*第七章 すれ違い、始まり
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「――井宿さん」
遠慮がちな少年の声で、井宿は静かに振り返る。重厚な扉を開けてこちらを覗いていた少年は、応じる姿を確認するなり真っ直ぐに歩いてきた。
「まだ書庫にいらっしゃったんですね。食堂、なんか騒ぎになってましたよ?」
「どうせ騒いでいるのは翼宿だけなのだ」
「ま、まぁ、それはそうなんですけど」
気まずそうに笑った張宿に、井宿も少し表情を緩めた。どうやら図星だったらしい。
「気を遣わせてしまってすまない。雪と合わせる顔が無いというか、気まずいというか。単に、オイラの勝手な都合なのだ」
「珍しいですね」
隣に並んだ張宿は適当な書を引き出して開き、敢えて深くは訊かないという意思を動きで表す。
子供ながらにこういう気遣いをしてくれるのは――まあ大人としてどうかとは思うが、とても助かる。そもそも、何でそう思ったかなんて彼には口が裂けても言えやしない。
「少しだけ間を置いたら気が楽になるかと思ったのだが、何だか余計に会いづらくなっちゃってるのだ。馬鹿馬鹿しい事なのだな」
「……雪さんも寂しがってたみたいですよ。会いに行ってあげた方がいいかと、僕は思いますが」
雪さん"も"か。
井宿が、くっと短く笑い声を洩らす。まさか張宿にもお見通しだったとは。
「……怒られそうなのだ」
「それも仕方ないですよ」
言ってくれるのだ、と、肘で肩を軽く小突く。怒られるくらい実はなんともないが、あまり放ったらかして泣かれるのは嫌だ。適度な距離をとるというのは、何気に難しいのだなぁと思う。急激に罪悪感が襲ってきた。
勿論本当は、ずっと彼女の傍にいたい。包み隠さずに思いの丈をぶつけ合って、お互いきちんと決意を新たにしたい。弱音を吐いて傷をなめ合いたければ、それはそれでもいいじゃないか。
井宿だって、雪が心の底に押し込めて厳重に鍵をかけている気持ちを知りたいのだ。昨日みたいに泣いたっていい。何も恐れずに、話をしてくれたら嬉しく思う。
――それからすぐに張宿と共に書庫を出た井宿は、とりあえず雪の部屋を訪ねることにした。
雪に会ったら、まずは今日の態度を詫びよう。それから……と行動の順序を組み立てながら雪の部屋へ向かっていたのだが、聞こえてきた話し声で井宿は足を止めた。
声の主は二人。片方は雪、もう片方は翼宿のものである。案外楽しそうな雰囲気に、足が踏み出してくれない。
今さっきまで比較的上向いていた気持ちが、ふっと平坦になるのを感じる。
「……後にしておくかな」
面の下の目を細めて、井宿は結局踵を返した。
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