本当の笑顔 9




 まるで頼りない幼子のようなヒナタの、あたたかさの向こうに隠された凍てつくほど冷え切った心に触れた気がして、ナルトはゆるりと瞳を開いた。

 そう、その心が、その精神が何よりも己を追い詰めるものだと誰よりも深く認識しているからこそ、その氷に閉ざされた本当のヒナタの心に触れたくて、ナルトはその為に必要なことをしようとヒナタの姿を見つめたまま口を開く。

「お前は前にオレが間違ったところへ行こうとしたら引き戻してくれたって言ってたけど、それはオレにも覚えがある。お前がオレを引き戻してくれた。中忍試験の時も、ペインの時も、第四次忍界大戦の時も、お前の勇気と本質を見極める目が救ってくれた。いや、本当はオレが知らないだけで、アカデミー時代だってそうだったかもしんねェ」

 静かに響くナルトの言葉に、ヒナタは一瞬驚いたように目を見開いたあと戸惑ったようにナルトの上着を握った手に力をこめたのだが、いけないことをしてしまったとでも言うようにすぐさま離してしまう。

 それを少しだけ寂しそうに見つめたナルトは、再び彼女の長い髪を撫ではじめ、心に感じたままの言葉を告げようと気負うことも無く、自然に思い浮かんだ言葉を受け入れる。

 ここへ来て、考えに考えた言葉など意味が無い。

 魂が感じたままの、素直であり胸を締め付けるほど苦しい想いを吐露すること。

 これが何よりもヒナタに届く言葉なのだとナルトは感じていた。

 言葉を紡ぐと同時に脳裏に浮かぶ光景は様々ではあるが、どれもこれもヒナタの優しさに溢れていて、その優しさを素直に受け取れなかった自らの未熟さが恨めしくも感じる。

 しかし、それを知っているからこそ、それを受けとめることは出来なくても記憶に刻んでいたからこそ、今があるのだと信じたい。

 少しだけ身じろいだ彼女は、押し付けられた胸板からくぐもった声で、小さく呟く。

「本質……」

「だってそうだろ?ヒナタってさ、肩書きなんて関係ねー、その人そのものを見る」

 その恩恵を誰よりも得てきたのが自分だと心の中で呟いたナルトは、アカデミー時代の誰もが持っていた冷たい視線の中、ヒナタの持っていた瞳の色だけがそうではなかったとハッキリ思い出せる。

 ほんの数十分前では気づくことが出来なかった、いや記憶にあったはずなのに宝物だというように闇の己が抱え込んでいた大切なモノ……

 どれもこれも、彼女の優しさに溢れていた。

 色あせていたアカデミー時代の記憶が一際色づいた場面が光放つように蘇り、胸を締め付ける愛しい記憶たち。



『な、ナルトくん……が、がん……ばって』



 サスケに声援をおくる声にかき消されるような小さな声。

 だけど、その声が優しく時を越えて自らに届く奇跡に、ナルトは心から感謝した。

 闇の自分自身と九喇嘛が齎してくれた優しくあたたかな記憶は、この先もずっと心を照らしてくれるだろうと疑いようも無い。

 新緑の樹の下で体を隠して顔だけひょっこり覗かせた彼女の姿。

 そこまでが、当時の彼女の最大の勇気だった。

 きっとそんな彼女が傷薬を持って走りより、傷の手当をしてくれたのは奇跡に近い。

 だけど、その心があふれ出すような優しさからくるものだと、今の自分は知っている。

 必死に足掻き這い上がろうとするナルトの手を、躊躇うことなく握ってみせる彼女という存在。

 胸に湧き起こる苦しいほどの疼きと痛みの奥に、何かが見えたのだがそれに手が届く前に、ヒナタが首を弱々しく振った方へ意識がむいてしまった。

 掴み掛けていたなにかが霧散してしまったのだが、それはあとからじっくり考えればいいとでもいうように、ヒナタへと意識を向ける。

 何かを否定し、何かを一定ラインから進ませないようにする彼女。

 ソレに覚えがあったナルトは、更に言葉を重ねる。

 今必要なのは、ソレじゃないと心で呟きながら……

「あがき苦しむ人の姿を、お前はちゃんと見ることが出来る。それって、すげーことだってばよ……そんなすげーことばっかしてるから、お前は自分の心をないがしろにしちまう」

