露草の咲く夜に 9




 腕の中で息をしているのか心配になるほど動くことなく静かな眠りについているヒナタの頬に手を添えてから親指だけを滑らせて唇の上に置き、呼吸を確かめる。

 弱々しく浅い呼吸が繰り返されているのが指先で確認できて、少しだけホッとするのだが、彼女の呼吸の弱さは、そのままこの世で生きることへの拒絶のような儚さを思わせ、ナルトは思わず眉根を寄せる。

 彼女は極力過去のことを語らないようにしているが、順風満帆な人生を送ってきていないということは十二分に承知していた。

 もう少し語ってくれたら良い……もう少し頼ってくれたら良い……

 そんなことを思っていても強くは言えなかった。

 今までは──

(今度からは……言えるよな。お前に言っても良いよな……頼ってくれって、生きてくれって、一緒に……生きようって)

 何度もシミュレーションしたような告白ではなかったし、どっちかというと、告白より先に唇を奪ってしまったという想定外過ぎる自らの行動を、今更ながらに反省するところはあるのだが、後悔はしていない。

 そして、彼女の唇の甘さはクセになることも同時に知った。

 柔らかくて、甘くて、何度も何度も重ねて味わいつくしたと思ったのに、唇を離した瞬間また欲しくなってしまう。

 離れるのが難しく、求めることは容易い。

 唇だけでもうっとりとしていたのに、本能が訴えるままに舌を差し入れたときの何と甘美なことか……

 彼女の口内は少しだけひんやりしているのに、内を探っていればどんどん熱くなってきて、口内を余すことなく舐めれば柔らかな感触とともに、上品な甘さを感じられた。

 菓子のようでもあり、蜜のようでもあり……この世の甘露と言っても過言ではない。

 彼女の口内の奥で震えていた舌を見つけて絡めれば、彼女のくぐもった声が漏れ、舌と口内と唾液の甘さに加えて、彼女の声の甘さも追加された瞬間、信じられないほどの衝撃と欲望を覚えた。

 今だって思い出すだけで体は熱くなるし、無防備に眠っている彼女の唇を貪って、再びあの甘さを味わいたいという思考が頭を掠めてしまう。

 緩やかに上下する胸も魅力的で、彼女が起きているときに凝視は出来ないが、今はとがめる者もいない。

 正直触れてみたいと思う。

 歳相応の青少年らしい興味である。

 しかも、自分の愛しい彼女であるならば余計に──

 知らず知らずに息を詰めていたらしく、苦しくなって呼吸をほぅと吐き出してから、ちらりとヒナタの顔を見つめた。

 安心して穏やかに眠る彼女の顔を暫く眺めていたナルトは、妙な動悸がどんどん静まっていくのを感じる。

(そーいうことよりも、やっぱ……この穏やかな寝顔を守ってやりてェな……)

