小説
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詠む十一月



十一月、青々としていた木々が次第に彩度を落とし、セピア色に染まっていく。

駅前の時計台に寄りかかりながら、真上にある時計を見上げる。午後三時三十分。いつも私が先についておそ松さんを待つことが多かったけれど、こんなに待つのは初めてだ。彼が遅れてくるのもせいぜい十分くらいで、ここまで遅くなることはなかったし、すっぽかされたことは今まで一度もなかった。
もしかして、別の用事でも出来ちゃったのかな。おそ松さんは携帯電話もスマートフォンも持ってないから、こういうときに連絡を取る手段がないのが残念だ。
三時になる少し前に買っておいたホットコーヒーの缶を、手のひらで転がす。始めはかじかむ手を温めてくれていたそれは、とうに温もりを失っていた。

今日はずいぶん冷えるなあ。ダッフルコートの襟に顔をうずめるようにして、冷たい風から少しでも身を隠す。マフラー、つけてきたらよかった。朝、お母さんがしていったらって言ってたのに、荷物になるからと断ってきてしまったのを後悔する。
どうしようかな、駅の中に移動すれば少しは暖かいかも。でもそうしたら、おそ松さんとすれちがってしまう可能性がある。帰ったって思われちゃうかもしれない。……おそ松さん、一体どうしたんだろう。もしかして、事故に遭ったりとかしてないだろうか。私には、そんなときに知る術がない。どうしよう、この間トド松さんと連絡先交換しておけばよかった。
逡巡しているうちに、見覚えのある赤いパーカーが人込みの中から見えてきた。手には何か入ったビニール袋を持っている。

「っ! おそ松さん!」
「そんなでけー声出さなくたって、聞こえるって」

おそ松さんは私の大きな声に顔をしかめながら、時計台の前まで歩いてきた。
だって、だってもしかしたら、今日は会えないかもって思ったから。思わず大きい声だって出てしまうというものだ。

「こんにちは!」
「うん」

いつもより遅い時間の到着に、おそ松さんは何も言わなかった。けど、無事だったならいい。会えただけでうれしいからもうなんだっていい。

「今日は寒いですね。私、すぐコーヒー買ってきます」
「手に持ってんじゃん。それは?」
「あ、これはぬるくなっちゃったので……」

おそ松さんは私の手の中のスチール缶を指差した。ぬるいというよりも、もはや冷たいと言った方が正しい温度になったそれは、持っているだけで手から体温を奪っていく。
彼は何も言わず、その缶と一緒に私の手をつかんだ。おそ松さんに手を握られているようなこの状況に普段なら飛び跳ねて喜ぶところだけど、いたく残念なことに私の手はずいぶんとかじかんでいて、感覚があまりない。

「うわ、つめた。鼻も耳も赤いし。なに、こんな寒い中ずっと待ってたの?」
「だ、だって、すれ違いになっちゃうかもしれないし」
「……俺が来るのなんて、待ってなくていいのに」
「何言ってるんですか! おそ松さんのためならずっと待ってますよ!」
「風邪ひいたらどうすんの、受験生のくせに」
「そしたら、治します!」

お母さんには「こんな大事な時期に何やってるの」って叱られちゃいそうだけど。身体は丈夫な方だし、これくらいへっちゃらだ。心なしかおそ松さんの顔を見てから体温がぽかぽかと上昇している気がするし。おそ松さんは身体に優しい。
おそ松さんは呆れたようにため息を一つついて、片手に持っていたビニール袋を差し出した。

「苗字にこれあげる」
「? ありがとうございます」

何も分からないまま受け取り、中身を確認する。中には雑多にチョコレートやスナック菓子、それと缶のカフェオレやココアが入っていた。触れて確認すると、保温ケースから出したばかりのように熱々だ。これ、一緒に入ってたチョコ溶けちゃってないかな。

「これ、どうしたんですか?」
「パチンコ勝ったから、その景品のあまり」
「パチンコ……」

そうだったんだ、さっきまでパチンコに行ってたんだ。事故とかではなくて安心したけれど、パチンコかあ。
寒空の下待ちぼうけした身としては、少し複雑な気分になってしまう。
いやだめだ、会えるのが当然のことと思ってはいけない。思い上がってはいけない。毎週こうして会えるのは当たり前じゃないのだ。私が、私だけがおそ松さんに会いたくて頼み込んでいるだけなんだから。時間なんてあくまで目安に過ぎないし、おそ松さんは私のお願いに答えてくれているだけ。今日だってパチンコ帰りに来てくれるだけでありがたい話だ。
頭に浮かんだ憂鬱な気持ちを振り払うように首を振ると、おそ松さんは訝し気にこちらを見た。

