月に叢雲 花に風 -前編-




「耐え忍ぶこと……か……」

 声変わりの気配もまだ遠い、甲高い少年の声をかき消すように、びゅうびゅう風が吹く火影の顔岩の間を吹き荒ぶ。

 父親の先ほどの言葉を理解するのは難しいが、言いたいことは理解できたつもりでいた。

 しかし、素直に口にはできないが、一緒にいて欲しいし構って欲しいという想いが胸の内を占め、寂しげに空の色と同じ青い瞳が揺れる。

 バケツとブラシを持って落書きを消すためにロープをたらし、いつものように顔岩に足をかけた。

 いつもなら、この時間が大好きで、怒られながらも父が傍にいて、一緒に落書きを消す時間だけ、独占できた気持ちになれて、満足であったのに、ここ数日まともに帰ってきてくれもしないどころか、忙しそうに駆けずり回っている。

 偉い人たちが集まるのだと、大人たちから聞いてはいても、父親がいない家のがらんとした空間が何とも言えず、朝食を準備しているヒナタがボルトとヒマワリの配膳を済ませて、隣りの人の不在に、少しだけ寂しげに視線を落とす姿は、やはり胸が痛かった。

(父ちゃんはわかってねーんだってばさ、母ちゃんが色々我慢してるの……)

 ナルトの前では全くそんな気配すら悟らせないようなヒナタの姿を見ている子供たちにとって、父親の無知は苛立ちを募らせるものであったのだが、それを責めることを母であるヒナタが望んでいない。

 いつも優しくお日様のようにあたたかい。

 厳しくしかられることもあるけれど、だけどそこに愛があると知っている。

 だからこそ、そんな優しい母が辛い思いをしているのが許せなかった。

 確かに自分も構って欲しい、寂しい、だけどそれだけじゃないと、我知らず拳をきつく握りしめたボルトは、悔しそうに息をついたあと今朝見た母を思い出し、寂しげに名を呼んだ。

「……母ちゃん」

「なあに?」

 何か聞こえた……と、ボルトは落ちていた視線を上げれば、風に長い髪を揺らめかせ、ナルトと同じように顔岩の上をロープナシで移動しているヒナタの姿があった。

 その手には、ボルトと同じようにバケツとブラシが握られている。

 重力を感じさせずに、滑らかな動きで近くまで来る母を呆然と見つめてから、いつも傍にいるはずである幼い妹がいないのに気付く。

「え、あ……か、母ちゃん!?なんでっ!ヒマワリはっ!!?」

「ヒマワリは上でイルカ先生と一緒にお留守番してくれてるよ。ケーキ焼いてきたから、コレが終わったら一緒に食べようね」

「で、でも、母ちゃん!昨日買い物の途中で倒れたろっ!大丈夫なのかってばさ!」

「うん、少し貧血起こしただけだから大丈夫よ。ほら、ボルト、手が止まってる」

「あ、う、うんっ」

 母に促され、ボルトはゴシゴシと落書きを慣れたようにブラシでこすり綺麗にしていく。

 いつもは父との時間であるが、今日は母との時間であるらしいと理解し、お説教されるのだろうと落ち着かず、どうも父より母に怒られるほうが苦手としているボルトは、チラリとヒナタへ視線をやった。

 彼女は手早く落書きをこすり消していく。

 その表情からは何も読めないが、同期の母親たちの中では一番若く美しい顔立ちをしていると、思えた。

 多少家族の欲目もあるかもしれないが、優しく温厚であたたかい母が大好きだし、怒られると怖いし、泣かれるのは……一番困る。

 昔、母が一度本気で泣き出したことがあったのだ。

 その時の一家の動揺は、半端なものではなかった。

 誰よりも狼狽え、平常心を失っていたのは誰と言わずもがな……父であるナルトであったのだが、負けないくらい狼狽していた記憶がある。

 いつも穏やかで名前と同じひなたのような母であるというのに、その顔が曇れば、一家全員で心配してしまうし、父はやり過ぎだと認識しているが、それも仕方ないと思えるほどに母親のことは好きだと、ボルトは作業の手を休めることなく考えた。