 手に伝わる柔らかな肌の感触。

 同じ人間でもこうまで違う質感……柔らかく儚く少し力を入れたら壊れそうなほどで……

 だからこそ、守りたいという庇護欲が男には生まれるのかもしれないと、ナルトは口元に笑みを浮かべてヒナタの顔を光苔の明かりの中で見つめた。

 もう少ししたら起こさなくてはならない時間になるだろうと、ナルトは洞窟の壁に遮られて見えない外の空気を感じるように目を閉じる。

 薄暗い空に朝日が顔を出し、その光に照らされて全ての生命が脈動するような不思議な感覚が、全身で感じられるようになった。

 仙人修業の賜物かもしれないなと、軽く息をつくと、腕の中の彼女が身じろぎをして、重そうに瞼を持ち上げるのが見える。

「……ん」

「おはよう、ヒナタ」

「……あ」

 まだ夢と現の間で彷徨っている、ぼんやりとした目を見つめてから、鼻先にちゅっと音を立てて口付けを贈り、彼女が寝る前に約束したとおり、甘い言葉を囁いた。

「寝起きも可愛いな。ヒナタ……大好きだぜ」

「……え、あ……夢じゃなかった……良かったぁ」

「そんなこったろうと思ったぜ。オレの告白を無かったことにしてくれんじゃねーってばよ。まあ、足りねーなら、いくらでも言ってやるけどな」

「い、いいですっ、そ、そんなに言われたら、わ、私……心臓が、こ、壊れちゃうっ」

「んー?壊れるかやってみっか?……壊れるのは心臓か……それとも……だな」

 ニィッと笑ったナルトの笑みに含まれるものを過敏に感じ取ったヒナタは、首を慌ててぷるぷる左右に振って何とかナルトから逃げようとするのだが、完全に体を拘束されてしまっているのだから、逃げ場も無ければ体勢すら整えられない。

「ま、朝からはさすがにやんねーよ。昼前までには帰って来いって言われてるしな」

「……あ、連絡とれました?」

「おう。軽く朝食とったら、迂回して周辺探索で残党がいないか確認しつつ、露草の原と祠の被害状況確認を頼まれたってばよ」

「は、はいっ。あ、朝ごはん……」

 朝食というよりは携帯食があったはずと、自分のポーチを探ろうとしたヒナタは、ナルトが横に置いてあった果実を笑みと共に差し出したことに驚き、数回眼を瞬かせて彼を見つめる。

「影分身に探しに行かせただけだってばよ。前に来た時にある程度わかってたからさ」

「な、ナルトくん……一度来たところのことは結構覚えているんだね」

「そりゃな。一応エロ仙人に叩き込まれたってばよ。一度行った場所の特徴と食べ物と地形は覚えておけって」

「……旅に出てから?」

「ああ。そうだ、ヒナタ……一度、オレと旅行に行かねーか?お前、一度も旅なんてしたことねーだろ」

「う、うん……」

「白眼が狙われ易いのはわかってるけど、オレがいればそこまで危険じゃねーだろうし……今度綱手のばあちゃんに頼んでみるってばよ」

「え、で、でもっ」

 旅と言われてピンッとこなかったヒナタは慌ててナルトに言葉を投げかけようとして、自分が何を焦っているのか疑問に思う。

 日向宗家嫡子として、任務以外で里の外へ出ることは難しい。

 そして、何よりも……二人きりというのは……色々と問題があるようにも思える。

 年頃の男女が旅行……と、考えただけで、ヒナタの顔が朱に染まり、だいたい何を考えているか理解したナルトは苦笑を浮かべてしまう。

 邪な思いが無いとは言い切れないが、それよりもなによりも、彼女に自由に外の世界を感じて欲しかったのだ。

「ヒナタは任務以外で里の外へ出たことがねーから……外の世界のすげーところ、なーんも知らねェんだよな」

「……外の……世界」

「だから、オレが見せてやりてーんだ。任務も何もかも関係ねー、外の世界ってやつをさっ!今だから見ることが出来る。今しかねーって思うんだってばよ」

「今……しか?」

「オレとずっと一緒にいてくれんだろ?」

「う、うん」

「だったら、火影になるオレの横にいるんだからさ、早々里の外へ出るなんて出来なくなるんじゃねーの?」

「……あ」

 改めて言われてはじめて気づいたような顔をしたヒナタに対し、ナルトは悪戯っ子そのものの顔でニヤリと笑うと、人差し指をピッと立ててヒナタの注意を引くと、彼らしい元気いっぱいの輝く色を瞳に宿し、ヒナタを見つめた。