「あー、そういやさあ、こないだは弟がごめんね。体調、だいじょぶだった?」
「あ、は、はい! 心配かけてごめんなさい。大丈夫です!」
「ほんとに?」
「はい! たくさんお水飲んだし、すぐにお風呂入って寝たのでお母さんにもバレてないです」
「そ、良かったね」

おそ松さんは普段よりすこし素っ気ない口調でそう言うと、私が買った冷めきった缶コーヒーのプルタブを開けた。寒くないのかな。せっかく温かいのがあるのに。そう思ってビニール袋の中を漁ってみるも、おそ松さんが普段飲むようなコーヒーは一つも入っていなかった。あるのは、ミルクが多めであろう白い缶のカフェオレと、ココアの缶、それからペットボトルのミルクティー。全部、甘党の私でも飲めるやつだ。
もしかしてこの中のもの──。

「これ全部、私のために持ってきてくれたんですか?」
「ちげーよ、うぬぼれんな食いしん坊が」

デコピンされた。





二人で風を避けられるところに行こうと意見が一致して、駅の構内に移動した。半屋外ではあるけれど、風が直接当たらないだけでも体感は結構変わる。おそ松さんがくれたココアのおかげで、手は次第に感覚を取り戻してきた。

「今日は予備校行くの?」
「はい。この間は反抗心でさぼっちゃったけど、他の人が何と言おうと気にしないことにしたんです」
「あっそ。良かったじゃん」

部活は引退して、今は受験生らしく勉強漬けだ。
今日も朝から図書館で勉強して、この後は夜遅くまで予備校。うんざりしてしまいそうなタイムスケジュールだけど、土曜日のこの時間のためなら頑張れる。週末のご褒美だ。

「受験勉強もですけど、定期試験もあるのがちょっと面倒なんですよね。どっちもやんないといけなくて」
「ふーん……。高校の時の授業とか全然覚えてねえな。どういうこと勉強してんの?」
「ええと、午前中は古典を勉強してました」
「あーはいはい、古典ね。全っ然わかんね」
「百人一首とか、やりませんでした? カルタみたいに遊ぶの」
「やったかなあ」
「つくばねのー、みねよりおつるー、みなのがわ―みたいな」
「なにそれ、呪文?」

とっさに思い浮かんだ一首の上の句を詠んでみるが、おそ松さんはピンとこないらしく、首をひねっている。
私だって、一年生のときの授業中に暗唱が課題として出てきたからいくつか覚えているだけで全ては覚えていないし、高校を卒業して数年が経つおそ松さんに覚えていろというのは酷な話だ。
『筑波峰の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる』
たしか、なんとかっていう天皇が若い時に、後の后となる女性へ贈ったラブレターだ。

「で、それどういう意味なの」
「えーっと、『筑波山の山頂から流れる川の水が次第に増えていくように、私が貴方を想うこの恋心も、次第に募っていきます』……っていう感じの意味だったと思います」

遥か昔の人の詠んだ歌はとても情熱的で、ただ現代訳を説明しているだけでも少し照れてしまう。
百人一首に収められている百首のうちその半数近くが恋を詠っている。ラブソングが好きなのは、なにも現代人だけではないらしい。

「ロマンチックな歌ですよね……うわあ、すっごく嫌そう!」

かつての恋物語に想いを馳せながらおそ松さんの顔を見上げれば、予想以上に表情を曇らせていた。この間の居酒屋でも、たびたびこんな顔をしてた気がする。

「めんどくさ。普通に好きだよって言えばよくない?」
「おそ松さん、録音するから今のもっかい言ってくれませんか?」
「やだよばか」

おそ松さんの口から「好きだよ」という言葉がせっかく聞けたのに、残念。おそ松さんは真顔で私の頭を鷲掴んで遠ざけようとする。でも絶妙に痛くないようにされてる、と思う。たぶん。

「率直に言うのは恥ずかしいから婉曲的に、っていうことなんじゃないでしょうか。おそ松さんは、好きな人に好きって素直に言えるタイプですか?」
「言えるよ。苗字もそうでしょ」
「そうみたいです」

