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1、絵にも書けない





 人間、生きていれば色んな経験をするものだ。

 たとえばそれは甘酸っぱい桃色であったり、悲壮感溢れる青色であったり、血生臭い赤色であったりするだろう。変色する要因はヒトや時間、場所など多岐にわたる。一概に特定出来はしない。

 ――わざわざ仰々しい前置きまでして、結局私が何を言いたいかというと。


「…………桐箱だ」


 日曜日の朝八時。
 家の前に、桐箱が鎮座していました。

 サイズとしては、たぶん大型テレビを購入したときに付いてくる梱包箱ぐらい。大型テレビが内臓されていないことが一瞬で看破できる理由は段ボール箱ではなく、桐箱だから。それも見るからに由緒正しそうな、かつお高そうな装飾が施されている。

 私は制服の上から腰に手を当てて、数秒思考する。


「…………」


 見なかったことにした。


「……! ……!!」


 よっこいしょ、と私が跨いで家の敷地を出た途端、桐箱はガタガタ震え出した。無視されたことに内蔵物が気付いたのかもしれない。ともすれば今にも中身が飛び出してきそうだ。出てこない理由はたぶん綴蓋とじぶたが想定以上に重かったのだろう。桐箱は案外重厚な造りになっている。

 私にミミックと戦う勇者になった覚えはない。相手をしてやる義理がないので、無視の結論はブレず、そのまま歩を進めることにする。

 見慣れた住宅街の景色を我が目に映したと同時、非常にむさ苦しい集団が道の両側にずらりと並んで、私に向かって一斉にそして直角に頭を垂れた。


「「「おはようございます、委員長!」」」

「だから―――近所迷惑になるからヤメロっつってんでしょうが!」


 反射的に利き手が背中に伸びた。流れるような動作で中身が入ったままの竹刀袋をブーメランのように投擲すると、右側の連中が一掃された。呻き声が連弾するように少々続く。残った反対側に並立していた連中は、己が幸運を噛みしめるように唇を真一文字に結んでいた。

 発生した鬱憤はその場で晴らしてしまうに限る。内側に溜め込むと、後々まで引きずるからね。

 壁に刺さってようやく軌道を停止させた竹刀袋を回収しがてら、改めて歩みを再開する。その際、一番手近な位置にいた知り合いに声をかけた。


「草壁。この万里の長城朝礼、いい加減やめさせなさい。っていうか前より人数増えてない?」


 私の家前で勝手に待ち伏せていた近所迷惑集団は軒並みリーゼントに学ランという服装でなかなか見分けがつきにくいが、小学校以前からの付き合いである彼だけはパッと見て判別できる。

 石壁から引き抜いた竹刀袋を背負い直しつつ振り向くと、副委員長は苦笑いしていた。


「それだけ貴女が羨望を集めているということです。念のため付言しておきますと、俺は何も指示を出していませんよ。こいつらが自発的に、朝から貴女に挨拶をする為だけに集まったんです」

「なお悪い」


 個々人が勝手に集まったのでは、こちらも手の打ちようがないではないか。


「ところで、委員長」草壁が気まずそうに視線を背後に回した。「……あの桐箱は、新しい貢物ですか?」

「私がいつも貢物を受け取っているみたいに言うな。誰が相手でも貰わないようにしてるっつの」


 桐箱は未だガタガタしている――かと思いきや、先程までの勢いは失っていた。微弱ながら震動を続けているけれど、全盛期よりは格段に衰えている。


「開けるなよ。面倒くさいから」

「何が入っているんですか?」

「聞くな」

「……生き物だったら、酸欠で死ぬ危険があるかと愚考します」

「…………家の前で死なれるのは、嫌だな」


 轢死したと思しき野良猫とかも見かけるだけで胸がモヤモヤするのに、自分の家の前で死なれたら夢見が悪いことこの上なかろう。私は仕方なく、桐箱を開けてやるよう草壁に指示を出した。

