*浮気者
*
久々の全力疾走に、止まった瞬間膝をついてしまった。彼女はいつも、まっすぐには逃げない。気分次第であちこちに入り込んでいくので、疲れてもある程度の時間は稼げるのだ。ちなみに道に迷う事もある諸刃の剣でもあるが、宮殿内でそのような心配は無用だ。
「はーっ……。はぁ……あーあ……もう」
いくら怒っていても、あんな怒鳴り方したのはよくなかったな。と、雪は今更ながら後悔する。朝の挨拶も引っ込めた、あの井宿の顔が目に焼き付いて離れない。
しかしまあ、一度口をついて出てしまったものは引っ込められないのだ。仕方がない。しばらく一人でこうして冷静になるほかなかった。
――疲れ果てて壁にべったりと張り付いていたその体が、そのとき突然引き剥がされた。
「ひゃ……!?」
「こんなところに……。逃げ足だけはほんと速いのだ」
見上げた先に、腕をがっちりと掴んだ井宿の姿がある。苦笑を浮かべたその顔は、まだ何か言いたげだ。雪はまだ気持ちの整理がついていないので、とにかく突き放すような言葉しか浮かんでこない。
「は……っ、離してっ」
「何をそんなに怒ってるのだ……」
「何を?」
手を振りほどこうとぐちゃぐちゃもがくが、そんな姿を見た彼は雪の体ごと軽々と捕まえて、何処かへ歩き出してしまった。多分焦れたのだと思う。
「いーやーだっ!離してって言ってるのに!」
「いい加減にするのだっ、あんまり暴れると放り投げるのだ!」
「じゃあそうすればいいじゃない、何さ、この浮気者っ……!」
ぴたりと足を止め、前を見据えていた視線が落ちてきた。実際見えるわけではないのでこれは雪の憶測だが、面の下ではぱちくり瞬きでもしていたのではないだろうか。
「浮気?」
「と……、とぼけようったって、そうはいかないんだからね。私ちゃんと見たしっ、昨日の夜!」
――昨日の夜遅く、宮殿の奥の廊下での出来事だ。
随分派手な身なりの女性と、親しげに笑い合っている井宿の姿を、雪は遠くから見ていた。
見えたのは後ろ姿だけだったが、雪よりいくらか大人の女性。着物のみならず、立ち姿や仕草が綺麗だと思った。あれはきっと後宮の人間だ。
それ以上は辛くてとても見ていられなくて、雪は声をかける事もせずその場をそっと立ち去った。本当はこうして思い出すのも嫌だったから、井宿とはしばらく顔を合わせたくなかったというのに。
「雪、ちょっと待つのだ。話を、」
「もーっ!やだってば……!」
「……何してんの?あんた達」
呆れたような声に井宿が視線を向けると、柳宿がひどく冷めた目をしてそこに立っていた。