第十章 満身創痍でも、

眠りが浅かったせいだろう。

微かな音に目を覚ました井宿は、いくぶん楽になった体を起こして扉の方を見やった。少しでも眠ったお陰で、医者から貰った薬が効いてきたようだ。……軫宿の作る薬には到底及ばないなと井宿は思うが、それでも動けるのはありがたい。

「井宿、」

消え入りそうな声の主の名を、寝起きの少し掠れた声で呼ぶ。

「……雪?」

「うん。今ちょっといいかな」

「ああ、どうぞ」

軋みひとつなく、大きな扉が開く。おずおずと部屋に足を踏み入れた雪は、寝台のそばで泣き腫らしたような目を向けてきた。まだ少し湿った睫毛が、薄闇に鈍く光る。

「さっきのこと、謝りたくて」

「どうして君が謝る必要がある?悪いのはオイラなのだ」

「だって……話も聞かずに逃げちゃったから。ごめんね」

「……オイラも、謝りたい。っ……いや、でもちょっと待っ……げほっ。うつるといけないから、今は少し離れて……」

「そんなの、どうでもいいよ」

「よくない、」

急に喋ったせいか、咳が上手く逃せない。

寝台の縁に手をついて覗き込むような姿勢をした雪の長い黒髪が、はらりと肩から落ちる。

そのなんでもない動作にふと目を細めて、苦し紛れに井宿は言った。

「――君は、誰なのだ?」

雪はきょとんと目を丸くして、落ちた髪を耳に引っ掛けながら井宿を凝視する。まるで、信じられないとでも言いたげに。

飛び退くことが出来ぬ井宿は、じわりと腰を浮かせて僅かながら距離をとる。

違う、これは……彼女ではない。

「なに?からかわないでよ……あ、風邪のこと気にしてるの?やだなぁ。私、そんなに柔じゃないって!」

乾いた笑いを混ぜてあれこれとまくしたてる彼女を、井宿は至極冷静に見据えていた。

「香りが違う。君は……」

髪が落ちたとき、普段より格段に機能低下した鼻が微かな違いを捉えたのだ。

これには井宿も驚いたのだが、どういうわけか確信があった。

「ふっ、ふざけないでよ。せっかく仲直りしようと思ったのに……なにか気に障ったなら謝るから」

「気に障る……そうだな。まずその見てくれが気に障るのだ。と、言ったら?」

さすがにかちんときたような表情で、彼女は唇を結んだ。それでもまだ認めないかもしれないと、井宿はなおも挑発するように続ける。

「で? 誰なのだ。何なのだ、と訊いた方がいいのか?」

「……ふん。なによ、せっかくいい思いさせてやろうと思ったのに。こんな不本意な格好で!」

かかったな、と井宿は表情ひとつ変えずに思う。この辺りになると、ただ普通に立っているだけの姿勢すら雪とはまるで違っていた。

そして目の前にいる「何か」の、その声だけが香蘭に変わった。

「気付かなければよかったのに。あの娘を抱きたいんでしょ?理性的なふりしてるけど、あんたも大人の男だもんね?」

「……なっ……」

「ちゃんと最期まであの娘を演じてあげるつもりだったのにな、残念」

「……うるさいっ」

雪なら絶対しないであろう嫌みな表情と口調。姿だけはよく似せてあるぶん、余計に気分が悪くなりそうだ。

あとは隠していた気持ちを見透かされる、ひどい嫌悪感。……だが。

「もう、惑わされてたまるか……!」

同じ空気を吸うのも嫌だったが――井宿は真っ直ぐ彼女を見据え、弱った身を護るために印を結んだ。

「術使う元気はあるんだ?」

「あいにく……だが……、」

――香蘭は、相変わらず雪の姿を保ったままだ。

「殺すの?」

「……自ら去るつもりがないなら、他に方法はないのだ」

「言っておくけど、私の"元々の器"は本当に新入りの給仕係の娘のものよ。下手をうつとどうなるか、わかるわよね?」

勝ち誇ったような声だった。伸ばされる腕を振り払うと、香蘭は後退を始める。再びおぼろげに、全身像が見えてきた。頭のてっぺんから爪先まで、やはり雪そのものだ。

名前、姿形、この女を形作る色々な要素が残像のように浮かんでは、感情と複雑に交錯する。違う、これは雪ではないし、かつて愛した人でもない。なんの関係もないただの魔物だと言い聞かせ、それでも冷静に言葉を紡ぐ。

「…………。それは困った。じゃあとりあえず、どういうつもりなのか聞くとするのだ」

「あんた達の事を消したい敵がたっくさん居ることくらい、もう知ってるんじゃないの?」

「ああ、知っているのだ。でも何故こんな妙な真似をするのかが分からない」

「私は"あの方"に、好きにしていいって言われただけ。まあ見た目も悪くないし、どうせならいいように遊んでから消してやろうかなって思ったの。元恋人の名前を借りて、ちょっとそれっぽい娘を選んで……」

目を伏せながら腕を組み、微笑んだ香蘭は続けた。

「あなた達は動揺こそしたけど、関係をぶち壊すまでにはなかなか至らないみたいだし……私、あんまり気が長い方じゃなくてね。だから貴方の大好きな可愛い巫女様の姿で、最終手段に出てみたんだけど」

「あの方? ……それは、親玉がいるってことなのだ?」

「あはは。聞いてどうするの?冥土の土産に持っていきたいの?そんなの、誰に聞かせるつもりだかね」

「オイラが質問しているのだ……!」

のらりくらりとはぐらかすような返答が続いて、さすがの井宿も苛立ちを隠せない。

相手はそれを見て本気で楽しんでいるようだから、あまり表に出したくはないのに。

「そんな体で、私と戦うの?倒せるの?」

寝台から降りた井宿を見て、香蘭が雪の顔でまた嫌みったらしく笑う。おまけにくるりと踊るように、一度体を翻してみせた。

確かに本調子ではなかったが、敵ならば戦うほかない。

「君のような姿の化物を見たのは初めてではないが、やはり無性に腹が立つのだな……。その恰好は、今すぐやめるのだ」

「この方が有利かと思って。なんなら脱いでみせましょうか?我ながら、この下もそっくりだと思うわよ」

鼻で笑いながら、肩をすくめる。大体それでなくても、向こうが圧倒的に有利だ。彼女もそんな事は分かっている。

あの給仕の娘の中に何者かがいる。排除するのは中身だけ。――それは、非常に難儀な話だった。

「ちなみに、貴方にあまり時間はないわよ。早くしないとまずいかもね」

「……は?」

「今あの娘、宮殿にいないから」

「……それは、オイラを焦らせるためのハッタリなのだ?」

「本当よ。でもこれ以上は教えてあげないし、信じないなら別にそれでもいいんじゃない?」

外へ駆け出しそうな体をどうにか抑えて、井宿は錫杖片手に香蘭を見る。平静を装っていたが、さすがに息があがっていた。めまいもする。

「……どっからでも、来るといいのだ」

「ふふ、かっこいー。さすが、朱雀七星士様」

握りしめた手のひらに、いやな汗が滲んだ。






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