 一も二もなく草壁が従う。悠然とした足取りで桐箱に近付いた彼はいやに手慣れた仕草で蓋を開けて、待ってましたとばかりに飛び出してきた中身に顎を頭突きされた。

 顎を押さえて蹲る草壁。

 自らの頭に手を遣りつつも、蹲った草壁をわざわざ踏みつけて外界に乗り出す中身。

 薄々その正体に見当をつけていた私は溜め息を禁じ得なかった。


「……やっぱり、おまえか」


 私の腰ほどの身丈しか持たないその生物は、いわゆるホモサピエンスの幼体。平たく言ってしまうと、年端もいかない少年である。

 鴉の濡れ羽のような黒髪。幼さが色濃く浮かびながらも凛々しさを垣間見ることのできる顔立ち。そして何より、触れるもの全て灰塵に帰しそうな切れ長の目が印象的だった。

 頭部の痛みに目を潤ませながらも、少年はキリっとした面持ちで私を見上げる。


「今日こそ勝負してもらうよ」

「却下。ガキとやれるか」


 ぺし、とすごく手加減して竹刀袋で少年の頭頂部を叩く。

 少年はとても釈然としていない表情で頬を膨らませ、私を睨む。しかし彼のような美少年に睨まれたところで子猫どころかハムスターと向かい合っているような感覚でしかないのだった。


「……委員長。その子どもは……?」


 ようやく頭突きのダメージから立ち直った草壁が、少年を見下ろして瞠目する。

 私は鼻から息を大きく吐き出した。


「……歩く果たし状、かな」


 子ども相手にストーカーと形容するほど、さしもの私も鬼畜ではない。












 元来休日である日曜日に学校の応接室へ足を運ぶようになったのは、ここ二ヶ月ほどのこと。より具体的に言えば、私が剣道部から退陣してからのことだ。それ以来、私は平日も休日も例外なく登校し、風紀委員長としての務めを果たしている。

 入学してからずっと剣道部に籍を置いていたこともあって、休日に登校することに抵抗はなかった。体育館から応接室に場所が、男女入り混じっていた部員から草壁たち男一色に顔ぶれが、主将ではなく委員長に仕事の内容が――とそれぞれ変化しただけのこと。これといって特筆すべきこともない。

 唯一文句があるとすれば、場所だろうか。私は空いている部屋であればどこでもよかったのだが、今年は例年より部活動及び同好会の数が多く、どこもかしこも差し押さえられていたのだ。自分の為に強奪する、なんてのは私の主義に反するし、仕方なく教師陣の許可を得て、空いているときだけ応接室を委員会会議の場として利用する次第となった。

 幸か不幸か、他の部屋よりも格段に質の良いソファーに腰を下ろしつつ、私は草壁の報告に耳を傾ける。


「巡回の甲斐あって、不良同士の小競り合いは前年より格段に減少しました。委員長の治安活動による成果が出ていると思われます。また、周辺地域の敵対勢力の数も減少傾向にあります。しかし一方では、まだ確認が取れていませんが今までの残党が連合を組んでいるとの噂も……いえ、委員長の前では塵芥同然ではありますが」

「草壁、草壁。一々私を持ち上げなくていいから。事実だけ述べてくれたらいいから」

「これも事実ですので」


 リーゼントを揺らし、どこか誇らし気に胸を張る草壁であった。

 暴力に特化した不良集団の中で、事務のような細かいことまで対応できる存在は貴重である。その貴重な有能の一人が副委員長であるこの男なのだが、何かとかこつけて持ち上げられる私のやるせなさも察してほしいものだった。

 草壁はこうと決めたら梃子でもなかなか動かない頑固者である。腐れ縁じみているとはいえ、短くない付き合いで私は彼の人間性を大部分把握してしまっていた。矯正するよりは、こちらが気にしない方が無難だろう。私は意識して肩の力を抜いた。


