第十六章 願い言は、

「……今夜は、随分冷えるのね。雪でも降りそうだわ」

目線を上げた先にある窓の外を、彼はふと見てみた。

月光が青白く辺りを照らして、ちらちらと輝くように粉雪が舞う。

「……雪か」

紅南国に、雪とは――。

「あら、本当に降ってきた。……珍しい事もあるのね」

「寒いから、窓を閉めてくる」

着衣を寝乱したままで立ち上がって、換気の為に僅かに開かれていた窓に手をかけた。

冷たい隙間風を塞き止めて訪れた静寂のなか、夜空と粉雪が織り成す美しさに息をのむ。深い藍色の空に、純白の粉雪はとてもよく映えた。

「芳准……?どうしたの」

「あ……いや、ちょっと綺麗だったから」

「雪なんて好きだったかしら? 貴方」

「――どうだったかな」

肩をすくめて踵を返そうとしたその瞬間、外から、どさりと何かが落ちるような音が聞こえてきた。

反射的に振り向いた彼の目の前……窓の外に、一人の少女がうずくまっている。

それだけでも十分に驚いたのだが、俯いていたその少女は、やがてぐしゃぐしゃの泣き顔をあげて窓の方を見上げた。

「お、おい香蘭、誰かがそこに……」

「井宿!」

どこか深い場所に突き刺さるような声で、彼はそのまま動けなくなった。何故だか、あの娘から少しも視線が外せない。

「何? どうしたの?」

「い、いや……」

「……井宿ってば!聞こえてる!?」

人違いか?誰を呼んでいる?こんな娘、知っていたか?否、知らない。ならば、何故こんなに体が目をそらすのを拒むのだろう?何故、呼ばれているような気がするのだろう?

ぐるぐると頭をかき乱す疑問符の嵐が、彼をどうしようもなく混乱させた。

「ねえ……」

後ろから焦れったそうな香蘭の声がかかるのに、やっぱり振り向けない。

遂にふらふらと立ち上がった少女が窓に手をついて、小さな拳を力一杯ぶつけた。何度も、何度も。その手が真っ赤になるまで。

「おいっ、雪!や、め……」

咄嗟に出た己の言葉に、つい顔をしかめてしまった。

「雪?」

そして香蘭がそれを反復した時、彼は恐る恐るだがようやく振り返る事が出来ていた。

「……っ!」

すとんと憑き物が落ちたように膝が抜ける。急速になだれ込んできたのは、外の娘が誰で自分は何をすべきで――目の前で、とうに亡くなってしまったはずの許嫁の姿をしているこいつが、何者なのか分からないという事。

その瞬間にひどく悪寒がして、情けないことに震えながらこの状況を見つめていた。

視線の先で彼女はうつ伏せからゆっくり半身を起こし、相変わらず妖艶に笑みをたたえていた。ただしその瞳からは、さっきまであった優しさだけが消え失せている。

「――驚きですねぇ」

「……っ、氏宿……!?」

そのねちっこい声色だけで判断したのだが、かつての恋人はみるみるうちに姿を変え、井宿は急いでよれた服の肩を引っ張りながら立ち上がった。

「巫女がこの中であんなに理性を保っている事もそうですが……貴方にもびっくりしました。せっかくいいところだったというのに、台無しではありませんか」

「……雪、すぐに窓から離れるのだ!」

窓越しにそう叫んだ時、家が吹き飛んで、完全に外に放り出されていた。窓は粉々に砕け散り、身を守った腕へ小さな切り傷をつくる。

「井宿……っ!」

言われた通りに離れていた雪を背に庇って、当然無傷の氏宿と睨み合う。

「それが愛ですか?何とも素晴らしい事ですね。しかし此処で、お得意の術は使えないでしょう。さて……どっちから先に死にますか?やはり一緒がよろしいですか?」

「うるさいのだ、変態男」

自分のしようとしていた事に再び寒気を感じた後、吐き捨てるようにそう言って、試しに気を集中させてみた。

氏宿の言う通り、術に頼るのは無理そうである。けれども焦りは微塵も表に出さず、何か上手い手はないかと冷静に思案した。

「……井宿、何か聞こえる」

雪がそう呟いた時、井宿は寒空を見上げた。






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