小説
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後片付けは明日の朝



 今日はいつもより少し早く上がれた。最近は仕事が忙しくて、帰りが日付の変わる時間に帰ることもざらだったけれど、これなら今日は寝る前に松野さんとゆっくりおしゃべりしたり甘えたりできるだろうか。そんな期待に胸を膨らませて自宅の玄関の扉を開けると、ふわりと甘いチョコレートの香りが、突然鼻腔をくすぐった。普段ならばどの時間帯でもぱたぱたと足音を立てて玄関先まで迎えに来てくれる彼の姿は見えないけれど、靴があるから家にいることは間違いない。それにしても、この匂いは一体何なのだろうか。

 リビングへのドアを開けると、さっきまでよりももっと匂いが強くなる。ミルクチョコレートの、美味しそうな香り。キッチンを覗くと、コンロの前に松野さんが立っていた。私が普段自炊の際に着用しているエプロンを身に着けている。何やら集中している彼の背中越しに後ろからそうっと様子を伺うと、コンロの上には粘性の高そうな茶色い液体が、大鍋いっぱいに入っていた。

「あの、ただいま帰りました」
「わ! 名前ちゃん帰ってたんだ。おかえり。悪い、今手が離せなくて」
「いえ、……何してるんですか、これ?」
「ホットチョコレート、……に、なるはずだったモノ」
「ホットチョコレートに、なるはずだったもの?」

 彼が言うまま復唱する。今まで彼が台所に立つことなんてそうそうなかったのに、急にどうしたんだろう。テレビで紹介していたのを見て作ってみたくなったりしたのかな。
 コンロの火を止めて、松野さんはため息をついた。なるはずだったということは、これはホットチョコレートのなり損ない、つまりは失敗作ということだろうか。それにしたって、随分な量を作ったものだ。家のなかで一番大きな鍋いっぱいまで、茶色い液体がなみなみと入っている。

「これ、失敗したんですか?」
「うん。牛乳入れ過ぎたからチョコ足して、チョコ足し過ぎたから牛乳足して、ってやってたらこんなんなっちゃった。底の方も焦げちゃってさあ」

 大鍋の中身をおたまでかき混ぜてみると、随分ともったりしていて、確かにホットチョコレートというよりは湯煎にかけたチョコに近いかもしれない。少なくとも飲み物とは呼べないだろう。これ、一体どれくらいの量のチョコレートと牛乳が使われたんだろうか。想像して少し怖くなったので、ゴミ箱に目を向けないよう視線を逸らした。

「でも、ホットチョコレートなら、わざわざ鍋で作らなくても電子レンジで簡単に作れますよ」
「あー、でもそれだとさ、なんか手作りしたって感じしなくない?」
「まあ、そうかもしれませんね」

 ホットチョコレートが飲みたいというよりは、料理がしたい気分なのかな。ホットチョコレート作りが料理と呼べるかは少し疑問が残るけれど、普段はコーヒーを入れることすら面倒くさがって私に頼むのに、珍しいこともあるものだ。シンクには洗い物がどっさりたまっていて、洗うことを考えると少し気が重くなる。松野さん、片づける気あるのかな。
 私が不安に思っているうちに、松野さんは新しい材料を出して調理を再開した。まな板の上に板チョコを置いて、とんとんとんと包丁で細かく刻む。その手つきが少し危なっかしくて、見ているとひやひやしてしまう。思わず声をかけた。

「私も手伝いましょうか?」
「んー? ううん、いいや。手伝っちゃだめ」
「手伝っちゃだめ?」
「だめ。俺が一人で作りたいの。あ、でもこれ失敗したらもう材料ないから、もしなんか間違ってたら教えてね」

 だめだなんて、そう言われてしまっては仕方ない。ダイニングからキッチンの様子はうかがえるので、そちらへ移動して、彼が悪戦苦闘しているのを横から見守ることにした。
 上着を脱いで椅子に座って、一息つく。こうやって家でのんびりするのも久しぶりだ。ここ二か月は風呂と睡眠のためだけに帰ってるようなものだった。もしも松野さんがいなかったら、恐らくもっと生活は乱れていただろう。もしかしたら会社に泊まり込みもしていたかもしれない。そう考えると、私の今の生活はもはや松野さん抜きでは成り立たないのだなあ、なんてそんなことを思う。

「あのさ、300ミリリットルってどれくらい?」
「計量カップが棚にありますよ。上から二段目」
「上から二段目……、あった」

 さきほどまで分量を考えずに作っていたのかな。そうだったんだろうなあ。彼は軽く洗った計量カップにおそるおそる牛乳を注ぎ、真横から睨む。あ、計量カップの水気ちゃんと拭き取ったのかな。言い忘れてしまったけど、時すでに遅しだ。まあいいや、なんとかなるでしょう。こういうところが多分料理に向いてないんだろうな。掃除は得意なんだけど。私がそんな風に自己分析している間に、彼はきちんとお望み通りの分量になったらしい牛乳を雪平鍋に入れて、コンロに火をつけた。

「……あ、もうちょっと弱火の方がいいと思います」
「弱火?」
「多分。それで、ええと、牛乳がふつふつ言い出したらチョコ入れるのかな」
「ふつふつ?」
「しばらく温めてたら、牛乳の表面に気泡が出てくると思うので、そのへんで」

 あんまり作ったことはないけれど、たしかホットミルクはそんな感じの作り方だった気がする。ホットチョコレートも多分それと同じで良いんじゃないだろうか。幼いころに母の作ったものを飲んだ思い出はあるけれど、記憶が曖昧だった。
じっと鍋の前に立って牛乳を見ていた彼が、先ほど刻んだチョコレートを鍋に入れる。木べらでゆっくりゆっくりと中身をかき混ぜるさまは、まるで大切なものを扱っているようだ。