「……じゃ、結論だけ言って。些事は全部流して、何かあればそっちで各自対応して」

「了解しました。端的にまとめますと、現在、並盛の風紀はかつてないほど安定しています」


 草壁の言葉に「そう」と頷き返す。ようやっと成果が出てきた、といったところか。

 並盛という地域は昔から所謂不良と呼ばれる輩がひどく多かった。どうしてかまでは私も知らない。とにかく、私や草壁に物心がつくころには、見渡す限り不良、不良、不良、不良だった。ぷよぷよだったら大連鎖が起こるぐらい、同色の人種しかいなかった。

 商店街は週一の頻度で喧嘩の舞台と化し、女子供が一人で裏道なぞ歩こうものなら間違いなく襲われ、抵抗する手段がない弱者は黙って財布を差し出すしかない。本当にこれが二十一世紀の光景なのか、と数少ない観光客は揃って目を疑い、二度と並盛の地に足を踏み入れぬことを胸に誓った。そういう酷い有様だった。

 応接室には向かい合わせになるようソファーが二つ設置されているのだが、腰を下ろしているのは私一人だけだ。傍らに佇立している草壁はともかく、平委員の後輩どもは壁を埋め尽くすつもりなのかぴったりと部屋の四方に配置されていた。どいつもこいつも副委員長リスペクトで同じ髪型なので、ともすれば壁からリーゼントが生えているように錯覚する。もし何も知らない者がこの場を見れば、そういうアート作品なのかと誤解しかねないほどシュールな光景だった。


「……あのさ、草壁。学ランは並中の指定制服だからまだ分かるんだけど……」私だって登校するときは指定制服のセーラー服なわけだし。「……何で、リーゼント?」


 それが蔓延していたのは私たちが義務教育に突入する前のことだよ、今時流行らねえよ、いやおまえに懐いてる後輩たちに大受だけど、などと万感の思いで問いかけた。草壁はやはりどこか誇らし気なまま、毅然と回答してみせる。


「委員長が『リーゼントって強そうだよね』と仰っていたので」

「…………。………………いつの話?」

「この草壁、忘れもしません。十年前の五月八日のことです」


 ……そういうことは、むしろ積極的に忘れてほしい。

 当時の私が何を思ってそんなことを口にしたのかはさっぱり覚えていないが、何も考えていなかったことだけは分かる。不用意な一言が他人ヒトの未来を大きく左右することもあるのだと、昔の私に物理的な教訓として叩き込みたい。未だタイムマシンが完成されていないのを、これほど口惜しく感じたことはなかった。

 返す言葉に窮し、私が頭を抱えていると、草壁は資料ファイルを淑やかな動作で閉じた。


「ところで委員長。今朝のことですが、いったいいつからあのような子飼いを始められたのですか?」

「ひとを人身売買の商人みたいに言うな。……だいたい一週間ぐらい前から付き纏われてる。どれだけあしらっても次の日には元気に登場するもんだから、対処に大変困ってる」

「ほう……。彼は何が目的なんですか?」

「私と勝負したいんだと」


 勝負、の一言に応接室がどよめいた。「なんて命知らず」「チャレンジャー」「自殺志願者かよ」「その心意気は買う」などと平委員どもが好き勝手に発言し、室内はあわや混乱の渦中に落ちるかとも思ったが、唯一眉一つ動かさなかった草壁の「静かにしろ」という冷静な警告によって再び静寂を取り戻した。


「勝負、ですか。……彼が何を考えているかは分かりませんが、相手をしてやれば解決するのでは?」

「おまえは私が子どもを虐待している姿を見たいのか?」

「…………それは……些か以上に遠慮したいですね……」

「私だって鑑別所送りはごめんだ。そもそも弱い者いじめの趣味はない。強い相手に勝ってこそ、勝負に意味が生まれるからな」


 無意味な蹂躙ほど非生産的なものはない。あんな子どもを負かして喜ぶのは、それこそ一昔前の、砂山のプライドしか持たない不良どもぐらいだろう。

 一週間ほど前、いつものように廃墟を根城にしていた荒くれもの集団を物理的に正道に引きずり戻していた。それが一通り終わって、後始末を頼もうと草壁に連絡を取ろうとしていたとき、少年は姿を見せた。そしておもむろに言った。「あなた、強いんだね」と。こうも続けた。「ぼくともってよ」と。

