第十七章 目が回るような世界へ

さて、どれくらい経っただろうか。

静かだったはずの周囲から、僅かだが耳慣れない音がして井宿は咄嗟に目を開けた。

「…………!?」

立っていた場所は、たくさんの机や椅子が並んだ広い部屋だった。一番近くにある机には井宿と対の――つまり雪の持っていた髪留めが忘れられたように乗っていたので、念のために拾って一緒に懐へ入れておく。辺りに一切人の気配はない。

ふらふらと窓辺へ近づいてみると、夜なのに道は煌々と明るく、時折高速で過ぎていく光もある。夜間に平気で人が出歩いているというのも驚きだ。

そういえば雪の思い出話の中に『高速で走る鉄の四輪車』とかいうものがあった。正しくは『自動車』と言ったろうか。きっと、あの動く光がそうなのだ。

「これが、雪の生まれた世界……、か」

窓に手を当てたまま、ぎゅっと握った。目眩がするほど何もかもが想像以上だ。

「井宿ぃ……おるかぁ……?くそっ、何処行きよってん。真っ暗や」

後ろ髪を結び直しつつ振り向くと、近くの机の間からにょっきりと翼宿が立ち上がって、目を閉じたまま辺りを見渡すという実に間抜けな動きをしていた。どこまで本気でやっているのか正直分からない。

「いい加減に目を開けるのだ、翼宿」

「お、おぉ……。わっ!何やここは!!」

「雪のいた世界なのだ。どんな所か少しは聞いたことがあるし……雪側の髪留めがあったから、まあ間違いないと思う」

「ほな、成功したっちゅー事か?えらくあっさりやな。せやけどここは何処なんや、こっからどうすりゃええねん、つーか雪は何処に……」

辺りを見回しながら矢継ぎ早に疑問をぶつけてくる翼宿だが、そんな事は井宿だって分からない。「とりあえず君は何も触らずに待っているのだ」と呟いて、目の前にたくさん並んだ窓を色々と探ってみた。押しても引いてもびくともしないのだが、真ん中についている金具を弄ると窓を横へと動かすことが出来た。

「行こう、手っ取り早くここから外へ出られるようなのだ」

「言うたかて……結構高いで」

「大丈夫」

ひらりと窓からすり抜け、井宿は翼宿の襟を引っ張って躊躇いなく地上へと飛び降りる。翼宿の言う通りかなり高かったが、そんな事は大した問題でもない。

術で着地の衝撃を和らげたものの、翼宿が体勢を崩しどういうわけか腹から着地し、砂地だった為に思い切り砂埃が立った。

「あーあ。大丈夫なのだ?」

「大丈夫なわけあらへんやろ……げほっ、ペッ!もろに砂食うたわ!」

「悲鳴をあげなかったことは褒めてあげるのだ」

「無事に済んだらただじゃすまさへんからな」などと、いくつかの文句を言いながら翼宿は立ち上がり、身体についた砂を乱暴に払う。頑丈な男だ。

そんな事を考えて感心しているうちに、誰かがこちらへ走ってきた。いらぬ騒ぎになるかもしれないので、あまり誰かに姿を見られたくはないと井宿は思わずひとり身構える。必要なら姿を隠すことぐらいは可能だろう。

「井宿さん……翼宿さん……!」

……が、どうやらその必要はないらしい。

何かの書物を小脇に抱えた葉月が、息を切らして井宿達の前で立ち止まった。二人を見て彼女は安心したのか、膝から崩れ落ちてそのまま泣き出してしまう。

「天地書見て、急いで来ました。よかった、よかったあ……!」

「もう大丈夫、落ち着いて。雪は何処なのだ?辛そうなところ悪いのだが、分かるのなら案内してほしい」

どうにか持ち直した葉月に先導されて、井宿たちは夜の街を走っていく。目に入る建物の多くは縦に長く堅牢で、所々暖かい明かりが漏れている。

運良く人とはすれ違わずに済んだ。――しばらく走ってたどり着いた先、目的と思われる建物を遠巻きに眺める少年の後ろ姿があった。彼から感じる妙な気に井宿はぴくりと眉をひそめたが、理由は彼が振り返った事ですぐに理解する事が出来た。

「角宿……!?」

「何であいつがここにおんねん!」

「彼なら大丈夫です、話は後で……、今は雪の事が――あなたも待っててくれてありがと、何か変わった事あった?」

「いえ、特に何も……ただ、これ以上あのアパートに近付くとすげえ身体が重くなって」

角宿は井宿と翼宿をまるで不審者扱いするような目で交互に見つつ、警戒心丸出しのまま葉月の問いに応えた。それはきっとこの世界では異質な姿形のせいであって、七星士だった記憶が彼にないことは容易に予測できる。潜在意識からくる嫌悪感もないとは言えないが。

「……結界なのだ」

そっと手を出し、一見何もない空間に触れる。びりびりと身体がしびれるような感覚が全身を走り抜け、あまりの不快さにさすがの井宿も手を引っ込めてしまった。

「これでよく身体が重くなる程度で済むのだな……このまま突っ切っていくのはとても無理なのだ」

「何です、こいつら。コスプレマニアとか?」

「……何か、方法はないんですか?」

角宿をそっと制止して、葉月が言う。

方法は当然、一つしかない。この忌々しい結界を壊して突破する事だ。

印を結んだ井宿を、一同が固唾を呑んで見守る。角宿だけは理解できない様子で首を捻っているが、葉月の真剣な表情を見て自分も静かに成り行きを見守っておくことにしたらしい。

「……っ、これは……」

あっさりと手を降ろし、井宿は眉をひそめた。

「脆すぎるのだ」

「は?もうええん?」

「効果は強かったのに、張り方があまりにも簡易的過ぎて……罠としか思えないのだ」

嫌な胸騒ぎがする。念の為にもう一度触れてみたが、やはりそこにはもう何も残ってはいなかった。

「どっちゃでもええわ、行くで!」

「君たちはひとまずここで待っていて欲しい。でも、何かあったら迷わず逃げるのだ」

「はい……あっ、井宿さん!雪の家は三階の、突き当りの部屋です!」

一足先に駆け出した翼宿を追いながら、井宿は一度だけ葉月たちを振り返る。

「ありがとう、君たちも気をつけるのだ!」






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