「そ、そんなこと……」

「あるだろ?だから」

 そこで一旦言葉を切ったナルトは、少しだけ抱く手を緩めてから髪を撫でていた手を止めて、少し隙間が出来たことでハッキリと見える白い頬にぽろりと零れ落ちる涙を見つめる。

 赤くなった目元と、潤んだ瞳、そしてふわりと柔らかそうな頬に伝う透明な涙。

 心の氷が解け出たもののような透明な色に、自然と髪を撫でていたほうの手が動いて触れる。

 本当に彼の行動なのかと疑いたくなるほどに、優しく優しく壊れ物を扱うかのような繊細さで涙を拭い頬を撫でた。

「こうやって、泣いてんじゃねーか」

 掠れたような声で囁かれた言葉に、ヒナタは胸が苦しくなってしまうが、何とかそれを堪えて言葉を紡ぎ出そうと唇を一度開いてから再び閉じ、熱い吐息を零すのと同時に言葉を放つ。

「それは、私が弱いから」

 震える声と揺れる視線。

 ナルトにだけ見える彼女の表情は戸惑いに満ちており、いまだ見えない己の心が恐ろしいのか、それともいつものように鎮まらない波立つ気持ちの先にあるものを見たくないのか、脅えるように体を丸めている彼女。

 自らが弱いから、どんな仕打ちだって仕方が無いのだと納得しなくては生きて来れなかったのだろうと理解できる。

 そして、そんな思いをしなくては、そんな考え方をしなくては、ここまで来ることさえ叶わなかっただろう彼女の境遇がとても悲しく思えた。

 同情……というには深く、心にキリリと食い込むような痛みを伴う感情は、ナルトを責めさいなむ。

「弱いんじゃねェ、弱かったらもっとずっと前に壊れちまってる……強いからここまで持った。だけど、もういい……もう1人で頑張りすぎるな。もういいんだってばよ」

「だ、ダメ……だって、だって……わ、私……」

「すっげェ重いもん背負って、大人の過度な期待と絶望を押し付けられて、天才のネジと比べられて、挙句の果てには妹からも蔑まれて……辛くねェワケねーだろ。なのに無理して笑って……」

 この時、ナルトが何を意図してこの言葉を述べているのかを漠然と感じ取ったヒナタは、大きく体を震わせてから、信じられない者でも見るかのように彼の目を見つめる。

 ダメだとヒナタは思った、これ以上はダメだと。

 心をやっと支えているものが壊れてしまうと、ナルトの言葉と心と熱がソレを壊してしまうと、何を壊されてしまうのか理解していないのに『逃げなくてはならない』と本能に近いものが叫ぶのだが、先ほど緩んでいた手は今まで以上に力を加えられ、体がより密着して完全にナルトに押さえこまれ逃げることすらできない。

(何故……どうして?……ナルトくん)

「逃げるんじゃねェ」

 不意に耳元で低くも力強い言葉が放たれる。

 まるで心を全て見透かしたような彼の言葉は、ヒナタの動きを完全に封じてしまう。

 いや、まるで……ではない、完全に見透かされているのだと感じたヒナタは、心に湧き起こる羞恥に全身を紅に染めて、思い出したように抵抗を開始した。

(オレに純粋な力で敵うと思うなってばよ!)