 当然棄却したわけだが―――以来、毎日毎日凝りもせず、彼は私を相手取ろうと試みている。

 自然に落ちかけた溜め息を意識して飲み込んで、改めて草壁へと顔を向けた。


「話を戻そう。草壁、今日の報告はそれだけ?」

「はい」

「じゃあ、書類仕事もないし、今日はこれで解散。各自見回りしながら帰路につけ。……承知しているとは思うけど、問題起こすとか論外だから。暴れたい場合は県外まで行くように」


 私のあずかり知らない所でなら、思う存分好き勝手やっていい。そう思いながら付け足した忠告に、風紀委員たちは威勢の良い返事で応えてみせた。












「ねえ、勝負してよ」

「窓から土足で入ってくるな」


 帰路に現れなかった時点で――いや、家を押さえられていた時点で察するべきだったか。

 帰宅して夕飯をこさえていた私の前で、少年は台所の窓から侵入するという芸当を見せつけた。

 入ってくるな、と言って聞く相手でないことは、この一週間で嫌と言うほど理解した。なので私は諦念に包まれながら「玄関から入ってきなさい。靴も脱ぐように」と告げる。少年は案外素直に従い、一度姿を消し、改めて玄関から侵入してきた。


「ぼくが年下だからって手加減しなくていいから」

「何で私がおまえを相手する前提で話を続けるんだよ。……子どもがこんな時間に外をうろついてるのは、対外的によろしくない。家の人が心配しているだろうし、帰りなさい」


 春季に入ってすっかり気温は心地良くなったとはいえ、まだ日が暮れるのは早い。小学校に入っているかいないか、という外見年齢の子どもが一人でぶらついているのは良くないだろう。

 ハンバーグのタネが入ったボウルをかき混ぜていたので、背後の彼を振り返られない。私との勝負を望む彼が後ろから強襲してこないとも言い切れないのだが、まあ彼ぐらいなら不意打ちされても対応できるだろう。


「べつに心配なんかされないよ。父さんも母さんも、ぼくのことなんかほったらかしなんだから」

「……兄弟とかいないの?」

「いない」


 一人っ子、かつ訳ありなご家庭か。『父さん』というワードからして、うちみたいに母子家庭というわけではなさそうだが、あまり深く踏み込みたい話題でもない。

 少年の言葉を鵜呑みにしたわけではないけれど、最前よりは突っ返す気力が萎えた。


「――じゃあ、うちで食べてく?」


 夕飯、と付け足してみる。


「そしたら、ぼくとってくれるの?」

「おまえは本当に戦うことばっかだな。戦闘民族かよ」溜め息をついて。「それ、いまは棚上げしておきなさい。で、食べてくの? 食べていかないの?」


 依然振り向かずに話を続けたので、少年がどんな顔をしていたかは分からない。

 どちらも閉口したことによって生まれる沈黙が、台所をしばらく満たした。

 ハンバーグの形を整える段になって、彼はようやく「食べる」と小さい音量で呟いた。












 私が許可を出すまでもなく、少年は夕食が出来上がるまで我が家を詮索していた。疚しいことはないとはいえ、勝手にうろつかれると若干イラっとする。しかし下手をすれば干支が一周してしまうかもしれない相手に草壁たちにやるように振る舞うのも些か大人げないので、私はマリアナ海溝並みと自認している深い心で見過ごしてやることにした。

 台所から時々様子を窺ってみたが、少年は最終的に私の部屋から持ち出してきたらしい文庫本と睨み合っていた。子どもなら子どもらしく漫画でも読んでいればよかろうに、何故数多あった筈の文庫本の中からドグラ・マグラを選定していたのか。今時の子どもはよく分からない。


