露草の咲く夜に 3





「好きですよ」

「サイ」

 ヤマトが慌ててサイを止めようとするのだが、サイは今までの鬱憤を晴らすかのように、感情を篭めない目をしてつき姫に向かって抑揚のない声で質問に答える。

 ここ数日のヒナタへの辛い当たりように腹を立てていたのは、何もナルトだけではない。

 サイも大事な仲間二人が少なからず傷ついていく様を見ているのに、苛立ちを覚えていたのであった。

「見ていてわかりませんか?ナルトはヒナタさんが好きですよ。好き……というには生ぬるいほど、愛していると思いますよ」

「な、何故言い切れるっ」

「ナルトがあんな幸せそうに笑うことが出来るのは、彼女がいるからです。とても良い顔をするんですよ」

「私は……見たことが無い。今回は、とても機嫌が悪そうに黙っていることが多かった……」

「それはそうですよ。ヒナタさんが泣きそうな顔をしていれば、ナルトは心配して心を痛めます。彼女が笑っていれば、安心して微笑んでくれます。彼女だけなんですよ」

 一旦言葉を止めて、サイは遠くを見てから続きの言葉を紡ぎ始める。



「ナルトの心に寄り添える人は……」



 この前の休みの日に、どこかへ行くのか、楽しげに話をしながら並び歩く二人を見たのを思い出す。

 少し真剣な目で手を差し出し、その手に己の手をおずおずと差し出したヒナタの姿。

 そして、その手を大切な宝物のように握った瞬間に見せたナルトの笑顔。



「ナルトの乾いた心に潤いを与えることが出来るのは……」



 いつの日だったか、誰かの墓石の前で雨の中佇むナルトに、ソッと寄り添い何も言わずともに濡れて立っていた彼女に、何も声をかけることがなかった彼が、堪えきれずに肩へ額を預ける。

 きっと泣いていたのだろうと思うのだが、彼女は何も言わず、ただ優しくナルトの頭を撫でていた。

 その光景が胸を打ったのを、まだ覚えている。



「挫けそうになったとき、その先を指し示すことが出来るのは……」



 第四次忍界大戦での光景は忘れようが無い。

 誰もがかける言葉が無く、周囲の惨状に呆然としている中、彼女という人物からは考えられない行動をとったのだ。

 彼女がナルトの頬を打つなんて、彼女を知るもの全てが考えもしなかっただろう。

 しかし、その打った手は、ずっとナルトの頬に添えられ、語られる言葉ひとつひとつにナルトの瞳に光が宿り、最後には強い光を宿して彼女の手を取り、共に立ち上がった。

 あの時、自分に出来ることをやっていたが、二人の姿は空から見ていてよく知っている。



「彼女だけなんです」



 ふわりと偽りのない笑みを浮かべたサイの言葉に、ヤマトは軽く息を吐いて、自然と浮かび上がる笑みに手をあてがい覆い隠す。

(随分と、人間くさくなってきたじゃないか……サイ)

 最初会った頃のサイと今のサイは別人のようだと、これもナルトの影響なのだろうと思いながらも、その変化を嬉しいと感じている自分がいて、やはり自分も大分毒されているなと思えば、今度は苦笑が浮かび上がる。

 誤算……

 だけど、嬉しい変化であった。

 そして、そのあたたかさが、これからは必要なのだと知っている。

「だから、ナルトはヒナタが大事……なのか?」

「ボクはナルトではないから、全てはわかりません。でも、コレだけはハッキリ言える。ナルトがヒナタさんを悲しませることを一番嫌うってことを……」

 ピクリと反応したつき姫は、視線を地面に落として、自分の両手を握り締めた。

 数々のヒナタへの自らの仕打ちを考えれば、ナルトが何故不機嫌であったかなど答えを聞かずとも理解できる。

 時折見せる切なげな表情が自らに向けられないか、あの熱の篭った視線を、自らのものにできないか、そう考えていた数日間であった。

(最初から勝ち目などなかったということか……)

