*第十四章 すれ違い
陽はとっぷりと暮れ、とても動く気になれない二人は、眠っている雪を横目に頭を抱えた。
「……何やねん、くそっ!あいつら、何が目当てなんや!」
ぐしゃぐしゃと頭を掻いて、翼宿が絞るような声をあげる。一から十までは聞かなくとも、あの惨状を見れば何があったかなんて大体想像がつくと、彼は言っていた。
井宿は前を見据え、おもむろに口を開いた。
「巫女は汚れなき身体でなければならない」
「は? 何や、それ」
「昔……修行中に太一君から聞いたのだ」
その頃は、特に意味を考えた事はなかった。そんなもの自分には関係のない事だと思ったからだ。
「……つまりそれは、単刀直入に言うと」
「さあ」
目の前で焚かれた火に手元の小枝を放り込んで、井宿は何故か自嘲気味に鼻を鳴らす。
"神獣は、巫女の汚れなき身体を求める。"
だから、例えば恋人同士でも、それ以前に結ばれるような事があってはならない……今日までずっと、そう考えてきた。太一君が言うのも恐らくはそういう事。
自分はもう大人だ、制御くらいはできる。一度も欲しくならなかったと言えば嘘になってしまうけれど。
……まぁ、一番慌ただしい時だったのだから、どっちにしろそんな暇などさっぱりない。焦る必要もない。
「……でも、分からんやん」
「どういう意味なのだ?」
「心宿のハッタリかも分からん。ああいう奴や」
「……どうだか」
慰めのつもりか、いや、翼宿の事だから本当にそう思っているのかもしれない。それでもやっぱり表情は強張ったまま、それもそうだななんて言えなかった。
「お前は雪を信じてやらんのか?」
翼宿の突き刺さるような鋭い視線に思わず、ひゅう、と何かが詰まったような変な音のため息をついた。
狡い台詞だ。
「……信じてるさ」
「やったら、何でそないな顔すんねん」
――そうだなあ。
そう口の中で呟いた後、苦笑を洩らして、井宿は面を外す。面をしていたのに「そないな顔」と言われてしまったのだから、こちらはもっと酷いのだろう。
「……お前のその面の理由も、俺は知らんな。そういえば」
「そもそも初めて見たのも蠱毒の一件の時だし、聞く暇なんかなかったろう」
「ほぉ?普通の喋り方も出来るんやな……仲間やのに、お前に関しては、ほんまに分からん事だらけや」
木の幹に凭れ、天を仰ぎ――少し不機嫌そうに、翼宿はため息をついた。
そう言われては、何だか……そんな気持ちにかられた井宿は、地面に手をついて同じように天を仰いだ。あんなことがあったのに不思議と心は凪で、変な感じがする。
「じゃあ、つまらない昔話をしよう」と例の前置きひとつして、口を開いた。
「オイラが君くらいの年の頃なのだ」
黙っているが、翼宿がじっと続きを待っているのが分かる。
「親友と、祝言間近の許嫁がいた。けど、ある日見てしまったのだ。その許嫁が、親友と口付けを交わしているのを」
「な……、」
「その後はもうひどいもんだったのだ。許嫁には訳もわからず振られて、頭にきたオイラは豪雨の中で親友に短剣を突き付けて」
まるで何かを持つように、空の右手を握りしめて、もう片手で顔の傷を覆う。
「何度問い詰めても、奴は何も言わなかった。そしてそのまま、永遠に聞けず終いだ」
「おい、まさか」
「足場が崩れて、あいつは氾濫した川に落っこちたのだ。咄嗟に手を掴んだけど……駄目だった。流れてきた木に目をやられた衝撃で、つい離してしまったんだ。確かに直接手を下したわけじゃないが、あいつは俺が殺したようなものだから」
「殺したて、そんな事はあらへんやろ……っ」
それなら事故や、間違いない。と翼宿は小さく呻く。
「それがなかったらなかったで、結局刺し殺してたかもしれない。それほど血気盛んな頃だったのだ。まぁそれはともかく……奴への懺悔のつもりで、この傷は一生負っていく事に決めたんだ。でもこのままでは見た目がよくないから、いつもはこんな面で隠してるって訳で」
これだと、君の顔を怖いと馬鹿には出来ないのだ、井宿は少し笑いながらそう呟いて続けた。
「その日はひどい大雨で、最後には洪水が起きた。許嫁も一族も、村に息づいたもの全部飲み込む程の……あの頃のオイラには、七星士の力なんて微塵も無かったのだ。自分が生き残ってしまった事を、随分と責めた」
「お前……そないな話、いっぺんも……」
「こんな湿っぽい事、いちいち話してもしょうがないのだ。雪にだって……」
まだ、全てを話していないのに。
続けた言葉がたち消える。それからしばらくは再び二人は口を閉ざし、どこか遠くを見つめていた。