっちも照れるだーね…。ほだされるし、小森は可愛いし正直悪い気はしないし、利用されて後で飽きて捨てられてもまあいいかと思える程度には俺も小森が好きだーね」
「え」
好きだーね。好きだーね。好きだーね……(エンドレスエコー)。
「えっ、だーねくん私の事好きなの!? だったらもっと早く言って!? よっしゃだーねくんゲットだぜ!」
「…………そういうところ小森らしくて嫌いじゃないだーね……」
「ていうかだーねくん、さっきさらりと私の事かわいいって言ったよね。それって、私の顔がかわいいから、性格的な欠点は我慢できるって事?」
「うっ」
だーねくん、分かりやすく詰まる。おいおいだーね。
「……ええと、まあ、そうかも…? だーね」
「それちょっと酷くない!?」
「いや、小森人の事言えないだーね!? 己の内面をよーく振り返ってみるだーね!」
「うっ」
今度は私が詰まる番だった。
……なんというか……めでたくカップル成立って事にしちゃっていいのか? 一抹の不安が残る二人だ、私たち。いびつ過ぎて。
なんとなく見つめ合っていたら、隣でくすくす笑う人がいた。木更津淳、まだいたの。
「……いいんじゃない? 二人とも馬鹿で正直で。お似合いだと僕は思うよ。おめでとう」
馬鹿とはなんだ。と思うけど木更津淳の目は優しかった。
「いいじゃん、駄目だったら別れればいいんだし」
「それはない!」
「それはないだーね!」
声が揃って、私とだーねくんはまた顔を見合わせた。木更津淳はくすくす笑いをついにやめ、膝を折って爆笑している。この悪魔が私たちのキューピッドだなんて。後でつくね奢ってあげよう……だーねくんが。
だーねくん、こほんと咳払いを一つ。すっと私の前に手が差し伸べられる。
「…ちゃんと好きだし、好かれてるのも分かってるから。そのままの小森でいいだーね」
あ。
ぽろん、きらきら。零れ出す音。
やっぱり。だーねくんの「だーね」はピアノに似てる。
私はその音が凄く欲しい。私のそばでずっと鳴っててほしい。
「そばにいてほしいだーね」
その言葉を聞くと私はゆっくりと彼の手を取ったのだった。
(
『文末企画』に参加させて頂きました)
文末「その言葉を聞くと私はゆっくりと彼の手を取ったのだった。」を作って下さったのは江子さんです。
タイトル「子猫は今夜も舞踏会の夢を見る」は、ハルヒさんがわたしのイメージで(!)付けて下さいました。ありがとうございました〜!