 敵とのやり取りの中で見せた、激しい怒り。

 下山途中の悲しみに満ちた瞳。

 必死に頼み込むナルトの切羽詰った表情。

 どれもが、彼女の行動が引き出した己の知らない、してくれもしないナルトの表情。

 そして、あの触れるか触れないかの背中合わせの会話……

 あの瞬間に、確かに割って入れない何かを感じていたのだ。

 二人だけにある、二人だけにしかわからない、その熱という名の何か──

 小さく溜息をついたつき姫は、従者に促されるようにその場を辞すと、建物の中に入る前に、ナルトが駆け抜けた軌道を追うように視線を山頂へと向ける。

(きっと無事で……帰って来るのじゃぞ)

 サイが言う、ナルトとヒナタの自分が見た事がない笑みを見てみたい……そう願いながら──







 九尾チャクラモードを解くと、確かこの辺りだったはずだと降り立った場所を確認する。

 暗闇の中で目が慣れ、月明かりが助けてくれているように辺りはうすボンヤリと輝く。

 岩だらけのその場所に目を凝らせば血が点々と続いていて、それを辿り歩き出す。

 暫くするとゴツゴツした岩場ではなく鬱蒼と茂る森の中へと場所を移し、草や木々が生い茂る中で血の痕跡を追うのは困難であったが、九喇嘛が協力的にその鼻を生かして情報を提供してくれた結果、小さな洞窟のような場所を発見した。

 気配はない……が、彼女が気配を消している可能性があるだろうと、足を踏み入れる。

「ヒナタ?」

 怖がらせないようにソッと声をかけてみれば、確かに人の気配がした。

 そして、漂う彼女の甘い香り──

 久しぶりに感じた彼女の存在に、弥が上にも気持ちは高まる。

「……ナルト……くん?」

 返って来た自らの名を呼ぶ甘い声。

 その声が聞きたかったと全身がぶるりと震えるような感覚を覚えたのだが、それと同時に彼女が無事であった安堵感に、体の力が抜けそうになった。

 早く顔が見たい、無事な姿を確認したい。

 そんな思いが先走り、声がするほうへ言葉をかけながら走り寄る。

「あ……良かったっ!無事だったかってばよ!」

「こないでっ」

 しかし、意外なことに彼女から発せられたのは、拒絶の言葉であった。

 いつもなら、優しい笑みを浮かべて迎え入れてくれる彼女が……

「ヒナタ?」

「……お願い……来ないで……今は、来ないで……」

 何か変だと感じたナルトは更にヒナタの姿を求めて奥へ入っていくのだが、それと同じくらいの距離離れていく気配に、多少の苛立ちを感じ始める。

 触れることもままならない、久しぶりに会話らしい会話が出来そうだと思ったところでこの拒絶……

 傍に来るなという明確な拒絶は、ナルトの心に少なからずダメージを与えていた。

 無事だろうか、怪我は痛まないだろうか、誰かに襲われていないだろうか、一人心細くなっているのではないだろうか……そんな心配と不安を抱きこれ以上とない程の速度で走ってきたというのに、何故拒絶をされなくてはならないのか……

 ここのところ理不尽な扱いが多過ぎて、ナルトの心はまるで乾いた大地のように潤いを求めているというのに、その潤いを与えてくれる人物が離れようとする現実に心がついてこない。

「ヒナタ……何があった?どうしたんだよ……なあ」

「ナルトくん、姫様の警護は……」

「今はサイとヤマト隊長が見てくれてる」

「ダメだよ。ナルトくんの任務は……」

「お前が心配だったんだよっ!」

 何故かその言葉を最後まで聞きたくなくて、ナルトは彼女の言葉を遮るように声を上げた。

「わ、私は大丈夫だから……だからっ」

 声だけでは彼女が何を考えているかわからないと判断したナルトは、そんなヒナタの言葉を聞きながら、彼女が既にチャクラ切れで白眼もままならないのを知っていたが故に、悟られないように細心の注意を払いながら距離を詰める。

「だからお願い、帰って……姫様の警護について……私は一人で戻れるから」

「なら、一緒に戻っても同じだろうが」

 間近に聞こえた声に驚き声を上げそうになったヒナタは思わず身を引いたのだが、反対にナルトは逃げられないように片腕を掴み自らの方へ向かせようと引き寄せた。

 そんなナルトの行動に戸惑いつつも、ヒナタはナルトの顔を見ようともせず片腕で自らの顔を隠し、思い切り顔を背けてしまった。

「ヒナタ、顔見せてくれよ……」

 久しぶりにまともに顔を見たい、その目を見たいと切望しているのに、彼女は自分を見ようともしないどころか顔を隠してしまう事実に、ナルトは心がずしりと重くなるのを感じる。

