第十二章 想うが故の偽り

*

井宿の声がした。

翼宿の声がした。

二人が近くで会話している。ただし内容は聞き取れない。そんなもどかしい状況がしばらく続いた。

――ひどくぼんやりとした意識の中で、雪はそれが「夢である」と認識していた。やっとのことで薄く開いた視界は真っ暗に等しく、誰かが自分の手を握っている事しか分からない。

「……っ!」

凝り固まったように感覚が鈍くなった指先を動かすと、短く息を詰まらせるような音と、柔らかい橙色の明かりが近付く気配がした。

「雪……?」

「……井宿……、」

「ああ、よかった……よかった」

心底安心したような恋人の声に、こちらは掠れた声が洩れる。だが翼宿の姿はない。怖くなって、うわずった声で雪は問う。

「井宿……翼宿は……?軫宿は……?」

「大丈夫。別室にいる。君を心配してうろつくほどに元気なのだ。みんな君が目を覚ますのを待ちかねてる」

無理矢理体を起こそうとするも、案の定無言で止められてしまった。手燭を机に置いて、井宿も雪と同じようにほっと息をついている。

壁に映った彼の影をぼんやり眺めてから、静かに口を開いた。

「…………。そっか……軫宿が、翼宿を助けてくれたの?」

「ああ、間一髪で。いや、それも勿論大事なのだが……雪、今はちょっとだけ、オイラの言い訳を聞いてほしい」

真剣な面持ちで、井宿は言う。このあとまず何を切り出すか……雪には何故かなんとなく分かっていたのだが、そこは敢えて黙ってみる。

そばに置かれた蝋燭の明かりが、井宿の僅かな動きでぽんやりと揺れた。先程からそうなのだが、それは彼自身の揺らぎを表しているようにも見える、と雪は思う。

「…………。すまなかったのだ……色々考えてみたのだが、やっぱり最初はこれしか思い付かなかった……本当なら、合わせる顔もない」

がっくりと項垂れるようにして、弱々しく呟いた。首が痛くなりそうなほどの角度のまま、なかなか起き上がってこない。

井宿は誠実な男だと思う。相手が謝罪を求めていないと分かっていても、やはり詫びなければ気が済まない。そういう性分なのは、雪も重々承知していた。

――非はある。お互いに。

「井宿が謝ることは……」

「君から離れていた間、オイラは自分の未来を完璧に見失っていたのだ。そして今も、まだ怖い」

軫宿も見つかったし、七星士はもう揃ったのに。と、小さく井宿は続ける。

まだ上手く回らない頭で必死に分析してみた結果として、どうやら彼は何か隠し事をしているように思えた。だが今は、それを問い詰めるべきではないとも。

「井宿、顔色悪いよ。そんな体で無理したから……、」

「雪にそんなことを言われても……なのだ。君の心の方が心配なのだよ」

「平気だよ、むしろ七星士が揃ったんだから、気分はいいし」

井宿は、なにかを察したように押し黙っている。

「……でも、なんか……いろんな事がありすぎて、うまく……笑えないや……」

伸ばした手で、井宿の膝に落ちていた面を拾い上げる。それを目の前にかざして、笑顔を借りた。

涙が出る。どうしたって止まらない。

「せめて二人の時は、無理をしないでほしい。……七星士が揃ったからこその危険も有り得るが……。あとはオイラ達の役目なのだ」

少しぎこちない抱擁で、反射的に目を閉じる。心配しないで、と囁くような甘い声。この安心感と香りが、ずっとずっと待ち遠しかったのだ。

「大丈夫」

井宿のその言葉は、果たして誰に言い聞かせたかったのだろうか。

「うん。……うん。帰ろう、宮殿に。みんな待ってるんでしょ?」

早く皆にも会いたくて、そして、そうすれば井宿の気も少しは晴れると思い、雪はそう言った。二人きりで過ごす時間は穏やかで心地いいけれど、今はお互いに謝ったり泣いたりしてしまうから。

「ああ。……雨は……、やんだようなのだな」

外の音に耳をすませるような仕草の後、井宿はまだ青ざめたままの泣きそうな顔で、少しだけ笑った。


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