*ようこそ、紅南国へ
「あ、あの。鬼宿さん?もしもし?」
視線をそらすことなく硬直したままの鬼宿は、ごくりと喉を鳴らして雪の目に視線を移した。
「……おめーに付き合ってやれば、これ、本当にくれんだな?」
「あ、はあ。どうぞ」
「ようし、分かった。じゃついてこい!俺に任せろ!」
先程まであんなにも面倒がっていたというのに、今度は意気揚々と。雪は目を細めつつも、鼻息荒く歩き始めた鬼宿に続く。まさかこんなもので喜ぶとは、余程甘党なのだろうか?
すっかりご機嫌な鬼宿の背中は、やけに頼もしい――そんな事を考えながら、ふと彼の頭の先に見えてきた大きな建物を指差した。
「ね、あれは何?お城?県庁?」
「あ?あー、宮殿な」
軽く首だけで振り返り、鬼宿が答える。
「宮殿……ってことは、王様がいるんだ?」
「あそこにいらっしゃるのは、この紅南国の皇帝陛下だ。なんでも、若くてすっげー美形らしいぜ」
「へぇー……?」
夢にしてはリアルな設定だ。やはりこれは、まさかもしかして。タイムスリップとか、空間移動というやつだろうか。情報量の多さに若干混乱していると、不意に鬼宿が足を止めた。
「……どうかしたの?」
「そこの店に用事があんだよ、適当にこの辺で待っててくんねえか?」
「え?え?」
「この辺りは安全だ。まぁとにかく、すぐ戻るって。まだ時給貰ってないんだからウロチョロすんなよ!」
軽く手をあげた鬼宿は、目の前の小汚い店の店主と和やかに話し込み始めた。一応、雪を視界の中に置いておいたつもりなのだろう。
「ふーん……。どうしよう、暇だなぁ」
手持ち無沙汰になってしまった雪は、引き寄せられるように宮殿の方向へ視線を向ける。
しかし、ほんの少しぼんやりしているうちに気が付けば人波に流され……鬼宿の姿はおろか、さっきの店さえ視界から消え失せていた。抗おうにも、流れが読めずにうまく進めない。
「うわ……っ!」
これでは、もし近くにいたって自分を彼が見つけることは出来ないだろう。こういう時は、背が低いのが不便だと思う。
「しまったなぁ……。おーい、鬼宿ー!」
叫べど、こんな人波だ。聞こえるわけがない。
困り果ててきょろきょろと辺りを見渡している雪の肩を、誰かが叩いた。
「誰かお探しですか?」
「あっ……あ……の、」
振り向けば、美しい女性が雪の肩に手を乗せたままで微笑んでいる。心なしか、その体を引きとめるように。
「急にごめんなさい、何かお困りのようでしたから」
「ゆ、友人……?と、はぐれてしまって……」
「まあ、それはお可哀想に。こんな人波の中では見つけられないでしょう」
雪より随分背の高いその女性は、流れるような動きで雪の手を引く。
「えっ!?」
「大丈夫、お連れの方はすぐに見つかりますから。私についてきてください」
知らない人にほいほいついて行ってはいけません、なんて事は分かっている。だが今は言われるままに後を追うしかなかった。茂みを抜けたり、狭い塀の間を通ったり――いかにも怪しい道のりをこえて、たどりついた場所は。
「……こ、ここって、さっきの宮殿……!?」
「私だけの、秘密の抜け道です。私は"中"の人間なのですが……たまにここからこっそり散歩に出ますの」
「ま、まずくないですか、私がこのような場所にいるのは……」
「大丈夫!それより貴女」
「は、はい!」
唐突に近付いた顔に、思わず頬が熱くなる。単に造形だけではない、肌も瞳もいちいち綺麗すぎて目がそらせない。同じ人間とは思えなかった。
「貴女のその格好……。一体、何処からいらしたのです?」
「わ、私は……」
タイムトラベラー?
いや、そんな話が通用するとは思えない。自分だったら、まず信じないだろう。
「ごめんなさい、分からないんです。気がついたら、こんな所に。まるで異世界です……」
結局何も思い浮かばず、雪はそう正直に話した。異世界だなんてそんなの有り得ないと笑われるのを承知で、だけど少し、誰か一人くらい信じてほしいとも思っている。
雪も女性も黙ったまま、数秒間の沈黙。何か言うことも、俯いた顔を上げることも、今はまだ出来ずにいた。