 こんなに拒絶されることは今までなかった。

 恥ずかしがって逃げることはあっても、こんなあからさまな拒絶はなかったはずだ……

 その事実が、そんな態度をとるヒナタが信じられなくて、ナルトはガンガン痛み出す頭を感じながらも、何とかヒナタが拒絶する理由が知りたいと言葉を重ねるのだが、彼女は口を開くことも躊躇っている様子で何が何だかわからない。

「まずは顔……見せてくれ。無事だって確認してーだけだから……頼むからっ!」

「……ごめんなさい……見られたく……ないの」

「何を……」

「わ、私……いま……酷い顔してる……」

 震えるヒナタの体と、辛うじて見える口元が結ばれ、言葉を放とうと開かれるのだが、唇は震えていて言葉にならない。

(泣いているの……か?)

 そんな疑問すら浮かびあがるのだが、何故彼女が泣くのかが理解出来ず、不安は募るばかりである。

 体はこんなに近くにいるというのに、心がとても遠い。

 ここ数日感じていた距離感を保ったままの彼女に、何故邪魔が入らなくなった今も、そんなところにいるのだと引き寄せたくて、もっと傍に寄りたくて、更に彼女を引き寄せた。

「何で……そう思うんだってばよ」

 密やかな息すらわかる距離まで詰めたというのに、なのに、彼女の表情が見えない。

 彼女の瞳が見えない。

 彼女の本当の声が聞こえない……

(何で……なんでだよっ!オレを……オレを見ろよ!!)

 自然と掴んだ手に力は篭るのだが、それでも埋められない距離が切なくて、苦しくて……ナルトは眉尻を下げて唇を結んだ。

「わかって……いる……のに……」

「何が……」

 吐く息と同じように細かく震える声で呟かれた言葉に、かすかなヒナタの心を感じて、ナルトはピクリと反応を返すと、その言葉をジッと待つ。

 漸く彼女の心のカケラに触れることが出来ると、食いつくように、自分から見える桃色の唇を凝視した。

「私わかっているのに……任務だからってわかっているのに……辛くて……か、哀しくて……本当に……辛くて……」

「何がだよ……」

「この数日、一緒の任務だから……嬉しかったはずなのに……話せないし、目もあわせられない……声も……聞けなくて、ナルトくんは不機嫌そうに座っているし……邪魔……なのかなって……でも、声……聞きたくて……笑顔が見たくて……席を辞した後、姫様の笑う声が聞こえて……わ、私は笑顔が見れないのに、姫様は見れるんだなって思ったら……苦しく……てっ」

 どんどん涙声になっていくヒナタの言葉を聞きながら、ナルトは呆然とヒナタを見やる。

 顔を必死に隠して、涙を隠して、苦しげに息を吐いて自らの心を鎮めようとしている彼女……

 泣き顔が見たかったワケじゃない。

 笑顔が見たかった。

 柔らかなあの微笑が欲しい。

 くすくす笑う彼女の楽しげな声が聞きたい。

 自分の名を呼ぶ、独特のあの甘い声も……聞きたい。

 何よりも……本当に嬉しそうに笑ってくれる、あの最高の笑みが欲しい。

 なのに、今あるのは何だ?

 洞窟内に僅かに差し込む月明かりに煌く、この透明な雫は何だ?

 そんな疑問を自らの心に投げかけながら、ナルトは震える心が紡ぐ言葉をそのまま口にする。

「ヒナタ……オレを見ろ」

「や……だ……イヤ……私を見ないでっ」

「ヒナタっ」

「イヤ……こんなドロドロしたものを抱えている醜い私を見ないでっ、見られたくないの……お願い……お願いだから……一人にして、見ないでっ」

「いいから、オレを見ろって言ってんだろっ!」

「イヤっ!もう……お願いだから……」

「オイっ!ヒナタってば!」

「もう放っておいてっ!!」

 その言葉が放たれたと同時に振りほどかれる手に、ナルトは信じられないものでも見るような目で振りほどかれた己の手を見た。

 完全なるヒナタからの拒絶──

 ヒナタという人物を知ってから、あり得るはずも無かった彼女からの初めての完全なる拒絶に、ナルトは奥歯をギリッと噛みしめる。

(お前……が……ヒナタ……お前がオレの手を……振りほどくって言うのかよ……お前がっ!!)