「できたよー」


 食卓に二人分の夕食を並べながら声を掛けると、少年はすぐに顔を出した。大人用の椅子によじ登るようにして尻を落ち着ける。子ども用の椅子でも用意してやるべきかと一瞬考えたけれど、よくよく思い返せば我が家にそんなものは影も形もありはしなかった。少年も無事に私の向かいに腰を下ろしたので、結果オーライだと思っておく。

 ホカホカの白米と味噌汁。ハンバーグに申し訳程度のサラダが付随している。あとは空いた空間を埋めるように作り置きの酢の物が混ざり込んでいた。我ながら面白味のない食卓である。


「いただきます」

「……いただきます」


 私が手を合わせると、少年も同様の所作を繰り返した。おや、と思わず目を瞠る。案外躾はきちんとされている子どもなのかもしれない、と思ったところで脳内の冷静な部分が「躾のされている子どもが窓から侵入するわけないだろ」と窘めてきた。我が事ながら正論だと思った。

 そんな少年は箸を握ったところで、固まっていた。


「……これ、なに?」


 少年の視線の先には、出来立てのハンバーグが寝転がっていた。

 私はまたもや瞠目した。酢の物のキュウリを口に突っ込んだところで一時停止してしまう。


「……ハンバーグ、だけど。うちで出てきたことない?」

「ない」


 ぼくの家は和食しか出ないから、と少年は言う。

 ハンバーグを見たことない子どもって、草壁のリーゼントみたいな時代遅れとかいうレベルじゃない。絶滅した方がいいタイプの絶滅危惧種ではないか。


「食べれるものなの?」

「……食べられないものは出さないよ」

「そっか」


 それもそうだと言いたげに首肯してから少年は平然とした、しかし些か固い面持ちでハンバーグを箸で小さく切り分けていく。年の割に箸の使い方がそこらの大人よりしっかりしていた。やっぱりお育ちは悪くないのでは……いやいや、でもハンバーグも出ない家ってどんな家だよ。

 私が懊悩している間に、少年は記念すべきハンバーグの一口目を口に放り込んでいた。


「――――――」


 ……気に入ったか、なんてもはや聞くまでもない。
 比喩でもなく『目が輝いた』光景なんて、私は初めて目の当たりにした。

 それから少年は黙然と――いや、この場合は『夢中で』といった方が正しいか。ともかく一言も発さずに、飯を食うだけの機械さながらに食事を進めていった。

 私の方も何か聞きたいことがあるわけではないので、特に何を話すこともない、静かな食卓だった。途中一度家の横を暴走族が通過したらしい大音がしたので、明日までにどこの所属か突き止めて潰しに行こうと決意したぐらいしか特筆すべきことはない。

 少年は自分の分をぺろりと平らげてから、私の皿に残っていたハンバーグの切れ端を凝視する。


「……食べる?」


 無言の圧力に耐えかねた私が皿を差し出すと、少年は一瞬太陽かと錯覚するほど顔を輝かせ、しかしすぐにハッとして冷然とした表情に戻った。「きみがそう言うなら仕方ないね」と渋々感溢れる口振りとは裏腹に、皿を受け取る手つきは飢えたナルガクルガの如き迅速さであった。

 母親の分は別で確保しておいてよかった、と思った。

 そうして意外にも食事は何事もなく終わり、私は片付けを始めた。少年は再び居間で夢野久作の世界に沈むのかと思いきや、台所の片隅で膝を抱え、何故か皿洗いに励む私の背中を見つめていた。


「きみの部屋にギターがあった」


 唐突過ぎる発言に、独り言かと思った。


「弾けるの?」


 そこまで続いて、ようやく私と会話する為に差し向けられた話題なのだと気付いた。


「それなりに」

「聞きたい」


 間髪入れず返ってきた要望に、皿を洗う手が止まりそうになった。

 なんでおまえが、と言いそうになって、いや待てよと考える。これは逆手に取れば、穏便に少年を帰宅させられるのではないか。何が問題って、こいつに帰る素振りが更々ないことである。


