*暗く冷たい雨の日に(二十章その後)
それはそれは、ひどく陰鬱な空だった。
灰色の空は分厚い雲に支配され、嫌な湿気がこもった部屋の窓がべたべたと曇る。
――ああ、昨日はあんなに、いい天気だったのだが。
どうにか朝食をとって部屋に戻ったはいいものの、寝台に座ったままでやることがない。何一つ。
仕事のひとつでも与えられれば気を紛らす事も出来たかもしれないが、今の彼は皆から相当労られていて、とても仕事など回ってきそうにない。
食後の満腹感もなく、今の彼はただの「無」だった。
「おう、井宿。おるんやろ」
居留守を使ったとて、短気な彼がさほど時間の経たぬうちに扉を開けるのは分かりきっていた。
内鍵をかけていないから、そろそろ。――そう思った時、やっぱり扉が開く。
「返事くらいせえ。暗いな」
「……ああ」
「ふーっ……お前はほんまに」
まだ包帯の取れぬ手で、がりがりと頭を掻く。痛みはもうほとんどないのだと言っていた。
いつものような派手で重苦しい装備でなく、薄い着物を纏って鉄扇も携えていない彼を見るのは新鮮だなぁと、そんな無駄な思いを巡らせた。
そしてそれは、忌まわしい戦が終わった証拠でもある。
「なあ、まだ落ち込んどるんか?」
「君はもう少し気の使い方を覚えたほうがいい」
「そない言うたかてしゃあないわな。俺はそういう性格や」
翼宿は何故か誇らしげな顔で人差し指を立てて、左右に振る。
「オイラは、」
そこまで言って、ぐっと口をつぐんだ。何を言うつもりだ、自分より相当年下の、この男に。
「おい井宿……」
「うん」
「あんなぁ、俺は軫宿みたいに優しい言葉とか知らんけど……」
目を細めて、まだ何か言葉を続ける様子である。だから、井宿も黙って聞いていた。
「大事なもん失ったら辛いのくらい、分かるで」
ぶん殴られたような気分と共にぞくりと背筋が冷たくなり、項垂れ、思わず後頭部に手を当てた。
「こんな思いはもう懲り懲りだったのだが」
仲間内では、雪と翼宿だけが知る自分の真っ黒な過去。
ああそうだ、あの日もこんな風に嫌な雨と湿気が村中を支配していた。尤も、雨足の強さはこんなもんじゃなかったのだが。
雨の日は、嫌いだ。
「井宿、昨日の強がりは何処いってん?」
椅子に腰を落とした翼宿が苦笑を洩らす。
「生きてれば、必ず会えるんと違ったんか」
「……そう、だな」
「落ち込むな、て言うとるんとちゃうで。落ち込んでもええけど、お前の負の気はどうも強いんや」
俺かて当てられてしまいそうや、と翼宿は鼻から息を吐いた。
「自分ばっかり責めるからやで」
「……君にぽんぽん言われて押されてると、妙な気分だ」
「どういう意味やねん……」
「そのままの意味だ」
だが彼の真っ直ぐというか単純というか――奎宿の言葉を借りれば楽天的な考えには、気付かされてばかりだ。
……雪もたまに、そういう所があった。そしてそれがたまらなく愛しくて救われると、思ったのだっけ。
自分にも軫宿にも、否、大人にはなかなか無理な考え方である。
「君には参る」
「降参か?ほな、ちったぁ元気出せや。そんな辛気臭いツラした野郎のところに、雪は戻って来たかないと思うで」
「……悪かったな、辛気臭くて」
隻眼を晒したままで、井宿は苦笑した。
「……っと、いうか。君は楽天的過ぎるのだ」
ぺたりと面をつけた井宿は、いつもの調子でそう言いながら糸目を向ける。別にこの場をしのごうと強がったわけではなくて、自然とこうしていた。
「あかんか?何でもええ方に考えた方が、人生楽やで」
「まさか年下から……いや君から、人生を語られる日がくるとは」
「お前はちょいちょい、俺を馬鹿にした言葉を吐いてくれるよな……」
「実際、馬鹿だから仕方ないのだ。でも」
これは、前にも何度か言ったことがあるのだけれど。
「……それはそれで、君のいいところだと思っているのだ」
驚いたように三白眼を見開いた翼宿に向かって笑ってみせれば、向こうもすぐに不敵な笑みを浮かべる。
「余裕ですなぁ、井宿はん。さっきまでの空気が嘘のようでっせ?」
「まとわりつくな、君は本当に犬みたいな奴なのだっ!」
「……早う、会いたいな」
肩に手を置いて、窓を打つ雨を眺めた翼宿が穏やかに言う。その遠い目は、泣くのをこらえているようにも見えた。
そうか、こいつも寂しいのだ。――そして、皆もきっと。
「ああ、そうだな」
ようやくそれに気付いた井宿はふっと笑って、頷いた。
⇒あとがき