おそ松さんに出会うまで、自分がそんなタイプだなんて思いもよらなかった。
けれど、好きな人に伝えた好意が、否定されることなく拒絶されることなく、今もこうして隣で伝えることを許されているこの現状は、とても幸せなことだと思う。同じ熱量を返してもらえるわけではないけれど、それでも今、私は恵まれているのだ。

「古典ってさ、まだるっこしいし何言ってっか分かんないし、頭痛くなんない?」
「でも品詞分解していって読み解くのは楽しいですよ。パズルとか暗号解いてるみたいで」
「品詞うんたらとかよく分かんないけど、もうさあ、日本語だけ話せればよくない?」
「んー、じゃあ現代文ならどうですか?」
「……まあ、難しいやつとかじゃないなら」

評論とか随筆よりは、小説の方がとっつきやすいだろうか。最近授業でやったばかりの単元を思い出そうと、脳内で教科書をめくる。

「今はね、舞姫を勉強してます」
「んー、知らねえなあ。どんな話?」
「一言で言ってしまえば、クズ男が女の子たぶらかして被害者面する話ですね!」
「なにそれ、そんなん教科書に載ってんの?」
「文学としての価値があるからですかねえ」

羅生門だって窃盗罪だし。城の崎にても動物愛護の点ではよろしくない。古典でも源氏物語は多くの女性と浮き名を流すプレイボーイの話だ。現代の価値観と違うけど、夜這いとかしてたはず。作中の善悪は、国語の教科書に載せる基準に関係ないんじゃないだろうか。

「えっとね、まず主人公は、エリート国家公務員の豊太郎なんですけど──」

頭の中でストーリーを整理しながら、あらすじをざっくりと語っていく。おそ松さんは合間合間に「かわいこちゃんと国際結婚いいなあ」「リストラ!?やば、知り合いもいない海外でニートは死ぬでしょ」なんて表情をくるくると変えて相槌を打ってくれるので、話し手として説明し甲斐がある。

終盤、仕事を取るか愛する人を取るかの決断を迫られる豊太郎は、最終的に仕事を選ぶ。けれど、エリスへ別れを告げることがいられずにいるうちに、友人がエリスに事情を話してしまうのだ。

「エリスは嘆きました。『我が豊太郎さま、あなたはそんなにも私を欺いていたのですね』」
「…………あーあ」
「豊太郎は、エリスに対して無神経な対応をした友人を恨まずにはいられないのでした。……ちゃんちゃん」
「ちゃんちゃんって。豊太郎、友達のせいにすんの? そんでおしまい?」
「おしまいです。この話は、筆者の実体験を基にしたんじゃないかって言われてるみたいですよ」
「作り話の中でくらい、ハッピーエンドにすりゃいいのに」
「ハッピーエンドって、たとえばどんな?」
「豊太郎はめちゃめちゃ出来るすっげービッグな男だったから、クビにもなんねーし、エリスもエリスの母さんもつれて、日本に連れて帰って、生きてる自分の母さんと家族みんな幸せに暮らす、みたいな?」
「それはそれでちょっと読んでみたいですね」

たしかに、爽快な喜劇になりそうだ。教科書に載るかはちょっと分からないけど。

「……もりおーがいはさ、なんでそんな話を書いたんだろうね」
「書いた理由、ですか?」

そんなこと、考えたこともなかった。作者の気持ちを考えなさい、なんて、まさに国語の問題文みたいだ。
顎に人差し指を当てて、想像してみる。自分の留学の経験を思い出に残すため、とか?
でも物書きだし、「面白いストーリーが思い浮かんだから」「書きたかったから」なんてそんな単純な理由もあり得そう。

「たぶんそいつはさ、きっと小説ん中で書きたかったんだよ。クズ男なんて好きになるな、って教訓をさ」
「なんですか、それ」
「まあ、クズを好きになる女も馬鹿だと思うけど」

吐き捨てるようにそう言うと、おそ松さんはコーヒー缶を煽って、最後の一口を喉に流しこんだ。

「おそ松さんはクズじゃないですよ?」
「……べつにおれの話なんて言ってないじゃん」
「おそ松さんは、だって、優しいじゃないですか」
「……こーんな寒い中、パチンコ行って待ちぼうけ食らってんのに?」
「それでも、あったかい飲み物も持ってきてくれました」
「苗字、将来ぜってえ駄目な男にひっかかるタイプだよ……」
「大丈夫です、私にはおそ松さんがいますから」
「もうその時点でだめじゃん」