 けれども、やはり巷の女性よりはキッチリと鍛えているだけあって片腕だけでは事足りず、本気のヒナタを押さえ込むために、今までは遠慮や色々な考えがあってセーブしていた行動を忘れてしまったかのように、ナルトは己の両腕でヒナタの体を無理矢理包みこむ。

 掻き抱くかのような力強さで拘束されたヒナタは動きを完全に止めてしまうと、ナルトの腕から逃れるにはどうすればいいかと思考をめぐらせ始めるのだが、そんな彼女の思考など手に取るように理解しているナルトは、ヒナタの心を覆いつくしている氷を砕くのは今だというように声を張り上げた。

「お前が支えてると思ってるソレは、支えでもなんでもねェんだっ!」

 フルフル首を振り「やめて」と小さく弱々しく繰り返すヒナタに、ナルトは更に己の腕にグッと力を込める。

 両の腕に納まる小さな体。

 幼いとき、少しばかり彼女のほうが大きかった気がするのに、いつの間にかすっぽりと包み込めるほど大きくなってしまった。

 骨格から筋肉、全てにおいて違う生き物であるのだと伝えてくる、柔らかさとぬくもり。

 本当ならばこういうカタチで知りたくは無かったなと、脳裏でそんな言葉が零れ落ちる。

 もっとゆっくりと、彼女の全てを感じ取れるときに抱きしめたかったと、もう一人の自分がぼやいた気がしたのだが、今はそれどころではない。

 彼女の心の氷の中に隠された本当の心。

 本当の気持ち。

 何ものにも捕らわれない、『ヒナタ』という存在を……彼女を知りたい。

(オレは、お前の笑顔が見たい……本当の笑顔が見てェだけなんだ)

 心から笑って欲しい。

 いつものように、何事も無いとでもいうような、淡くも優しい笑みじゃなく……心から、光溢れるような笑顔が見たかった。

 だからこそ、ナルトは彼女に向かって言葉を紡ぐ。

 ちゃんと言葉が届くように……

「お前の求めてる強さは、1人で生きていくソレじゃねェだろ?揺らぎもしない心なんて、人間じゃねェ。揺らいでいい、もがいていい、憎んでもいい、疎んでもいい、そんなもんが全部全部あってこその人間で、日向ヒナタそのものなんだ」

 恨まないはずがない、憎まないはずがない、疎まないはずがない、そしてそんな感情を知って揺らがない人間などいない。

 彼女が持っている気持ちは、人間らしい気持ちであって、誰もが持ちえるもの。

 ソレを無かったものにする……それはすなわち己の感情を殺していくことになる。

 感情を殺すのが悪いことだとは言わない。

 多かれ少なかれ、誰だってやっていることだろうと思うのだが、彼女のしてきたことは己自身を殺す行為に等しかった。

 周囲の誰もがヒナタに無関心であり、彼女自身もそれが当たり前だというように、己自身をないがしろにしてきたのだ。

 自分自身に無関心になることで、全ての痛みも苦しみも無かったことにする。

 心が痛み苦しむ己を、見なかったことにしてしまう。

 痛みを知らないワケではない、だからこそ痛みを覚えて波立つ心を無理矢理鎮めるのに、感情を凍りつけた。

 怒り、哀しみ、憎しみ、妬み……人にとってマイナスの感情となるもの。

 ソレが無いのは理想だが、その感情が欠落してしまえば人としてなりたたない。

 人間の感情は相反するものを持ち合わせているからこそ理解できるものである。

 複雑に絡み合う感情が相互関係にあるからこそ、複雑な感情を持ち合わせ、その中から大事なものに気づいていく。

「ちが……う……やだ……ちがっ」

「違わねェ」

 認められない辛さ。

 関心を持たれない辛さ。

 愛されない辛さ。

 それが心を傷つけ、苦しめる要因。

 その痛みを知っているからこそ、ナルトは今から自分がすることの残酷さを知っていた。

 彼女に無理矢理心を開かせるという行為は決して良いことばかりではない。

 ヒナタが心を麻痺させて感じなくしている傷の痛みを再度認識させることとなるのだから……

(だから、オレがいる。傍に居る……オレだって、お前の存在がなかったらこんなに……こんなにすんなり闇の自分を受け入れられたかわかんねェんだ。こんなオレでも、大好きだって言ってくれたお前の言葉がオレを強くしたって知ってるか?)