「――聞いたら帰りなよ」


 少しの沈黙を経てから、少年は不承不承そうに「分かった」と言った。












 私はギターが弾ける。とはいってもあくまで趣味のもので、履歴書の特技欄に書けるようなレベルでもなければ、それで飯を食っていこうとも考えていない。当然ヒトに聞かせることなど今まで想定していなかった。かつての巣であった剣道部も、いまの陣地である風紀委員会も、長年の付き合いである草壁でも、私がギターを嗜んでいるなど知らないだろう。

 二階の私室からギターを手に戻ってくると、少年は居間で待っていた。真っ黒なのにどこか煌いているような彼の瞳は、私に宇宙を彷彿とさせる。可能性の塊でもある彼のような年頃の子どもは、あるいは宇宙そのものなのかもしれなかった。

 演奏を始める合図はなかった。リクエストなんて聞きやしない。突然始まった演奏に、けれど少年は文句を漏らすこともなく、じっと耳を澄ませていた。今度は暴走族が近隣を通りかかることもなかった。

 二人きりの独奏会。閉幕は演者わたしの気分次第。歪だと分かってはいるけれど、どこか心地良くも感じていた。

 ――――私は並盛で生まれ、並盛で育った。そして、もうすぐ出ていく。

 生まれ育ったこの地に、不良と公称されるような良からぬ輩が集っているのは、昔から面白くなかった。それがいつからだったかは不確かだけれど、もしかしたら、小学校に入る以前からの知り合いである草壁と出会う前から。物心がつくより早く、私は地元の現状を憂いていたのかもしれない。

 それでも中学三年――今年までは、わりと大人しくしていたと思う。草壁あたりは「貴女は昔からそういう人でしたよ」なんて口さがないけれど、個人的には凡庸極まりない生活を送っていたと自認している。

 普通に小学校を卒業して、中学校では剣道部に入って、一年の後半から主将になって。
 それからはずっと一学生として、普通に過ごしていて。

 ―――耐えられなくなったのは、本当に突然だったと思う。ある日の朝、いつものように目を覚まして、ふと「このままの並盛は嫌だ」と思ったのだ。

 すぐに剣道部を辞めた。「鬼主将がいなくなった」と喜んだ不真面目な部員たちは餞別として最後に目一杯叩きのめして、裏表なく残念がってくれた部員には精一杯の感謝と謝罪を告げた。それから学校側に掛け合って風紀委員会を設立した。それはあくまで「秩序のため」という大義名分を得るためで、それ以上でも以下でもなかったのだけど、いつの間にか草壁も加入していて、二人で活動を始めた。独善による成敗を繰り返している内に、学校内外に舎弟らしい後輩が増えていて、知らぬ間に並中風紀委員会の規模は大きくなっていた。反比例して、不良といわれる無秩序な連中は数を減らしていった。

 たぶん私は、自認している以上に地元なみもりに執着しているのだ。どうしようもないくらい愛着を抱いている、あるいは憎悪している。どちらなのかは判別がつかない。どちらも正しいのかもしれない。わざわざ感情を定義しようとは考えないから、曖昧でいいと思う。

 せめて――せめて、私がいる間に並盛の秩序が整えばと。
 私の知る並盛が少しでも清廉であればいいと。

 これが願いなのか、祈りなのか。自分では決められない――決めたくない。


「もう終わり?」


 少年の声でハッとした。弾いている間に忘我して、いつしか手を止めていたようだ。

 改めて弾き直すのも気恥ずかしくて、彼から顔を背けた。


「そ。これで終わり」

「やだ。もっと聞きたい」

「ダメ。もうさんざん聞かせた。これで終わり。そういう約束だっただろ」


 少年は『聞いたら帰る』という約束を思い出したのか、露骨に顔を顰めた。

 ……身体や顔に痣とかないし、虐待とかは受けていないと思うのだが。どうしてそんなに帰りたくないのだろう。何か理由があるのかもしれないけれど、そこまで関わってやる気にはならない。

