*第十四章 すれ違い
「……此処か?」
高く煙を上げる天幕は、そこに人が居ることを示している。
茂みの中でひたすら乱れた息を整えている井宿の足元に、白い体が触れた。
「だ!? ……お前、軫宿の。何故こんな所にいるのだ?雪は――」
猫は必死に何か訴えかけるように、ひたすら身振り手振りを繰り返している。この猫は相変わらずよく分からない。大体、本当に猫かどうかさえ怪しいのに。
「……訳の分からないことを」
呆れたように猫を拾い上げた時、ふと強い気が過った。
鎧を着込んだその男は、繋がれた馬に跨って……ちらりとこちらを見る。思わず身を潜めるも、あの青い瞳は間違いなく井宿を捉えていた。
「巫女といい七星士といい……朱雀の連中はかくれんぼが好きだな」
「……っ」
「巫女は中だ。早く迎えに行ってやるといい」
「心宿、貴様何を……!」
ただ通りすがったのではなくて、雪の事となると話は別だ。井宿はすぐさま飛び出して、声を張り上げる。
「いや、なかなか綺麗な体の娘じゃないか。もっと子供かと思っていたのだが……」
全身の毛が逆立つ、とはこの事だろうか。全て知っておきながら同意を求めるような物言いに、心底腹が立った。
怒りというか、憎さというか……とにかく嫌な鳥肌が立って、頭には血がのぼる。このまま飛び出しそうになる足を、地面に擦ってようやく止めた。
「貴様っ……!」
「ああ……そうか。すまない、お楽しみは後に取っておくつもりだったか?あいにくだが、ここでお前と一戦交えるつもりはない。お前もそうだろう? ……では、私は先を急ぐのでな」
そう言った心宿を追う気力は残っていないし、雪の無事を確かめるのが何よりの優先事項だ。
後ろ姿が完全に遠ざかるのを憎々しげに眺めてから、天幕の入り口を急ぎ足にくぐった。
――目の前に広がる光景は、彼の想像を遥かにこえていた。
着衣を乱し床でぐったりとした体は、あちこちに小さな傷を負っている。何があったのか、あまり考えたくはないのだが……。
「…………」
押し黙ったままで、気を確かにと自分に言い聞かせる。心宿と二人きりで、命が助かっただけ幸運なのだ。
ゆっくり跪いた床は、とても硬く冷たかった。
「……っ。い……」
雪が呻いて、触れようと伸ばしかけた手を咄嗟に引き戻す。
「や……っ、……井宿……っ!」
「ゆ……っ、雪!!オイラなのだ、落ち着いて……!」
嫌な夢に魘されているらしい。反射的に雪の冷えきった体を抱き起こし、迎えに来たからと聞こえるように大きめの声をあげた。
夢うつつ、雪はその体温と声にぼろぼろと涙を流している。宙を彷徨う腕が、力なく上着を握り込んだ。
次いで、虚ろに開いた目が井宿を捉えた。みるみるうちに覚醒していく彼女を、井宿は黙って覗き込んでいたのだが。
「あ、だ……駄目……!」
なにかを思い出したようにぐいっと腕に力がこめられて、突き放される。とはいえ、容易く引き留められるくらい弱々しい。
「雪……?」
「駄目なの、私」
――ああ、君の言わんとすることは。
そんな抵抗などお構いなしに強く抱き締めて、少々過呼吸気味の背中をさすった。
「オイラはただ"落ち着け"って言ったのだ。深呼吸して。……そう、ゆっくり」
強い口調に雪の強張りが少しだけ緩み、代わりに嗚咽が洩れだした。
「ごめ……またやっちゃった……。途中から意識なくて……今までのこと、なんにも覚えてないの……っ」
「君は何も悪くないのだ。不甲斐ないのはオイラだから」
重苦しく、暗い空気が二人を支配する。ただひたすら髪を撫でてやりながら、井宿は上手い慰めの言葉を探していた。
彼女に対しての怒りなんて塵ほどだってない。ないのに、その気持ちが今は上手く届かない。
「……おい井宿!平気か!?」
陰鬱な空気を打ち破ったのは、これまたあちこちに小傷を負って現れた翼宿だった。その唐突さに一瞬息を詰まらせてから、慌てて声をあげる。
「たっ……翼宿、どうして!あれほど先に行けと……!」
「阿呆が!お前馬なしでどうやって追い付くつもりやってん!」
今日だけで何度彼の「阿呆」を聞いただろうか。半ば怒鳴るように叫んだ翼宿は、井宿に抱き止められた雪の姿に息を飲んだ。
「……お、お前、それ……」
小さく小さく言いかけた声を飲み込んで、ひとつ舌打ちをする。堪えきれない怒りでか、肩が僅かに震えているように見えた。
「……外で待っとる」
「……ああ」
気付けば雪はまた意識を失ってしまったようで……頬を伝った涙が床にぽたりと落ちた。井宿は彼女の衣類をそっと整えてから体を横抱きにすると、深く息をついた。
その時、糸が千切れてからからと転がっていった小さな留めの釦に、思わず眉を寄せる。遠くで壁にぶつかって止まったのだが、拾いに行く気力は起きなかった。
どうして、こうなってしまったのだろう。自分がもっと気を付けていれば結果は違ったのでは。なんて、何か起きてから言っても仕方がないのだけど。
柳宿に瀕死の重傷を負わせ、神座宝を横取りしただけでは飽き足らず……雪さえも、こんなに傷つけるとは。
「すまない……」
きつく食い縛った口元から、途切れ途切れに苦しい声が洩れた。