*第七章 すれ違い、始まり
雪の元気がない。それは誰の目にも明らかだった。話しかければいつもと変わらない表情と声色で応答があるのに、誰にも見られていないと思っている時はほぼ無表情でぼんやりしている。
「一体どうしたというのだ、なにがあった?」
「それが、今朝から真一文字に口を結んだまま理由を聞かせてくれませんの」
「朝の献立が気にくわなかった……のだろうか?まさかな」
「嫌ですわ星宿様。あの娘は基本的に、何でも美味しい美味しいっていうタチですよ」
そんな柳宿と星宿のひそひそ話を横目に、頬杖をついたまま翼宿が茶をあおる。何じゃ、と一言呟いてから、続けざまに彼はこう言った。
「今朝はずーっと、井宿がおらへんやないですか。何しとんねん」
「ああ、何やら皆より一足先に食事を済ませて何処かへ行ったようだが。もしかして、そのせいで拗ねているのか?」
恐らくは、と肯定した翼宿に少し驚いたような表情を浮かべた星宿が、黙って雪の隣の椅子を引いた。
今朝はずっと空席だったそこが、普段なら井宿の指定席である。
「どうした、雪。調子が悪いのか?無理せず休んでいてよいのだぞ?」
「ううん、違うの。なんか……」
「うん? どうした?」
そう言って先を促すのだが、雪は口角を持ち上げてふるふると首を振った。さっきの言葉は間違いなく口を滑らせたのだ。心配させるのが心苦しいといった気持ちが読み取れて、見ている方まで辛くなる。
……どうしてもっと、「自分はこんな事が辛いのだ」と声を大にして言わないのだろう。ほんの少しでもわがままに振る舞えれば、体も心も楽になれそうなものなのに。
「なんでもない!なんか苦しくてさ、食べすぎちゃったのかも。美味しいから仕方ないよね、何度食べてもここの料理は本当に最高で!」
「そ……そうか?」
味のこと以外は絶対に嘘だろうと顔に出ている星宿だが、こういう場合はあまり押すべきでないと判断したらしく、頭を二・三度撫でてから立ち上がる。
「私はそろそろ公務に戻らねば。雪、なにか不安があるなら、あまり溜めてはいけないよ。皆お前の味方だ」
優しい声に小さく頷くが、星宿が去った後から一気に突き刺さるような二人分の視線を感じたようで、雪は勢いよく席を立った。
「私もとりあえず部屋戻ろっかな。じゃあね二人とも!」
――部屋を出ていく雪の、ただでさえ小さな背中が今日はまたやけに萎んで見える。と、残された二人は同時に思う。
食堂が静まり返ったのは一瞬の事で、すぐに血をのぼらせた翼宿がわなわなと震え出し、乱暴に机を拳で叩いた。外の雪にまで聞こえてしまいそうなほど、大きな音が響いた。
「なんやあいつら!いつもは隙あらばイチャコラベタベタしとるくせにっ。むっちゃ苛つくねんけどっ!」
「落ち着きなさいよ。あんたが興奮して何の意味があるっての」
「せやけど!」
「ただのよくある痴話喧嘩かもしんないでしょ? ……というか、あたしがそうであってほしいだけなんだけど」
瞬時に眉尻を下げた柳宿の心配そうな声に、翼宿も握っていた拳をほどく。
そう。彼の言う通り。部外者が怒っても騒いでも始まらないのだ。だったら、自分は今なにをすべきか。あまりよくない頭でもそれくらいは分かる。
まるで自棄酒をかっくらうように茶のおかわりを飲み干して、翼宿は静かに重い腰を上げた。
「……けっ、世話焼かすんやないっつの」
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