「母ちゃん……」

「どうしたの?」

「……父ちゃんが帰ってこねーで寂しくないのかってばさ」

「寂しいよ」

 ぽつりと、よどみなく返された言葉に、ボルトの方が驚き母親の横顔を凝視する。

 いま何と言ったのだろうかと、目を瞬かせて脳裏でもう一度言葉を繰り返そうとした瞬間、ヒナタはふわりと笑い、再度言葉を紡いだ。

「お母さんだって、寂しいよ?」

「だ……だったら、だったらなんで!」

「ナルトくん……お父さんが頑張ってるから。夢を叶えて、その先を見据えて、また新たな夢の為に頑張ってる。だから、耐え忍ぶことが出来る。だって、ナルトくんは、家族を忘れるなんてことはしない。私たち全員をいつも思ってくれてるから」

「でも……父ちゃんはいいかもしんねーけど!」

「お父さんも寂しいよ。誰よりも家族が欲しい人だったから、きっといま……凄く寂しがってる。ボルトの気持ちも、一番理解できてるのはお父さんだよ」

「家族欲しかったのに、家族ほったらかしじゃねーか……」

「家族だから甘えられる。そして、信じられる。お父さんがあれだけ頑張れるのは家族がいるからだよ。ボルトもその力の欠片なの。ボルトとヒマワリがいるから、お父さんは頑張れるんだよ」

「でも……でも!ヒマワリも母ちゃんも寂しそうじゃねーか!父ちゃんが悪いんだってばさ!」

 自分だって寂しいはずなのに、母や妹のことを思う。

 そんな不器用さが、あまりにもナルトに似ていて、まぶしいものでも見るかのように目を細める。

「ボルトは優しいね」

 少し離れた場所で作業していたはずの母が、いつの間にか近くにいたことに、ボルトは驚いた。

 気配もなく近づくところは、父も母も同じである。

 ふわりと、父が拳骨をくれたところと同じ場所を、優しく撫でられ、不覚にも心が震えた。

 第四次忍界大戦で失ったという父の義手の右手の力強さも、小さい頃から知っている母の優しい手のひらも……

 どちらにも愛情がこもっていて、いまのボルトには痛かった。

 本当は理解しているのに、素直になれない心を抱え、そして、それはきっと目の前の母も同じなのかもしれないと思えば言葉もでない。

 子供だから声を大にして言えることも、大人になれば、色々なことが絡みついてきて言葉に出してはいけない状況もでてくるのかもしれないと、父と母の背中を見て思う。

 だから代わりに声を張り上げたかった。

 大好きだから、もっと一緒にいたいのだと、もっと家族の時間が欲しいのだと───

「ありがとう。いっぱい考えてくれて、いっぱい思ってくれて。ダメだね、お母さんがもっとしっかりしなくちゃだね。ボルトにこんなに心配されてるようじゃ……お母さん失格だね」

「違う!母ちゃんは全然悪くねーってばさ!悪いのはっ……悪いのは……」

 いつもならば『父ちゃんだ』と声を張り上げるところだが、先ほどの父の目にあった寂しさの影を見なかったワケではない。

 知らないはずもないのだ。

 子煩悩な父であり、母を溺愛しすぎて、時々子供と本気で母をとりあうくらい傍にいようとする姿を、誰よりも近くで見てきた。

(父ちゃんも……苦しい……この里が家族みたいなもんだって……でも、本当の家族はオレたちなのに……ちょっとくらい優先してくれたっていいって思うけど、コレがガキなのかな)

 先ほど素直に『寂しい』といった母の言葉を思い出す。

 本来なら言ってはいけないとわかっていたのだろうに、それでも口にした母の心はどこにあったのだろうかと、ボルトは優しい母の色素の薄い瞳を見つめる。

 寂しさに揺れる瞳の奥にあるあたたかな輝きは失われておらず、ただそこにいて、包み込んでくれるような優しさを持っていた。

 『家族だから甘えられる』そう言った母の言葉がそうだとするなら、先ほどの母は自分に甘えてくれて……その結果があの言葉であるならば?と思いを馳せ、ぎゅぅっと胸を締め付ける気持ちに耐え切れず、上着をきつく握りしめる。

(母ちゃんは、やっぱ……スゲーや)

