*第十七章 目が回るような世界へ
*
気付いたら、ここにいた。
気付いたら、全てが終わっていた。
何かを失った気がするのに、本当に終わっているのか。何かとても大事な事を、見落としてやしないだろうか。
ここにいる自分の存在さえも、今は少し不安定だ。
――自宅のソファに座ってぼんやりしていた雪の背中を、突然誰かが包み込む。
「ひゃっ!?」
心底驚いて、振り返るより先に目を伏せてしまった。
「どうしたのだ?」
「ち、井宿?帰ってたの?びっくりした、いきなり現れたから――」
「玄関からここまで何度も声をかけていたのに、君が気付かなかっただけなのだ」
腕を解いて隣に腰掛け直した井宿が、ふうっと息を洩らして微笑みかける。
「ごめん、へ……くしゅん!」
「寒いのだ?」
「ん、なんかよく分からないけど……昨日から体調あんまりよくないの」
自然に指先が髪へ絡んで、肩に触れて、鼻先が首筋に近付いていく。
首筋へやんわりと触れた唇に目を伏せて、身体がソファに沈むのを感じていた。
「ち……ちょっ、あの……」
「ん?手っ取り早く温めてあげようかと」
冗談っぽい言い方でも、いつものように笑う気になれなかった。
「ねえ、その前に聞いてもいい?」
また正体不明の違和感に襲われて、雪は慌てて井宿の胸を押し返す。怪訝そうに首を傾げる彼にかける言葉は、まだ整理しきれていない。
「あのね。私、あんまりこっちの世界に戻ってきた時の記憶ないの。まだ夢なんじゃないかって」
思ったことをそのままぶつけて、雪は真っ直ぐ井宿を見た。
「馬鹿な事を言うのだな。君は朱雀を呼び出して、もう一度ちゃんと願いを叶えて貰った。だから今、二人でこうしてここにいる」
「で……っ、でも……そんな大事な事、どうしてっ」
流されてはいけない。そんな気がして仕方ない。
何かが、心の奥底で警鐘を鳴らし続ける。大きな声をあげて、井宿の言葉を全て遮りたい気分だ。
「大丈夫、そのうち――」
そう呟いた井宿の声を、雪はそれ以上聞き取ることが出来なかった。まるでテレビの音量を下げていくように、少しずつ声だけが遠く小さくなって消えるのだ。
目を見開き、見慣れたようで違和感にまみれた恋人の姿を、今一度しっかりと見据える。
顔、髪、手。少し現代に染まってはいるが、全てが井宿そのもの。きっとこっちの世界に生まれていたらこんな風なんだろうと、雪が何度か想像したそれとほぼ同じ。
それでも、本能的に感じるものがある。
得体の知れぬ恐怖に、開きかけた唇が震えた。
「貴方は、誰なの……」