 心を満たしていたヒナタへ対する心配や疑問なんてものは吹き飛び、ただ純粋な怒りがぐらぐらとマグマのような熱とエネルギーを持って噴出さんばかりに鬱積し、それと同時に嵐の前の静けさを感じさせるように、心は凪いでいた。

「お前が……オレを否定すんのかよ……」

 低い……ナルトの低い声に、ヒナタはビクリと体を震わせる。

 ナルトの底知れぬ怒りが自らに向けられているのを感じ、体が自然と小刻みに震え始めるのだが、目の前のナルトがどういう状況であるのか確認したくなった。

 しかし、やはりこんな醜い自分は見られたくないと手の離れた今がチャンスとばかりにナルトから距離をとろうとするのだが、彼は素早い動きでヒナタの両手首を掴むと体を引き寄せ、静かな怒りを宿した瞳をヒナタに向けたまま視線を無理矢理絡ませ合わせた。

「ヒナタ……」

 怒りの篭った目に射すくめられながらも、ヒナタは自分の醜く歪んだ表情を見られたことに対するショックで、とめどなく涙を零し、ゆるゆると首を左右に振る。

 そして、『イヤ』という言葉を繰り返し、腕に力を篭めて再度ナルトを振りほどこうと腕を強く引くのだが、びくともしない彼の手に拘束された手首が鈍い痛みを訴えた。

「み……見ないで……私……こんな……こんな自分がいるなんて知らなかった……こんなに醜くて……こんな汚い自分がいるなんて……知らずにいたかった……」

 震える声が紡ぎ出す言葉が洞窟の中に響き、その悲痛な叫びをより一層訴え、いつものナルトであれば、彼女を抱きしめ慰めるといった行動に出ると予測されたが、今はただヒナタを鋭く睨み付けている。

 この心ごと消えてしまえば良いというかのように、彼女は心からの叫び声を上げた。

「こんな自分は嫌いっ……見たくない……見たくないのっ!」

 涙に濡れた薄紫色の瞳が困惑と哀しみと、己に対する失望の色で染まっている。

 こんな自分は嫌いだとその瞳が叫んでいた。

 どれだけその心が綺麗で、純粋で、優しくて、美しいか知らないで……

「こんな私は大嫌いっ」

 嫉妬という感情をはじめて知ったヒナタの心が、その気持ちを否定しようと必死になればなるほど、自らを否定されているような気持ちになったナルトは、次の瞬間カッと燃え上がるような熱の奔流を心に感じ魂のままに叫ぶ。

(オレを見ようともしねェで、オレの気持ちも知らねェで……オレの一番大事なモンを……勝手に否定すんじゃねェっ!!)

 心の奥底にしまいこんでいた、一番キラキラして大切なモノ。

 それをほかならぬ彼女の手によって塗りつぶそうとする行為……

 ナルトにとっては、ソレを許すわけにはいかなかった。

 誰でもない、彼女だからこそ、許せない。

(そんなに……そんなに見たくねェのかよ……その心も。オレもっ!!)

 彼女が否定する心。

 その根源が何であるか知らないで、その心がどこから来るのかも見もしないで、彼女はその感情ごと否定する。

 ナルトへの想いを否定する──

(そんなに見たくねェのなら……)

 ギリッと知らず知らずに噛みしめた奥歯が音を立て、燃え上がるような怒りを心に抱え、瞳に青い炎のような静かな怒りを宿し、ナルトは口を開く。

 ここまで怒りを感じたことがあっただろうかと、ここまで彼女に対しての怒りを抱えたことがあっただろうかと、激情が渦巻く心から零れ落ちた言葉は、相反するほど冷たく無機質なものであった。






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