苗字ってほんと馬鹿。
おそ松さんは唇を歪め、自嘲するような表情でそう言った。なんだか今日のおそ松さんは、たびたび物憂げにこんな顔をする。こういうのなんていうんだっけ、この間の模試で出てきたような。……厭世的、だっけ?
いつもよりも距離が遠く感じて、違う人みたいで、少し怖い。けれど、今日、おそ松さんを放っておいたら駄目な気がする。

「おそ松さんはクズじゃないので、おそ松さんを好きな私も馬鹿じゃありません」
「そのセリフがもう馬鹿っぽいよ」

何を言っても暖簾に腕押し。おそ松さんは聞き入れてくれない。
どうしたらいいのかな。どうしたら、私の言葉を聴いてくれるのかな。

「……ね、知ってました? 国語の先生が言ってたんですけど、文豪ってみんなけっこうクズなんですって」

私の唐突な話題に、おそ松さんは伏せていた顔を上げてこちらを見た。

「ギャンブルがすごく好きな人とか、女遊びが激しい人とか、お金の無心に忙しい人とか。お金ないよーって作品書いてるのに人に借りたお金で風俗行ってた人とか、あとは、」
「……だから?」
「えっと、だから、世の中には、クズなんてたくさんいるので、もし仮に、万に一つ、おそ松さんがクズだとしても、大丈夫です」
「……なにそれ、意味わかんね」

口ではそう言いながらも、先ほどまで暗かった表情は少し晴れたような気がする。
ほっとして、私の顔もゆるんでしまう。

「えへへ、今の先生、こういうこぼれ話してくれるから、面白いんですよ」
「ふーん。……この間の夏目漱石も、授業で教えてもらったの?」
「え!? し、知ってました?」

この間の、居酒屋さんの帰り。会話に挟み込んだI love youは、どうやらばっちりバレていたらしい。いつも似たようなことを惜しげもなく伝えているくせに、伝わらないだろうと思って発した言葉に気が付かれていたのは、なんだかとっても恥ずかしい。実際、反応も薄かったし、おそ松さんはあの逸話を知らないものだとばっかり思っていた。

「知ってましたー」

いたずらが成功した子供みたいな顔だった。ああ、その顔、おそ松さんのその顔、私好きだ。





「じゃあ、そろそろ私は行きますね!」
「はいはい、いってら」
「がんばります! それじゃまた来週」
「……ねえ苗字さあ、毎週こうやっておれと遊んでて、ほんとに受験大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ」

自信を持った声で断言する。鞄の中のクリアファイルから、一枚の紙を出して目の前にかざす。おそ松さんに一番に見せようと思って、まだ両親にすら見せていないものだ。

「ほらこれ、この間の模試の結果です」

第一志望に書かれているのは、もちろん私の志望校。その横にはA判定の文字が、堂々と太文字で印刷されている。

「……自信満々じゃん」
「自信を持たせてくれたのは、おそ松さんですよ」

油断をしているわけではない。驕っているわけでもない。ただ、自分の今までの努力を、ちゃんと否定しないことにしただけだ。
ほんの少し前までは、勉強してない時間は絶えず不安になるくらいだった。けれど、おそ松さんがこの間、言ってくれたから、安心したんだ。私はちゃんとやってきたんだから、大丈夫だって。

「おそ松さんの、おかげなんです」

そう言って微笑めば、おそ松さんは嬉しいようなむず痒いような、哀しいような怒るような、全ての感情を混ぜたみたいな表情を浮かべる。
どうしたっていうんだろう。今日のおそ松さんは、やっぱり少しおかしい。


首をかしげていると、どこか遠くのスピーカーから割れた音声で童謡のメロディが流れ始め、駅の方まで聞こえてきた。
子供は早くお家に帰りなさい、そういうメッセージだ。
でも私はまだこれから予備校に向かって、夜遅くまで勉強して、それから帰るのに。
私はもう子供じゃないのかな、なんてそんなひねくれたことを考えてしまう。
今までより、早いチャイム。十一月から、アナウンスの時刻が早まっているのだ。
季節はすっかり、冬になっていた。



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