バレンタインの夜に

「あぁ……。疲れたのだ」

今日の井宿は、いつもより少し遅めの帰宅だった。自分で自分の肩を揉む姿に、お疲れ様と優しく声をかける。食事は分からないから用意しなくていいと連絡を受けていたが、結局空きっ腹を抱えて帰ってきた。

気を遣ってか何も言いはしなかったものの、玄関で「ただいま」と同時に腹からもご挨拶を受けた為すぐに分かってしまったのだ。

「お腹空いてるみたいだから、とりあえず急ぐよ。今夜は大したものないんだけど、それでもいい?」

「オイラは、雪の作ったものなら何でも美味しくいただくのだ。ありがとう」

すっかり気の抜けた顔で笑う井宿に「だったらまかせて」と冗談っぼく親指を立ててから、残り物の鍋を火にかけた。家事に関しては趣味みたいなものである。

「買って帰るのも忘れるとは、全く……。煩わせてすまないのだ」

いやいやと返事しながらふと見れば、彼はため息をつきながら鬱陶しげにネクタイをほどいている。先程も思ったが随分肩が辛いようで、とにかく開放したいらしい。

「今日は忙しかったの?」

「そーなのだ。現代社会の荒波ってやつか知らないけど、この世界の連中は人使いが荒いのだな」

「ははは、そっか。じゃあまあ、ゆっくり食べててよ」

ぶつぶつ言う彼の前にあたたかい食事を運んで、雪は座ることなくキッチンへと戻っていく。

――今日はバレンタイン。諸々の都合で豪勢な食事などは準備出来なかったが、クッキーだけはこっそり作っておいたのだ。

包みながらひとつ味見をしてみた際、我ながら上出来!と独り言を言ったくらいの自信作である。彼は好き嫌いも特にないし甘味も人並み程度には口にする。それに、やっぱり疲れた時は甘いものに限るだろう。

「よし、っと」

食後に渡すつもりでキッチンに包みを置いたまま戻ると、つけっぱなしだったテレビニュースを横目に黙々と食事を続けている井宿の隣に座った。

そこそこ多目に盛ったはずの食事は、よく見るともうほとんど残っていない。よほど空腹だったのだろう。

「うっわ、食べるの早っ!……どう?」

「んー?五臓六腑に染み渡るのだ」

「大袈裟過ぎ。……あ、お茶ないね。注いでこようか?」

出し忘れたわけではなく、単に飲み干している。喉まで渇いていたようだ。

「あ、いいのだ。悪いけどそこの鞄から水を取ってくれたら」

「ん?はいはい」

言われるがまま、すぐそばに置かれた鞄に目をやる。雪の位置からなら立ち上がらなくても簡単に届く場所だ。

手をかけた瞬間、最後の一口を飲み込んだ井宿は何を思ったのか、焦ったように短く声をあげた。






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