*双子座の独り言
鳥が囀り、草木の若々しい香りがする。流れのない池の中で跳ねた小魚は、この春の空気を感じているだろうか。
「お。おったおった、井宿」
退屈しのぎに釣り糸を垂れていた井宿のもとに、翼宿が歩み寄ってきた。
「何か用なのだ?」
「何か用ないと来たらあかんのか」
のっしのっしと、翼宿も池の傍らにある岩へ登って来る。持つでもなく、ただ足元に置いたままの釣竿を不思議そうに眺めているが、別に魚を釣ることが目的というわけでもないのだ。
「それ、釣れるん?」
「さあ……?」
「お前何がしたいねん」
翼宿こそ、と呟いた瞬間、あくびをしていた彼がはたと思い付いたように口を開いた。
「そやった。雪がお前の事探しとったから、手伝うててんな。俺」
「雪が?何かあったのだ?」
「いや、知らん。単に暇やったんちゃう」
まあ、何事も起きていないのは良い事であろう。井宿は浮かせかけていた腰を再びおろすと、視線を前方へ向けた。
噂をすればなんとやらというやつで、ふと廊下を見ると、雪がとことこ歩いてきているのが見えた。翼宿は相変わらずあくびを繰り返していて気づいていない様子なので、手を振りながら雪を呼んでみた。
「あ……」
目を輝かせて、こちらへ小走りでやって来る姿はまるで小動物のようである。
「井宿、こんなところにいた。池という池を探してきたところ」
「それはご苦労様だったのだ。天気がいいから、少し日光浴でもと思って」
「釣りじゃないの?」
持ち前の身軽さで雪も、井宿の隣に陣取った。とはいえ彼女はドジでもあるので、滑り落ちてしまわないか内心冷や冷やしたのだが……それは内緒にしておこうと思う。
「なあ、ここにおる魚って食えるん?」
「めだかみたいな小さいのしかいなくない?食べても美味しくないって。そもそも釣れないよね絶対」
自分を挟み、飛び越えていく会話。心地のいい雑音だった。
――こういう感覚を、なんと呼んだだろうか。
昔もよく感じていた、とても温かい感覚。会話に直接絡んでいなくとも、何故か一体感を得られる。
「あらあら。あんた達、お揃いで」
そう言って、今度は柳宿が現れた。
「今日は皆、随分暇を持て余してるみたいなのだな」
「なあに?雪と二人っきりがよかったかしら?」
さっきまで一人で広々と感じていた岩場は、どうやら満員御礼になりそうだ。
「いやいや、俺もおんねんけど」
「あら、邪魔してたの」
「違わい」
「まあまあ……柳宿もおいでよ。気持ちいいから」
ほんの少し井宿の方へ間を詰めて、雪が笑う。
「いいわね、でも日焼けしちゃわないかしら」
「この時期の紫外線って意外と強いよね」
「え?なに?市街戦?」
井宿は噛み合わない会話に小さく苦笑を洩らしながら、雪の隣にやって来る柳宿を目で追っていた。だが彼は彼で、その視線が別に悪いものではないと悟っているようだった。
時々、思う事がある。出会ってそう時間も長くなく、年齢も境遇もばらばらの――言うならば「寄せ集め」に近いような仲間たち。それなのに何故か、妙に通じ合う事が出来る。
親友だった飛皋や、許嫁の香蘭。あの二人といた時も、きっとこんな気持ちだった。
「……あ。ねえ、井宿。なんか釣り糸おかしくない?」
「えっ?」
雪の声で、咄嗟に釣竿を握る。予想外に強く引っ張られるような感覚に、少々焦り気味だ。
「何かデカイのかかったんと違うか!?」
「ここは確かに広いし深いけど、そんなおっきな魚がいたかしら?」
「何でもええから、はよ引いたれ!持ってかれるでっ」
「わ、分かってるのだ……!」
ぐ、ぐ、と、釣り糸が引き攣れる。このまま切れてしまうのではないだろうか。底がよく見えないので、僅かな魚影らしきものを頼りに感覚を掴むしか無い。
「せや柳宿、お前の馬鹿力で助太刀せえ!」
「よっしゃ、今夜は雪の魚料理ね!」
「頑張れー!二人共、慎重に!」
背後から半ばのしかかるように、柳宿が手を重ねる。雪はずっと井宿をつかまえるようにぎゅっとしがみついていた。
「き、切れそうなのだがっ……」
「諦めたらそこで終わりよ!ほら、頑張りなさい!いちにのさんでいくわよ、せーの……」
柳宿の腕輪が、微かに光を帯びたように見える。能力の使いどころを間違ってはいないだろうか。
「いち……」
固唾を飲んで見守る雪と翼宿を交互に見て、井宿は水面に視線を戻した。糸が切れても別に構わないくらいに思っていたのに、いつの間にかこの空気にのまれている。
「にの……、」
ほんの少し、獲物がこちらに近付くのを感じる。あと少し……。
「さーんっ!」
重なる大きな掛け声と共に、八割方柳宿の力で釣竿が持ち上がり、獲物の重量で水面が激しく波打った。
大きく弧を描いて宙に舞ったそれは、目を伏せた井宿達を飛び越えて背後に着地する。飛沫を浴びながら一斉に向かった四人分の視線は、期待に満ち溢れていた。
「……あ、あれ……?」
びちびちと景気よく跳ねる魚……ではない。釣り針にかかっていたのは、泥を大量に纏う大きな岩の塊だった。
「……えらいまた……変わった形のお魚さんやな」
「何言ってんのよ。どう見ても岩よ、泥まみれの岩!」
「さ、さすが柳宿……あれ、子供の胴体くらいはあるけど。当たんなくてよかったね」
池の周りはしんと静まり返り、得体の知れない気まずさが井宿を襲っていた。
「……ぷっ」
「あ、あはははは!井宿の奴、紅南を釣り上げよったわ!」
「ぶっ。ははは!参ったわねぇ、あれ当たったら死んでたわ!」
雪が吹き出したのを皮切りに、三人が腹を抱えて笑い出した。
「もー。あんたも気付きなさいよ、バッカねー、雪の料理食べそこねたじゃないの」
「き、君たちが煽ったからつい焦ってしまったのだっ」
「あーもー、なんかよく分かんないけど可笑し!」
そう言って背中を叩かれた瞬間、井宿もついに口元を緩めていた。
「だ……、ははっ」
大声を出して笑い転げてしまいたいのをぐっと堪えている時、井宿はようやく気づくことが出来た。先刻からずっとある、謎のむず痒さの正体だ。
胸がいっぱいで、言葉にならなくて、あたたかい。
ああ、これは。
「幸せ……って、やつなのだな」
恥ずかしい台詞は、運良く仲間達の笑い声にかき消された。
やはり、自分は雪や朱雀の仲間たちとの間で変わったと思う。それでもまだ、口に出すのは照れくさい。……のだ。
居心地がいいなんて、いつから思っていたのだろうか。
「なんだ、随分楽しそうじゃないか」
「あ、軫宿!ちょっと見てよこれ、今ねえ、」
この気持ちは、いつか天寿を全うするときに、伝えたいと思う。その時でもきっと遅くはない。
「君たちのような素晴らしい仲間達に出会えて、とても幸せな人生だった」――と。
⇒あとがき