*第十二章 想うが故の偽り
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雨はやまない。
少々苛ついた様子で、耳障りな雨音に翼宿が鼻を鳴らした。どうにも落ち着かなくて、立ったり座ったりをせわしなく繰り返している。
「朝には、さすがに弱まるやろか……いっつまでもばしゃばしゃ降りよってからに」
「さあなぁ、どないやろ。んでも井宿はんは無理できんし、雪はんもまだ起きて来んし……仮に今やんだかて、すぐには動けんのとちゃう?」
「あー。ほんま井宿が動けんのがきっついわ。術さえ使えば一発やねんけど」
雨やましたりとかできるんかな、と攻児が窓の外を見て冗談を言う。それができたらもう神様の域だろう、と翼宿は思った。
「ま、しゃあないやろ。半分はお前のせいや」
「残りの半分は?」
「俺」
「……あー」
天井を仰いで、翼宿は苦笑を洩らす。全くその通りだ。
「ちょっと様子見に行ったっても、ええと思うか?」
「井宿はんとこにか?」
「他に何処行くねん」
結局攻児の意見は待たずに、翼宿は足早に広間をあとにした。そばには軫宿もいたのだが終始何も言わなかったし、多分差し支えないだろう。言っても無駄だと思われたのかもしれない。とにかく、どちらでもよかった。
井宿に本音を暴露した後はしばらく雪と二人きりにしておいたのだが、未だになんの動きもないとなれば、さすがに焦れてくる。
元来そんなに気が長くないのだ。
――部屋の扉を叩くと、小さな声で返答があった。
ほとんど真っ暗な部屋の奥で、井宿はやっぱりまたこちらを振り返らずにじっと座っている。歩み寄ってもそれは変わらないが、翼宿はあまり気にとめず井宿の背後に立った。
彼は相変わらず雪の手を両手で握り、まるで祈るように目を閉じている。もしかしたら返答があったように思ったのは気のせいだったかもしれない。
「まだあかんか。声かけてみたったか?」
「ああ。でも、眉ひとつ動かないのだ」
長いこと黙っていたからか、若干掠れた声だった。
「疲労もやけどやっぱ精神的なもんがデカイて、軫宿が言うとって……」
これでも責任は感じているので少し言いにくかったのだが、井宿は静かに一度首を縦に振るだけで、相変わらず翼宿を責めるような言葉は絶対に吐かない。
それどころかため息ひとつついて、こんなことを口にした。
「翼宿。君は、自分の未来を想像できるのだ?」
「……はぁ?」
唐突な問いに、つい気の抜けた返事をしてしまう。
「オイラは先日、一度……自分の未来を見失ってしまったのだ。実は今も、いまひとつ見えていない」
「ちょお待て待て、いきなり意味が分からへん」
「雪と過ごす未来が見えなくなっていた。今まで容易に想像できたことなのに。何度も思い描いたはずの幸せな未来が、今は絵空事のように思えて仕方ない。これはどういう事なのだろうな」
もっと……それこそ、軫宿くらいに頭の回転が良くて、柳宿並みに気の利いた男だったら。
彼らだったら、今ここで井宿にどんな言葉をかけるだろう。
そうして翼宿が黙ったままで答えに窮していると、鼻から抜けるような短い笑い声がして、またため息混じりに「駄目だな」と井宿は呟いた。
「……すまない、忘れてくれ。さっき君に散々説教されたばかりなのに」
「……べ、別に。そんな何度も謝らんでも、今こんな状況やし……へこむなとは、言わん……」
「そうか。翼宿は本当に成長したのだな」
「やかまし。……俺、上手いこと言えんけど、なくしたら、取り戻せばええやろ。見失ったら、見つければええやろ。雪が目ぇ覚ましたら、なんか言いたいことないんか」
「……『すまなかった』?」
「お前な、他にないんか」
恐らく無意識だろう、雪の手の甲を優しく指先で撫でながら、井宿は黙考する。
「……有りすぎて困るのだ」
「ほな、見えとるやん」
「だ……。あのな、オイラが言うのはそういうのじゃなくて、」
「ええんや、今はそれでっ!隣にちゃんとおるんやろ?納得しとけ!」
半ば強引に会話を終結させ、姿勢を低くする。部屋の薄暗さに慣れてきたので雪の表情がよく見えるのだが、なるほど確かに、これは心配になる顔色の悪さだ。
しかし。
「んまあ、よぉ寝とるわな。お前がおるの分かって安心しとんちゃうか?」
少なくとも、翼宿にはそう思えないこともないと感じた。
「そうならいいのだが、もしもオイラの不甲斐なさが嫌になって、夢から覚めたくないのだったら……どうしたらいいやら」
自嘲するように言った井宿をじろりと横目で睨んでから、翼宿は鼻を鳴らして窓の方を見た。
こいつはどうしようもなく、自分を責める男である。少しくらい他人のせいにして肩を軽くしてしまえばいいのに。なんでもかんでも背負おうとして、潰れきるまで周りには気付かせない。面倒くさい奴だ。
それは彼の長所でもあり短所でもある。
――小さく咳き込む声が聞こえる。
雨は、やまない。