「今のうちだと思わねェ?」

「……うん、そうかも……そうだよね」

 ふふっとヒナタが笑えば、ナルトもニシシシッと笑い、堪えきれないように二人は額をつきあせて楽しげに笑ってから、ソッと合図を交わしたように軽く唇を触れ合わせる。

 それが嬉しくて、夢じゃなかったと安堵に満ちたヒナタの笑みに、ナルトも安堵して手を握り合った。

「色んなところがあるんだ。ヒナタには、オレがエロ仙人と旅したところを見て貰いてェなー」

「わ、私も見てみたい……」

「そうそう、海の町とかさ、湿地の村とかさっ」

「本当に色々あるんだね」

「ああ、綺麗なモノも沢山あるし、不思議なモノも沢山あるんだってばよ!」

 目を輝かせて語るナルトの言葉に耳を傾け、ヒナタは優しげに微笑みながら、その一つ一つに頷く。

 遠い思い出と、その時その時に感じたナルトの心が、キラキラと溢れ出しそうな言葉の数々……

 それを必死に語ってくれる彼が嬉しくて、それを見せたいと思ってくれている彼の心が嬉しくて、ヒナタは胸がいっぱいになるのを堪えきれず、甘いと息を漏らす。

「ヒナタだから見て欲しい。そして、感じて欲しい……オレが感じたモン全部。そして、一緒に感じてーんだ」

「ナルトくん……」

「他でもねェ。お前だからなんだってばよ。ヒナタ」

 優しく……だけど、どこか力強く、男らしく微笑むナルトの微笑み。

 その微笑を貰って、恥じらいながらも、可憐に微笑むヒナタ。

 そんな二人を見守るように、光苔は淡く輝いてから、邪魔にならないようにひっそりと息を潜める。

 二人を取り巻く甘い空気は、朝の気配に紛れて仄かに色づいていく。

 朝食をとるには、まだ時間がかかりそうではあるが……

 早朝の空気の届かぬ、光苔に守られたこの場所で、二人は互いの心のぬくもりを確かめ合うように、言葉を交わし口付けを交わし互いの存在を感じあうのであった。







 朝食を終え外へ出た頃には、日は活動するには丁度良い程度に昇っており、辺りを伺うには丁度良い明るさと言えた。

 鬱蒼と生い茂る森の、更に谷の下へと落ちてしまったのだから、まずはここを登らなくてはならない。

「ヒナタ、ほら」

「……えっと?」

 ナルトが自分に向かって両手を広げるという形で『ほら』と言われても、何が『ほら』なのか理解出来るはずも無く、ヒナタは首を可愛らしくコテンと傾げて見せたのだが、ナルトはその可愛らしさに心臓を射抜かれてしまったのか、急にその場に蹲る。

「え、あ、な、ナルトくんっ!?だ、大丈夫っ!?」

 ナルトのその様子に慌てたのはヒナタで、急ぎ駆けより彼の肩に手をやって顔を覗き込もうとするのだが、顔は下を向いたままだし何も言葉を発することなく蹲っている状態というのは、とても悪いことが起きたのかもしれないという考えをヒナタに抱かせた。

 しかし、実のところ、ヒナタの可愛らしさに悶えているだけという、第三者が見れば何とも間抜けで滑稽な構図なのだが、幸いここには彼と彼女以外の誰も存在しない。

(ハンパねェっ!!ヒナタの可愛らしさが……ハンパねェってばよっ!ど、どーすんのオレっ!!)

 口元を手で覆い、本気で悶え始めたナルトは、このままではマズイとがばっと勢いをつけて顔を上げれば、涙目の彼女が心配そうに見ていて、何だか申し訳ないような気分にもなってしまう。

(いや、ヒナタが可愛いのが悪いんだってばよ!……でも……すっげー可愛いってばよっ!オレの……か、か……かの……彼女……くそっ!その言葉だけでも照れちまうっ!!)

