ナツイロ

電話が鳴っている。無視したところで諦める事はない相手だ――ゆっくりと親指で画面を操作して、井宿はそれを耳に当てた。

「もしも……」

「おう。お前ら週末、休みやな?」

こちらが問いかける前に話が始まる。しかも質問で。思わず軽く眉根を寄せて、ついでに目も閉じた。

「そうだけど……急にどうしたのだ?」

「空けとけ。詳しい話は後や」

用件だけを簡潔に述べてくれるのは非常に有り難いのだが、ここまで意味が分からないのは考えものである。

「んー?翼宿?」


隣に寝そべってテレビを見ていた雪が、顔を上げた。

「そうなのだ」

「随分短かったけど。なんだって?」

「週末空けとけって言ってぶった切ったのだ」

「そっか。じゃあ、明日辺り押し掛けて来るんじゃない?」

明日なら良いのだが。そう言おうとした井宿の耳に、ドアチャイムの音が聞こえてきた。微動だにせず幻聴であれと願ったものの、三度目のプッシュで流石に立ち上がる。

普通にやかましいからだ。

そろりとドアスコープを覗くと、かなり至近距離にオレンジ色の頭が見えた。中の物音でも窺っているのだろうと判断し、ここで思わずチェーンをかける。

「あっ!こらっ、そない往生際悪い事すんのは井宿やな!開けんかい!貸した金返さんかあっ!」

「あーっ!うるさい、御近所迷惑だし名誉毀損で訴えるのだ!というか、なんの用なのだっ」

「ええからそれ、やめい!」

隙間に伸びたチェーンに手刀を落として喚くので、井宿は仕方なく彼を迎え入れる。まるで我が家に帰ったかのような自然な流れで部屋へ入り込んでいく背中を追うのは、なんだか妙な気分だ。

「翼宿。なんかめちゃめちゃ騒いでたね、いらっしゃい」

「ほれ見ろ。雪はこうもにこやかに出迎えてくれるっちゅーに、お前ときたら」

「君が来るとろくな事が起きないっていうのは、太古の昔からのお約束なのだ」

雪の隣に腰掛け、向かいに陣取った翼宿を見据える。

「で?どしたの翼宿、なんかあったの?」

「ふふん。聞いて驚きなや。これや」

得意げに渡されたのは、とある観光地に建つ旅館のパンフレットだ。井宿でもうっすらと名前くらいは聞いたことがある。

「あー、知ってる知ってる。行ったことないけど、良さそうな所だよねぇ」

「せやろ?実は週末、そこに部屋がとれてん。一泊やけど、お前ら行かへんか」

「えっ!いいの!?」

身を乗り出し、雪が言う。しかしすぐにあっと口に手を当てて、焦ったように井宿を見上げる。

「でも……その。井宿はどう?」

「ん?オイラが君との旅行を断るわけがないのだ」

「ほんと!?やったー!井宿は引きこもりかもと思ってたからさあ」

少し引っ掛かる物言いはまあ……いいだろう。考えてみれば、彼女と泊りがけの旅行などしたことがなかった。自分で手配していないのは恥ずかしい限りだが、折角の厚意だ。

「だが翼宿、どうしてまたこんなものを?」

「柳宿がな、そこの旅館とちょっとしたコネあんねんて。それでお前らが行くんやったらーと思ってな」

「なるほどなのだ。君もたまには気が利くのだな」

「たまには、は余計や」

すっくと立ち上がり、翼宿が言う。

「ほな俺はバイト行くわ。それ早う渡したかっただけやねん」

なにやらスマホを操作しつつ、ひらひらと手を振り去っていった。雪が鍵をかけるために玄関まで後を追っていくので、その場に座ったまま眺める。嬉しそうでなによりだ。

……しかし。

少しだけまだ何かが引っ掛かる気がした井宿だったが、それが何なのかは分からない。きっと思い過ごしであろうと、再びパンフレットに目を落とした。






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