第九章 青龍の巫女

「翼宿、何処行くの……?」

「決めてへん」

「へ?」

「勢いだけで来てもうたんや!適当にぐるっと近場回って帰りゃええやろっ」

言い方こそぶっきらぼうだが、自分でも驚くほど優しくその手を握っていた。すっかり指先が冷えてしまっていると可哀想に思いながら。

「……翼宿」

「なんや、文句なら無しやで」

「ううん。ありがとう」

「いちいちそんなん言われたら……くすぐったいわ、阿呆」

さすがに賑やかな街に出る気にはなれず、翼宿は雪の手を引いて、裏の林へと足を踏み入れていった。この辺は宮殿の敷地のようなものなので、翼宿一人で連れ歩いても危ない事はない。

「よっしゃ、休憩じゃ」

「え、まだ入ったばっかりじゃ……」

「景色のええとこが一番やろ」

並んで腰を落とした二人の目の前に広がるのは、澄んだ水色の小さな泉だ。外傷なら何かしらの効能があると聞いているが、あいにく彼女が病んでいるのは心の方だった。

「……っ、雪……? お前……」

ふと見た彼女は、ほとんど無表情で静かに涙を流していた。何故泣くのか本人も理解できていないようだが、翼宿には分かりきっている。

「おい、平気か……」

「はは。我慢してたのに……駄目みたい、今は……、」

途切れ途切れに声を絞る雪。痛々しいことこの上ないのだが、翼宿の両手はどうしてよいか分からぬ風に虚空をさ迷っている。

「井宿、どうしてるかな……っ」

「雪……」

井宿が単身で倶東に乗り込んだらしいのは、昨日の夜。朝から大騒ぎになったものだ。

囚われた鬼宿を連れ戻しに行く――それは本来なら今夜、翼宿と行くように計画していた事。あれだけ念入りに打ち合わせたのだから、恐らく計画的ではなかったのだろうと誰かが言っていた。

最悪なことに井宿は何の書き置きも残さずに行ってしまったので、元々不安がっていた雪が余計に心配するのは無理もなかった。

「私のせいだよ」

「あ……? 何言うとんねんお前」

とめどなく涙を溢し続ける雪を宥めようと、翼宿はようやく思い切ったように肩を掴む。

「私が……私が、行くなら一緒にって言ったから……だからきっと、一人で無茶を」

愛している相手を護りたい、危険な目に遭わせたくない……お互いの同じ気持ち。それは当たり前に、誰でも理解できる感情だった。年齢も性別も関係ない、ただ、実行出来るか出来ないかの強さの差はあるのだが。

雪は"出来ない"側の人間だから、きっと辛さは人一倍だった。七人分もの命を自分の為に危険に晒すというのは、どれほどの重圧なのだろうか。

「私、なんにも出来ない……!分かってたよそんなの。でも不安でたまらなくて」

「も、もうええ……!雪のせいやない。大丈夫やから……!」

歯軋りひとつして、翼宿は堪らず雪を強く抱き締めた。下心などない、純粋な慰めだ。

彼女は一人じゃないし、一人であれこれ抱える必要なんてない。この体の震えが止まるなら何だってしてやる。……まあ、さすがに限界はあるけれど。

「ええか、あいつは絶対にヘマしたりせえへん。井宿がたま連れて紅南に戻るまで……俺があいつの代わりに護ったる。約束したるから」

本気でそう言うと、雪は大声をあげて子供のように泣き出した。まるで枕か何かのようにめちゃくちゃにしがみつかれ、本当に色気もなにもない光景だ。

髪と背中をぎこちなく数回撫でて、翼宿は苦しげに目を閉じた。

「ほんま、何してんねんなあ……。こんなに心配さして」

今の彼にできるのは、せいぜいこんなものだった。


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