 胸の傷の疼きはまだ消えはしないけど……

 それでも彼女の存在が、心を優しく包んでくれた。

 ヒナタにとって、己がそういう存在でありたいと願うように、ナルトはその為にも自らの心の内を曝け出さなくてはならないと意を決し、心に焼き付いている闇の自分の言葉を思い出す。

「オレだって、掌返したような里の連中を本当の意味で納得なんてしてねェんだと思う。本当はさ、なんだよソレって……叫んで暴れてやりてェ。小さい頃、どんな仕打ちしてきたか、テメーらが忘れてもオレはぜってー忘れねェ!って……オレが知らないもう一人のオレが叫んでた」

「もう一人の……ナル……ト……くん?」

「九尾のチャクラを押さえる時にさ、もう1人のオレと出会った。ソイツがさ……叫んでたんだってばよ。よってたかってのけ者にして、今更なんだってさ」

 ヒナタの背中に回した手に思わず力が篭る。

 固く握り締められた拳に篭められた力は、その時の衝撃を伝えるようにふるりと震えた。

 その根底にあったのは、怒りなのか……哀しみなのか……

「ガキの頃、大人たちにさ冷たい目を向けられてさ、時には暴力ふるわれて……オレってば、傷の治り早いだろ?だから、『バケモノ』って……クラマのこと知らなかったけど、普通じゃねーんだってのはわかってた」

 思い出すのも辛い時代の記憶だけど、それでもその記憶に疼く傷より、ヒナタが今から感じる痛みのほうが数倍痛い気がして……いや、その痛みを覚える事実が自分にはもっと痛いと感じて、ナルトは淡々とその当時のことを語る。

 過去を思い出し疼く傷痕。

 だけど、それでももう過去のものだと思えた。

 それはきっと、少しずつだが受け入れ、自らの中で昇華してきたからに違いない。

 だからこそ、自らの傷痕すらも曝け出して、彼女の心に寄り添い支えたいと、心の底から望んだのだ。

「あの時は、わけわかんねーでさ……ただ、周りの人間全部がオレをのけ者にして傷つけてくる。憎しみからなるもの、面白半分にしてくるもの、自分の憂さ晴らしにしてくるもの、理由は様々で……人間ってのはこんなに残酷になれるんだって、今考えても背筋がゾッとする」

 ふるりと震えたナルトの体から感じるものがあったのだろう、ヒナタは先ほど引っ込めた手を恐る恐るナルトの胸元に添えた。

 優しいその仕草に、思わず笑みが零れる。

 自分が追い詰められていても、傷の痛みを思い出しはじめていても、それでも優しさを忘れないヒナタを、ナルトはやはり優しくもあたたかい奴だと、どこか嬉しく感じて頬を緩めた。

 添えられた手から感じるぬくもりは、じんわりと体にしみこみ心を満たす。

 ぬくもりを感じることができる心も、憎しみを感じて頑なになる心も、全てが自分なのだとナルトは腕の中のヒナタを見つめる。

「許したみてーに見えて、本当は心の奥底で許せていねェオレがいるんだってばよ」

「……それは……それは当たり前だと……思うの。それだけ傷つけられてきたら、しょうがないと思うの」

「だったらさ、お前のソレもしょうがねーんだよ」

「え……?」

「里の連中を許せねェオレも、許したいって思ってるオレも、憎いと感じるオレも、大好きだって思うオレも……全部オレなんだ」

「…………」

「今泣いてるヒナタも、苦しんでいるヒナタも、人を思いやるヒナタも、家族の愛を求めてやまないヒナタも……愛してくれない家族を恨みたくないから理由をつけて自分を憎んでいるヒナタも、全部全部、日向ヒナタなんだ」

 大きく身を震わせたヒナタは、今度こそ驚いたような顔をして顔をぐっと上へ上げると、ナルトを凝視するように見上げた。

 目を見ればわかると良く言ったものだと、内心自嘲気味に笑ったナルトは、彼女の可憐な唇よりも雄弁に己の気持ちを語る瞳に視線を絡ませる。

 『何故コレほどまでに隠した心の中へ彼は簡単に入ってくるのだろう』と語る、戸惑いの色を宿した薄紫色の瞳を凝視したナルトは、どんな色を宿していてもその瞳は美しいのだと改めて認識し、頬を少しだけ緩めるのであった。







 index