氷炎、湖面に浮く。 | ナノ


心臓が破裂するのではないか、むしろこのまま破裂してくれたらどれだけ楽だろうかと思ってしまうくらい心臓の鼓動は忙しなく鳴っていた。
ゼェ、ゼェと言う呼吸音はいつしかヒューヒューという音に変わった。もはやろくに酸素が肺に送りこまれていないような錯覚に陥る。

「炎の男を捕まえろ!」

しきりにそのような声が聞こえる。
炎の男は自分ではない、自分の師匠のことだ。おそらく自分が炎の男の弟子、という情報はすでに漏れているのだろう。
自分を捕まえて師匠をおびき寄せようという魂胆だろうか。何はともあれ、いい迷惑だ。
何時間くらいこうやって鬼ごっこをしているだろう。足も、肺も、限界の音を奏でていた。
殺されると確信しているわけではない。しかし捕まったら無事には帰してくれないだろう。
もう、つかまってもいいかなあと思い足を緩めた瞬間、グイッと横から誰かに引っ張られた。
足のスピードを緩めていたこともあり、自分の体は面白いくらいその力によって路地裏へと入っていった。

「こっち!ついてきて!」

薄暗くてよくは見えないが、声のトーンからして女の子、だろうか。相槌を打とうとするが、喉からはヒューという音しか出てこなかった。


この子に引っ張られてずいぶんと時間が経ったような気がする。繋がれた手は自分の手を離すもんかといわんばかりに強く握られていた。
やっと路地裏を抜けると、そこは先ほどと変わらない、ごく一般的な道路のはずなのに人一人いなかった。そこで彼女はようやく手を離し、ずるずると壁に寄りかかった。

「ハァ、ここまで、くれば、大丈夫。」

彼女はそう言うと自分の方に向かってニッコリと笑った。言いたいことはたくさんあるのだが、体力の限界をとっくに超えていた自分は地面に手をついて呼吸を繰り返すことしかできなかった。
それに気づいた彼女は自分の背中を優しく撫で、時々ポンポンと叩いてくれた。しばらくすると先ほどまで苦しくて仕方なかった呼吸がずいぶんと楽になった。ありがとう、とかすれた声でお礼を言うと彼女はまたニッコリと笑った。なんて、綺麗に笑う子だろうか。

「…あ、の…なんで、」

「へ?」

「なん、で、助けて、くれたんどすか…」

「ああ、あのね、私、困っている人見たら、ほっておけないの。ごめんね」

どうして謝ることがあるのだろうか。自分は慌てて首を横に振った。彼女はかなりお人好しで、それでいて謙虚な性格なようだ。しばらく二人で肩を並べて乱れた息を整えていた。突然、彼女が「そういえば、」と思い出したように口を開いたので、壁につけていた肩を少しだけ浮かした。

「どうして…君は追いかけられていたの?」

「…わてもよぉは知らへんけど、あいつらは、わての師匠が狙いなんどす。おおかた、わてを捕まえて人質に、でもとろう思っているんでっしゃろ…」

そこまで言ってギュッと足に回していた手に力を込める。それに気づいてか気づいていないかはわからないが、彼女は自分の頭を子どもをあやすようにポンポンと撫でた。彼女の手は手袋をはめているにも関わらずとても冷たかった。

「…そういえばあんさんは、」

「いたぞ!あのガキだ!」

突然横から男の怒声が聞こえた。もうここまで追ってきたのか。なんて執念だ。
ガチャン、と音が聞こえる。男が拳銃をこちらに向けていた。まずい、と思った瞬間、彼女は立ち上がり、まるで男から自分を守るように両手を広げる。

「なんだお前!お前には用はねえんだ!そのガキをよこせ!早くしねえと撃つぞ!」

「い…やです!この子が、怖がってます…だから、やめてください!」

力いっぱい伸ばされた手はフルフルと震えている。彼女も怖いのだ。当たり前じゃないか。彼女はきっと、こっちの世界を全くといっていいほど知らない子だ。どうして、自分ばかり楽しようとしているのだろうか。なんて情けなく、バカげた話だ。彼女と男が何かを言い合っている声がとても遠くに聞こえる。

もういい、やめてくれ。と言おうとした瞬間、パァンと乾いた音が響いた。漂うのは嗅ぎ覚えのある、火薬の臭い。目の前の女の子が脇腹を抑えながら倒れていくところがとてもゆっくりと感じた。

彼女は浅い呼吸を繰り返していた。顔色がだんだん悪くなっていっている。ああ、自分はなんてことをしてしまったのだろうか。名前もしらないおんなのこを、じぶんが、

「チッ…手間とらせやがって」

そのような男の声が聞こえた。その時、自分の中で何かが切れたような音がした。
全身が熱くなるような感覚がした瞬間、男の怒声が悲鳴に変わった。男の方を見るとゴォ、と見覚えのある紫色が見えた。ザリ、と土を踏む音。全身黒色に包んだ衣装。他人を見下したような目。

「帰りが遅いと思えば、こんなところで油を売っていたのか、アラシヤマ」

「…ッお師匠…はん…お願いします…この子を、助けておくんなはれ…!」

「…どこの娘だそいつは」

「わかりやせんっ…でも、わてをかぼうてっ…あの男に…!」

先ほどよりも顔色の悪くなった彼女を抱きかかえながら師匠に懇願を繰り返す。呼吸ももう虫の息ほどもしていないのではないのではないか。彼女を抱く腕に力が込もる。ハァ、と上からため息が聞こえたと思ったら、ひょいと自分の体が彼女ごと持ち上がった。

「帰るぞ、アラシヤマ」

これはきっと、人付き合いの苦手な師匠の肯定の意味をさすのだろう。彼女の身体をギュッと抱きしめたまま何度も頷いた。


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