 ギターを壁に立てかけて、腰を上げる。立ち上がった私を、少年は名残惜しそうに見上げた。


「送ってやるから、住所教えな」


 玄関へと歩き始めた私の後を追う足音はすぐに起こった。次いで住所を告げる早口。

 外へ出る直前、玄関で下駄箱を漁る。自分のヘルメットを脇に抱えてから、草壁用のヘルメットを後ろに投げ渡した。少年はよたよたと両手で受け取る。


「なにこれ。……ヘルメット? 何で?」

「いいから被って」


 少年は釈然としていない顔で、しかし大人しくヘルメットを被った。草壁用のそれは小さな彼には些かサイズが合っていなかったが、最低限の用途は果たしそうだったので是とした。

 私自身もヘルメットを被り、少年を連れて庭へ出る。その片隅に置かれていたバイクを目にして、少年は私とバイクを交互に見比べた。


「……きみ、中学生、だったよね?」

「送ってあげるから内緒にしとけよ」


 少年を後部座席に乗っけてすぐ、我ながら手慣れた動作で発進する。

 私の腰に腕を回した少年が振り下ろされない程度の安全運転を心掛けた。

 頬を撫でては去っていく夜風が心地いい。何も考えなくていいような気さえしてくる。当然、そんなわけはないのだけど、バイクに乗っているときだけ、私は色んなしがらみから解き放たれている。

 少年が口にした住所は案外近かった。よく考えてみれば、子どもの足で毎日私の下に通える距離にある筈なので、当然のことといえた。

 意想外だったのは、家の規模である。一瞬間違えたかと思って引き返しかけたが、少年に耳元で「あそこだよ!」と怒鳴られた。いくらバイクが走行中時は会話しにくいとはいえ、わざわざ耳元で大声を出す必要はないのでやめてほしい。普通に五月蠅い。

 私の気持ちを端的に表現しよう。
 デカイ。とにかくデカイ。無駄にデカイ。

 建築の教科書に載っていてもおかしくないような、お手本みたいな日本家屋である。恐る恐るバイクを停めて、門構えなぞを検めてみる。月並みではあるが、とても立派な門構えであった。

 気後れする小市民こと私に対し、ヘルメットを外した少年は躊躇なく門前に立った。私を振り返り、少年は悠然と「ご苦労だったね」と言った。上司みたいな言い方はやめろ。

 少年の背後に据えられた、見るからに金のかかっていそうな表札には『雲雀』と記されていた。


「……くもすずめ?」

「ヒバリ。……中学生なのに、この程度も読めないの?」


 明らかに馬鹿にした言い方に、私は知らず「わざとだから」と抗弁していた。それぐらい読めなくても人生はどうとでもなる。少年はいかにも疑わしそうに「ならいいけど」と呟いた。

 ヒバリなんてなかなかお目にかかれない苗字だ。ここが彼の生家ということは、少年の苗字は雲雀ということになる。事此処に至って、私は今まで彼の名前をまったく知らなかったことに気付いていた。

 とはいえ、知ったからどうというわけでもない。少年の送迎は恙無く完了したし、長居する必要もなかった。私がバイクを反転させると、何故か少年は慌てたように口を開いた。


「もう行くの?」

「うん」

「あの、茶色いおかず。何て言った?」


 ハンバーグを茶色いおかずと形容するのは初めて聞いたなと思いながら答えてやると、少年はオウムのようにぎこちなく「はんばあぐ」と反復した。


「じゃあね。おやすみ」


 片手を挙げて、改めてバイクを発進させる。少し距離が出来てから振り返ると、少年は家に入ることもなく依然門前に佇立したまま、じっとこちらを見つめていた。

 とんでもない奴に懐かれてしまったかもしれない。漠然とそう思った。

 腰回りの温もりが消えてしまったことを少々残念に感じたのは、気のせいにしておく。



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