「出来た」

 彼が嬉しそうに声を上げた。良かった、今度は失敗せずに済んだんだ。最後の材料だと言っていたから、完成したと聞いてほっと心を撫で下ろす。出来上がったものを見に行こうと立ち上がると、「あ、まだだめ。ソファ座って待ってて」だなんて言われてしまった。手伝うのもだめ、見にくるのもだめ、だなんて、さっきから断られてばっかりだ。少し残念だけれど、言われた通り大人しくキッチンからリビングへと移動して、ソファに座って彼を待つ。当初は彼の寝床として買ったこのソファベッドも、最近はすっかりただの椅子として使われている。二人でシングルベッドに身を寄せ合って寝るのも悪くないけれど、そろそろダブルベッドでも買ってみようかな。そんな算段を立てていると、彼がマグカップを二つ持ってやってきた。

「それにしても、どうして急に作ろうと思ったんですか? 普段料理なんかしないのに」

 ホットチョコレート作りが料理に入るのかお菓子作りに入るのか、それともどちらにも当てはまらないのかは分からないけれど、何にせよ普段の松野さんなら絶対にしないことだ。動機が気になって、彼が差し出すマグカップを一つ受け取りながら尋ねた。

「んー? んーと、えっとさ。今日って3月14日なんだよね」
「はい」
「そんで、3月14日ってホワイトデーなわけ」
 
 ホワイトデー。男の人が、バレンタインデーにもらったもののお返しをする日だ。少し前からコンビニでは特設コーナーが設けられているし、朝の情報番組でも取り上げられていた。忘れていたわけでも、気が付いていなかったわけでもない。けれど、そのイベントは私とは無縁なはずだ。少なくとも、今年の私にとっては。だって、

「バレンタイン、私なにも、」
「あー大丈夫大丈夫、分かってるって。」

 今年のバレンタインデー、私は彼に何もしていないのだ。私はチョコレートを作ることもなく、既製品を買うこともなく、プレゼントを渡すこともなく、本当に何もしていない。二月から三月末まではずっと仕事が忙しくて、バレンタインに何も用意できないことは彼に以前から伝えていたし、了承も得ていた。今日、比較的早く帰ることが出来たのは偶然だ。申し訳ないとは思っていたけれど、「大丈夫、俺のことは気にしないで仕事頑張りなよ」という彼の言葉に甘えて、私はずっと仕事に没頭していたのだけれど、もしかしたらやっぱりあげた方が良かったのだろうか。

「ただ俺が何かあげたかっただけだからいいの。ほら、冷める前に飲んで」

 そんな風に言われたって、どうしても気にしてしまう。私は松野さんに何もあげられなかったのに、松野さんから一方的に受け取るなんて。口をはくはくと開けたり閉じたりと慌てていると、「いいから飲んでってば」と笑われてしまった。折角彼が作ってくれたものを冷ましてしまうのも悪いし、彼が言うまま、マグカップを傾けてホットチョコレートを口に含む。チョコレートの優しい甘さが、口いっぱいに広がった。美味しい。疲れが取れるような気がして、思わず頬が緩んだ。

「美味しい?」
「美味しいです、すごく」

 答えると、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「私、今度チョコレート用意しますね」
「気にしなくていいよ、俺名前ちゃんが仕事頑張ってるとこ好きだし、これ飲んで明日も頑張ってくれたらそれで十分」
「それでも、渡したいんです」
「そっか。……じゃあ俺、名前ちゃんがいいな」
「私の手作りですか? うーん、上手に作れる自信はないですけど、頑張りますね」

 何を作ろうか。遅れてしまった分、たくさんたくさん作ろう。美味しいものを作る自信は正直あまりないけれど、きっと彼は喜んでくれるだろう。私が作ったものを彼が嬉しそうに受け取るのは想像に難くない。

「何が食べたいか、今から考えていてくださいね」

 そう告げた言葉に返事は帰ってこなかった。松野さんが突然、私が両手で持っていたマグカップを手に取ってテーブルの上へ置く。まだ飲んでいたのに、どうしたんですか。そう問おうと開いた唇は、彼によって塞がれてしまった。

「へへ、名前ちゃん、チョコの味がする」

 突然奪われた唇は、すぐに解放された。彼は笑いながら私の唇を親指でなぞる。それがなんだかこそばゆくて、思わず口元を緩めると、また口付けられた。薄く開いた唇の隙間から彼の舌が忍び込んで、そのまま舌を絡めとられる。咥内の甘さを奪い取るように、彼の舌が私の舌を、上顎を好き勝手に撫でていく。互いの息が、熱を持ったものへと変わるのに時間はいらなかった。

 されるがままに唇を何度も深く重ね、唾液を交換しているうちに、頭がぼんやりとしてしまう。そういえば、チョコレートには媚薬効果があるんだっけ。いつ読んだかも覚えていない信憑性の薄いネットニュースを思い出す。でももう、どうだっていいや。それが本当だろうと嘘だろうと、すでに彼に骨抜きになっていることに変わりはなかった。薄く目を開けると、彼の飢えたような熱い視線に気が付いて、ぞくりと腹の奥が疼くのを感じた。

 応えるように、求めるように舌を絡める。チョコレートの味に甘い唾液が、彼のそれと混ざりあっていく。彼の首に両腕を回して、ソファに背中から倒れこんだ。ああ、せっかく彼が作ってくれたのに、ホットチョコレートがマグカップの中で冷めていってしまう。だけど、もう少しだけ彼とこうしていたいと、そう思ってしまうのだ。