 心にストンと落ちてくる言葉を誰よりも知っているし、心にある暗くて冷たいものを吐き出す方法を、さりげなく教えてくれるのだ。

 知っているからこそ、わかっているからこそ、子供相手だからと誤魔化さず、正面から向き合ってくれる。

 それが、今のボルトには何よりも嬉しかった。

 ボルトは、格好悪くてもなんでもいい、母のその心に応えたいと、自らの内の奥底にある言葉をそっと拾い上げる。

 本当は父に言いたかった言葉で、伝えたかった言葉だとわかっていて、ずっと飲み込んでいた言葉……

「母ちゃん」

「うん?」

「……オレも寂しい」

「うん」

「父ちゃんと母ちゃんとヒマワリと……もっと一緒にいたい」

「うん」

「寂しいんだから仕方ねーだろ!大好きだから寂しいんだってばさ!文句あっかーっ!バカ親父っ!!」

 ボルトは声の限り叫び、本音を漏らすと、大きく息を吐いてから、照れ臭そうにへへっと笑う。

 1人じゃない。

 父が不在なことを寂しいと思うのは、家族だから、大好きだから……皆寂しい、そしてそれは父であるナルトもそうなのだと理解して、ボルトはジワリと浮かんだ涙をこらえた。

「ちぇ……少しぐらい我慢してやるってばさ。オレ、父ちゃんも母ちゃんもヒマワリも大好きだからな!ちょっとうるせーけど、里のみんなも大好きだってばさ!」

「ありがとう。ボルト」

「母ちゃん、オレ頑張る。父ちゃんがいなくても、母ちゃんとヒマワリが安心できるくらい、オレが二人を守れるくらい強くなるってばさ!父ちゃんに負けねー男になってやる!」

「ふふ、ボルトなら大丈夫だよ。ナルトくんの子供だもの、きっとなれるよ」

 父を思いだしているのだろうか、嬉しそうに目を細めて笑う母を見て、ちぇっと少しだけ拗ねた表情を見せるが、父と母が仲が良いのは今にはじまったことでもないし、二人が仲が良いと嬉しい。

 時々本気で喧嘩することもあるけど、家族は至って円満だと思えるし、どこに出ても恥ずかしくない両親だと胸を張れる。

(ただ……父ちゃんに素直にこんなこと言うつもりねーけど)

 フンッと鼻を鳴らしたボルトは、再び掃除を再開し、母の手際の良さに感心しながら、父より早く終わるだろうと苦笑を浮かべ、あの英雄と呼ばれる父もやはり母には形無しなのだと改めて知った気がして、こみ上げてくる笑いを止めることが出来ずにいた。




 数刻が経ち、ようやく五影会談が終わったのは夕日が里を染めあげている時間であった。

 黄金の夕日が空を茜色に染め、空は様々な色を織りなす。

 我愛羅以外の影たちが退出したのを見送り、ホッと一息ついたナルトは、凝り固まった肩を解すように軽く首を回した。

 思いのほか疲れていたようで、我知らず深いため息が零れ落ちる。

 ここ数日まともに家にも帰っていないし、さすがに疲れがたまっていても不思議はないだろうと、再度息をつきふっと視線を外へと向けた。

 さて、息子一人放置してきたがどうなっただろうかと気になって落書きがいっぱいされていた火影岩の方を見てみれば、落書きが嘘のように消えていて、ボルト1人でやっているにしては早いなと、ナルトは眉を寄せる。

 チャクラ吸着もまだできないボルトがあれだけのスピードで落書きを消すということができるとは思えないし、考えられないだろう。

(木ノ葉丸が手伝ってんのか?いや……アイツがやるわけねーか)

「どうしたナルト」

「あ、ああ、ボルトが落書きしたの消してるんだけどさ。やけに早いなーってな」

 我愛羅の言葉に反応して言葉を返せば、ふむとひとつ頷いて釣られるようにそちらに目を向ける。

 大分綺麗になった火影岩の落書きは、落書きがなんであったかほとんどわからない状態になっていて、ナルトの顔の額あたりにある赤いラインが一本残るのみとなっていた。

「寂しいのだろうな」

 互いに孤独な幼少期を送ってきていたのだ、ボルトの気持ちがわからないワケではない。

 だからといって、それを容認することも、立場上難しい話でもあった。

「親ってのは難しいな」

 ぽつりと呟かれた言葉に、今まで黙っていたシカマルは苦笑を返し、我愛羅は吐息をつく。

「そのようだな……オレにはわからん。だが、お前たちを見ているとそう思う。しかし、ヒナタ殿が頑張っているのだろう?心配はいらないのではないのか」

「ばっか、そのヒナタ1人にまかせっきりっつーのが一番堪えるんだっつーの。アイツ……オレに弱音吐いてくれたらいいのに、最近我慢し過ぎてるしさ、言ってくんねーの。それが……つれーし寂しい」

