*第十九章 敵陣の真ん中で
「何やってんのよ、馬鹿っ!」
葉月の苛立ったような声は、角宿に向けられたものではない。なんせ彼はもう散々怒鳴られた後だ。
「だ、だって……」
叱りつけられているのはほかでもない、雪である。
「ぼんやりしてるから……もう、私知らないからね!?」
葉月が頭を抱えた時、部屋の扉が静かに開いて現れたのは、心宿だった。僅かに身構えた雪には目もくれない。
「葉月様、お怪我はございませんか?」
「……思いっきり当て身させておいて、そんな事を聞くの?」
「おや。私はそのような事をしろと申し付けた覚えはございませんが」
そう言ってようやく雪を一瞥し、扉のそばに立っていた角宿に低い声をかける。
「……角宿、朱雀の巫女は離しておけと言ったはずだが」
「冗談じゃない!そいつ、噛みつきやがったんだぜ!もう触りたくねえよ」
「こんな小娘ごときに怯みおって」
こいつにも噛みついてやろうか、とは思うだけに留めておく。鎧で歯が折れそうだし、やったところで無駄だ。
「心宿、手荒な真似はしないで。私が此処にいればいいんでしょ?」
葉月は戻ってきた途端に刺々しく口調を変え、心宿につんとした表情を向けた。その瞳には、彼への不信感が見え隠れしている。
「ご安心を。こやつを生かしておけば、朱雀の連中がのこのこやって来るでしょうから」
「……それが狙い?」
「お前は言うなれば捕虜だ、教える必要はない。おい角宿、連れていけ。丁重におもてなししろ」
「げー、やだなぁ……」
腕をだらしなく前に垂らし、心底嫌そうにする角宿を睨み付けた雪は、再び身構える。葉月に怒鳴られ、更に雪に噛まれて完璧に戦意喪失しているらしいが、それでも二人きりでは何をされるか分かったものではない。
「仕方がないな。――房宿」
心宿の声の後で房宿が雪の背を軽く押し、部屋から出るように無言で促した。あの時角宿と一緒に来ていたのは彼女だったのだ。
これ以上抵抗するわけにもいかず渋々廊下に出ると、ひんやりとした空気が雪の体を撫でた。紅南の宮殿とは、あまりにも雰囲気が違いすぎる。生気がなくて、まるで廃墟の中にでもいるような気分だ。
「あんたねえ」
「は、はい」
「隙が多すぎ。仲間からもぼんやりすんなとか言われない?自覚ある?」
鼻を鳴らした房宿の瞳が雪を睨むように見下ろした。何とも答えられない。
それからしばらく黙ったままで、一番奥にある部屋に通された。もしかしたら地下牢辺りに閉じ込められるかも、くらいに思っていたのだが……内装もごく普通の部屋だ。
逆にこの待遇が怖く、牢の方がまだよかったかもしれないと雪は思う。
「今ごろあんたの彼氏は血眼だろうねぇ」
扉に背をつけ、房宿がようやく口を開いた。
「……怒ってるかも」
「怒る?あの男が?……まさか。あいつらが怒るなら、あんたにじゃなくてあたしら青龍七星士にだろ、本当に馬鹿だね。そんな事考えてる暇があったら、自分の心配をしな」
呆れたと言わんばかりに、房宿はため息をついた。彼女はどうして、二人きりの時はこんな風に普通に接してくれるのだろうか。
「まぁいいよ。じゃあね。大人しくしてたら、心宿も悪いようにはしないと思うけど」
「あっ。待って、あの……亢宿の事、あの後どうなったのか聞いてもいい?」
ずっと気になっていた事を、この際だから聞いておきたかった。彼は無事に家族のもとへ帰れたのか、体は大丈夫なのか。
「ああ……あいつなら例の老夫婦の家に帰してきたよ。忘却草を飲んでるなら……今度こそ本当に、あそこの息子になれるだろうね」
どこか寂しそうな声の後で、ばたん、と扉が閉まった。もうとっくに背を向けていたから、表情までは分からなかった。
そうか、やっぱり。そう思いながら少しほっとした雪は、寝台に体を預ける。いやに冷静になってしまったのは何故だろう。
……と。しばらくぼんやりしているうちに、眠ってしまっていたらしい。雪的には、ほんの一瞬まばたきをしたつもりだったのだが。疲れていたとはいえ、敵地でそんな無防備な姿を晒すなどとんでもない。本当に自分は隙だらけなんだ、と自己嫌悪しながら雪は目をこじ開けた。
「な……っ」
ゆらゆらとしていた意識がはっきりと醒めてくる。そうだ、敵地なのだ。こいつがいたって何ら不思議ではない。
「心宿……っ」
「お目覚めか。その様子では、丸々一晩眠っていたようだな」
「は……?そ、そんなに」
「夕食を持っていった房宿が眠っていると言ったのでな。もう夜明けだぞ。お前の仲間は一体何をしているのだ?」
嘲笑混じりにそう言った心宿が、ゆっくり近付いてくる。いつぞやの記憶に、鼓動が早まった。
「……来ないでくれる?」
「そう強がるな。……氏宿さえ生きていればな、お前の好きなあの男にでも化けてやれるのだが」
「触んないで!」
肩に触れた手を払い除けようと叩いた直後、不愉快そうな瞳が雪を睨み付ける。怯んでは負けなのだが、恐ろしくてそれ以上の身動きがとれない。どうしてこんなに、人間らしい温かさを感じない目をしているのだろうか?
まるで、精巧に作られた人形のような。
「……っ!?」
払えなかった指の爪が、ぎりりと肩に食い込んでいく。それは首筋にも移動して、痛々しい痣を作った。
「いった……い!」
今度はじわりと首が絞まるが、苦しさよりも痛みの方が勝っていた。
「殺さなければいいのだからな……よく覚えておけ」
長い衣を翻し、心宿が離れていく。目で追う余裕もなければ、そのつもりも無かった。