 言葉に出来ない悶えをどうしたら良いのかと、ナルトは途方に暮れていたのだが、ヒナタの目がうるりと潤いを見せて零れ落ちそうなのを発見すると、慌てて彼女の体に腕を伸ばし、膝裏と背中に腕を回すと抱き上げてしまった。

「あー、だから……つまりはさ、ここの谷を上がんなきゃなんねーだろ?」

「……う、うん」

 いきなり抱き上げられて驚いて縮こまっていたヒナタは、ナルトを見上げて、こくんっと頷けば、彼はニッと笑みを見せて得意げに言い放つ。

「オレが九尾チャクラモードで上までひとっ跳びすりゃいいってばよ。そんで、その後は探索開始だ」

「で、でも……ナルトくん、大丈夫?昨日寝てないでしょ?」

「ばーか、ここ数日まともに寝てねーヤツが何言ってやがる」

「でもっ」

「こういう時は、素直に……か、か……かー……あー、くそっ、照れちまうな」

「え?」

 ふいっとヒナタの視線から逃れるように視線を逸らしたナルトは、一度咳払いをしてからヒナタへ視線を戻して、一気に一息で言い切る。

「こういう時は、素直に彼氏に頼れってばよっ!」

「か、か……か……れ……かれ……し……」

「そ、そうだろ。オレら……その……こ、恋人……同士なんだから……よ」

「う、うん……そ、そう……そうだよねっ」

「おう!そうなんだってばよっ」

 互いに視線はウロウロと噛み合わず、だけど、言葉だけは何とか噛み合った様子で交わされた会話は、二人の頬を赤く染めただけではなく、首筋まで赤くなっており、とても激しい口付けを交わした者同士なのかと疑いたくなるような初さであった。

 そして、やはりお互い気になったのだろう、チラリと視線をやれば、見事に視線が絡まってしまう。

 そんなタイミングの良さに、ビクリと体を震わせるのだが、何だかそんなタイミングすらも愛しく感じる自分たちの変化に驚きを隠せない。

「ま、まあ……お前に頼られるのは正直嬉しいってばよ」

「……え、と……じゃあ、お願いします」

「おう!任せとけって!」

 体勢を安定させるために首に腕を回して身を預けてくれる彼女の行動に、心からの喜びを感じたナルトは、一気に九尾チャクラモードへと変化すると、そのまま脚に力を篭めて跳躍する。

 常人では決して届かない距離を一気に跳ぶと、器用に崖の岩肌を蹴った。

 風を切る音が耳に響き、ヒナタは自分では決して出せないスピードへ達しているナルトの動きに、普段の修業はかなり色々と抑えてくれているのだと知る。

 そして、もっと強くなって、彼と対等までいかずとも、組み手くらいはまともに相手に出来るようになりたいと強く願った。

「怖くねーか」

「……うん。ナルトくんが、強く抱きしめていてくれるから平気。それに、ナルトくんが落とすなんて思っていないもの」

「……そっか」

「うん」

 彼女の手放しの信頼が嬉しくて、愛しくて……

 ナルトは滲み出る笑みを口元に湛え、キッと遥か上空を見上げる。

 随分と深い谷に落ちたものだと、シッカリヒナタを抱え、足場を確認しながら軽く跳躍するのだが、ほとんど振動を感じることが無いヒナタは、チラリとナルトの表情を下から眺めた。

 空のように澄んだ青い瞳がキリリと上を見据えていて、その真剣な瞳そのものが綺麗で、格好良くて、ヒナタは思わず見惚れてしまう。

(格好良いなぁ……ナルトくんほど格好良い人はいないよね)

 ふにゃりと可愛らしい笑みを浮かべて、サクラやいのが聞いたら全否定しそうなことを胸中で呟き、すりっとナルトの首筋へと額をすり寄せる。

 その仕草一つ一つに、『ナルトくんが大好き』という気持ちが滲み出ていた。

 本当に口で語ることは苦手であるというのに、彼女の全身全霊は彼への愛情をよく語ってくれる──

 それを感じたナルトは自然と緩む口元を抑えることが出来ず、愛しい彼女の頭に頬を寄せちゅっと音を立てて口付けを贈るのであった。






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