 切なそうに眉根を寄せて里を見るナルトの表情に、うっすらと陰りが見えた。

 もともと彼がどれだけ彼女を大事にしているかなど知っていたし、その命かけて守っている場面だって見てきた二人である。

 大筒木トネリの件、忘れようもない事件であったし、今でも暗く影を落とす。

 月が大きくなる夜は、誰もがあの時のことを自然と思いだしてしまうような……言葉にこそしないがそれを察することが出来るような気配はあった。

 今日の月も大きくて、地上に一番近づくだろうと、複雑な思いで3人は空を見上げる。

 1000年という時を越え降臨した、脳裏をかすめる男の涼やかな声を思い出しながら……

「あ、もう会談は終わったのね」

「本当なんだなコレ」

 そう言って片づけの為に入ってきたのは、サクラと木ノ葉丸であった。

 二人は手早くテーブルの上にあるものを盆に乗せ、片づけていくのだが、ナルトが何やら熱心に見ているモノが気になったのだろう、視線を辿らせてから納得したようにそれぞれの反応をする。

「またボルトね」

「ああ、そろそろ行って手伝ってやんねーとな」

 はたと我に返ったようにナルトは火影岩から視線を外し、戸口を目指す。

 先ほどまでは火影の顔をしていたというのに、今はもう父のそれである。

 そんなナルトに、木ノ葉丸がため息をつきながら声をかけた。

「あー、それだったら、ヒナタ姉ちゃんが手伝ってたんだなコレ」

「は?」

「火影夫人がそんなことしちゃダメだって言ったんだけど、母親だからって聞いてくれなくって、ああいうところ本当に頑固なんだなコレ。ヒマワリはさすがに危ないからイルカ先生が面倒見てくれてるみたいだったけど……」

「そうか……ヒナタが……」

 きっと何か気になることでもあったに違いない、そういう時は必ずといっていいほど、彼女がフォローしてくれていたり、何か言葉をかけてくれたりしていた。

 そうなると邪魔になるんじゃないかとか、色々考えが浮かんできて、二の足を踏んでしまう。

 父親に素直になれない息子ではあるが、母親にはとても優しい気遣いを見せる子だということは熟知していた。

 そんな二人の会話を聞いていたサクラが、ふと顔を曇らせ、心配そうに火影岩へと視線をやる。

「大丈夫かしら、ヒナタ」

「ん?」

 何が大丈夫なのかと疑問を持ったナルトがサクラを見ると、彼女は心配そうに眉根を寄せて、あまりにも夢中になっていたために傾きそうになった盆を持ち直す。

「昨日あの子貧血で倒れたでしょ?あんなところで作業してて大丈夫かしら。落ちなきゃいいけど……あの高さから落ちたら怪我くらいじゃ済まないもの」

「……は?」

「あ、あれ?ナルト聞いてないの?あの子、昨日運ばれてきたのよ。買い物の途中でうずくまっちゃったみたいで、心配した商店街の人たちが大騒ぎしちゃってね。軽い貧血だったけど、よく眠れてないんじゃないかしら。具合悪そうだったわよ?」

「そんなこと……アイツ一言も!んじゃあ、あんな高いところで作業なんてしてたら!」

 邪魔じゃないかとか、ヒナタの都合だとか、ボルトの説得だとか、そんなことが頭から綺麗に霧散し、周りの言葉などもうすでに頭に入っていないのだろう。

 自らの妻のことだけに考えが向いてしまい、不安だけが胸を占める。

 忙しくてそれこそ二人きりで話をすることも、ここ数日なかったし、そんなことを言って心配をかけまいとする性格だということも知っていた。

 だがしかし、それでも言って欲しいと思うし、甘えて欲しいとも思う。

「あの……バカ!我慢ばっかりしてねーで、時には我が儘言えってんだ!!オレが……オレがつれーだろうが!!」

 沢山のことを我慢して耐え忍んでくれているのは知っているし、理解しているつもりではあるのに、こういう肝心なことを教えてくれないところは変わっていない。

 こうだと決めたら、頑として口を閉ざしてしまう。

「アイツになんかあったら、オレが生きてらんねってばよ!」

 言うが早いか、ナルトは一陣の風のように会談で使われた部屋を飛び出し、一目散に火影岩を目指す。

 それこそ誰も追いつけぬスピードでぐんぐんと走り、ちりっと彼の周囲に黄金の炎のようなチャクラが見え始めてしまうのは致し方がないのかもしれない。

 里の者たちが何があったのだろうかとナルトの方へ視線を集めるのだが、それすら瞬時のことで、呆然と見送るしかできなかった。









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