*第九章 逃げてまた、追い詰められて
「ありー? 幻狼。二人か?」
既にかなり飲んでいる様子の攻児が、部屋の奥でのっそり立ち上がる。
その他大勢は、雪の参加に驚いて目を丸くしたり、鼻の下を伸ばしたり……とにかく各人忙しい。もっとも、雪本人は萎縮して気付いていないのだが。
「井宿はんも一緒に来るかと思ったんに。お前に任せるとか病気か?」
「その通りや。あいつ風邪ひきよってん」
「へーっ!あの井宿はんが風邪!人並みに病気しはるねんなぁ……」
翼宿は適当な場所に腰を下ろしつつ、ちらと雪を見やった。つまみを貢ぎに来る連中を監視しながら飲むのは難しそうである。
それでも攻児が有無を言わせぬ風に杯を差し出してきたので、とりあえず軽く一杯は飲むことにした。
「なぁ。なんや雪はん、元気ないように見えんねんけど」
翼宿にしか聞こえぬよう小声で、眉をひそめている。
「お前にそう見えるんなら、よっぽどやな」
「うわっ、幻ちゃん。俺は君より人生経験豊富なんよ?」
攻児はからかうように笑って、今度は雪に話を振る。
「なー!雪はん雪はん。やっぱり、幻狼じゃ不足なんか?」
「えっ? あ、いやとんでもない……というか、お邪魔してすみません」
下っ端の誰かの小話に笑っていた雪が、慌てて振り返りながら返事をした。
――その姿に、翼宿は少しほっとしていた。その反面、こんな手段でしか気分を紛らしてやることくらいしか出来ない自分には、やや苛立ちを覚えてもいたのだが。
根本的な解決は、やはり井宿でなければ駄目なんだろう。しかしちゃんと顔を合わせて話す時間と余裕が、今の二人には足りていない。
今はその井宿が駄目になっているわけだから、尚更だ。
「ふうん?まっ、楽しんでってくださいな。見ての通りの歓迎っぷりや」
「あっ、待て攻児。こいつとんでもなく酒弱いねん」
取り出した新しい杯に酒が注がれるのを制止するのと同時に、右腕に軽い違和感があった。
「待って、翼宿。ちょっとだけ飲んでみたい」
「はっ……せやけどお前、」
「ねっ、お願い。翼宿がいるなら少しくらい平気だよ。……でしょ?」
腕を握った小さな手と「お願い」する潤んだ瞳を交互に見て、翼宿は思わず大袈裟にため息をつく。ちなみに、内心はかなり動揺している。
彼女のことだから意識している訳ではないのだろうが、随分狡い言い方だ。これを「駄目だ」と一蹴するのは、井宿でさえも躊躇するかもしれない。
少なくとも、翼宿には無理だった。
「んっとに……。しゃあないな、一杯……いや、ほんのちょびっと舐めるだけやで?」
まるで猛獣使いやな、と、誰かが呟いた気がした。