*ようこそ、紅南国へ
その時だった。ぐらりと視界が揺れて、咄嗟に頭を押さえたままで目を伏せる。
疲れから貧血でも出たのだろうか、しばし不快な揺れがあった後で、雪はゆっくりと目を開けた。
そのはず、なのだが。
「……は……?」
そのまま眠ってしまったのか?
目の前に広がるのは見慣れた部屋の景色ではなく、見たこともない古びた町並み。まるで時代劇のセットのようで、雪は眉をひそめた。
昨日再放送でやっていた「暴れん坊将軍」のせいでこんな夢を見ているのかと思ったのだが、どうにも日本である気がしない。
そうだ、どちらかと言えば古代中国とか、そういう異国の雰囲気だ。
「……いてっ!お前何処見てんだよ!」
「うわわわ!すみません!殺さないで!」
何故か命乞いまでしながら派手に尻餅をついた雪を、背の高い男が怪訝な顔で見下ろしている。
「すみませんで済んだら警吏いらないの!あと俺は別に人殺しじゃねえよ!――で?お前、どっから来たんだ?見た事ない民族衣装じゃん」
「あ、あの、いや、私は此処が何処なのか教えてほしいんですけど……」
「ああ?変な女だな……まあいいや、この辺治安よくねーから、気を付けろよ」
今度は訝しげな瞳でそう言って、そのまま踵を返そうとする。今、さらりと恐ろしいことを言われた気がするのだが。
「ちょちょちょ、待って待って待って!」
「うわっ、なんか用か?俺は早く市街に行かなきゃなんねーん……うわっ」
「私も連れてってください!お願いします!」
「い、意味わかんねーよ!お前は!」
食らいつくように服を掴んで離さない雪に、男は辟易している様子だ。無理やり引き剥がすまでしないところを見ると、優しい人間なのだろう。
「ここに置いていくなら、私にも考えがあります」
「な、なんだって言うんだよ……」
「ううっ……ぐすん……!」
「どわー!泣くなー!」
焦ったように肩を掴んで、服の袖でがしがしと雪の頬を拭う。荒っぽいが、加減しているのか痛くはない。
それから少し考えるような仕草の後で、大袈裟なため息をついてその涙目を見下ろした。当然ながら彼女は嘘泣きだ。
「仕方ねぇな……。市街までだからな!全く、子守りかよ。時給とるぞほんとに……!」
「やった!お兄さん話分かるね!カッコイイ!ってそれは置いといて。私、雪っていうんだけど……お兄さんの名前は?」
「置いとくのかよ。つーか俺が悪い人間じゃない保証もないんだぞ……あー。まぁいいや。周りからは鬼宿って呼ばれてるから、お前もそれでいいよ」
「ふーん……?変わった名前だねぇ」
「お前もな、見た目もだけど」
雪の手は、そこでようやく離れた。
付かず離れずの距離で歩き出す鬼宿にくっついて、市街地へと歩き出した。
そうしてつきまとうように歩く事約……十分かそこらくらいだろうか。不思議な事に腕時計が止まってしまっていて、正確な時間が分からない。
鬼宿は鬼宿で物凄く興味津々にそれを見つめてくるし、意味も分からない。
「此処が市街の中心部だ。じゃ、ここまででいいな?」
「へ!?よくない、全然よくないよ!」
目の前に広がる光景は、やはり目を疑うものだった。ドラマや漫画で見たことのある古代中国そのものである。
「なんでこんな夢……」
「なぁにぶつくさ言ってんだ」
「お、お願いします、私を貴方のおそばにしばらく……!」
「おい、わけが分からないぞ……!こっから先は時給を――」
「そ、そうだ!分かった!じゃ、これあげますから!」
一か八か。雪は必死にポケットを探り、取り出した包み紙を差し出す。
「……なんじゃこら」
「お腹空いた時の為の、飴、ガム、チョコ……チョコはちょこっと溶けてますが、なあんちゃって……」
黙りこくった鬼宿に、やはり駄目かと思いながら恐る恐る目線を上げる。こんな事なら、抱腹絶倒の面白ダジャレか、五百円玉でもいいから現金を持っておくべきだった……。
「すっ……すげえっ!なんだこれ!すげえっ!」
きらきらと子供のように目を輝かせて、鬼宿は伸ばしかけた手を震わせている。
これは雪にとって、全く予想外の光景であった。