小説
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一晩泊めてくれない?



今日も遅刻寸前に出勤して上司に叱られた。
化粧室で同期に陰口を言われているのを聞いてしまった。
高校の同窓会は休日出勤で行けなくなってしまった。
大学から2年半付き合ってきた彼氏には1年前に振られてしまった。

つまるところ、私は、人に飢えていた。
人恋しい。誰か、誰でもいい。無条件に慰めてほしいし労ってほしいし抱きしめてほしい。
明かりのついていない部屋に、「ただいま」と帰ってこない挨拶をするのが、こんなに辛いことだなんて思っていなかった。

たまには実家に帰ろうかなと考えてみるけれど、月に休みは4回あるかないか。新幹線で帰省するには難しい。
ああ、母親の作った味噌汁が飲みたい。煮干しで出汁を取って合わせ味噌を溶かして賽の目に切った豆腐と短冊に切った油揚げを入れた、大豆尽くしの味噌汁が飲みたい。何の感謝もせず母の味噌汁を当たり前のように飲んでいた学生時代の自分を殴って、味噌汁を横取りしてやりたい。

人間、どんなに孤独でも食欲だけは変わらないんだなと感じる。コンビニでインスタント味噌汁でも買えばこの気持ちも落ち着くかな。

灯に寄ってくる虫のように、駅からマンションまでの途中にある全国チェーンのコンビニエンスストアに足が向く。
いらっしゃいませ。店員の気の抜けたマニュアル挨拶。ドアが開いたときになる音楽に反射して言っているだけで私に向けられた挨拶ではない。コンビニ店員なんてそんなものだ。

わかめ。豆腐。なめこ。しじみ。海苔。豚汁。6種類のカップ味噌汁が並んでいた。豚汁を味噌汁にカテゴリしていいのかは分からないけれど。 豆腐と書かれた左から2番目のカップを手にして、おにぎりが陳列された棚へ移動した。深夜ということもあり、品数は少ない。定番の梅とシーチキンを前から取ってレジへ向かう。

3点で332円です。
352円お預かりします。
レシートと20円のお返しです。
ありがとうございました。
「ありがとうございます」

品物を受け取るときにお礼を言うのは、もう癖だった。店員が、会釈をする。夜勤がんばれ、店員さん。

一食350円。1日1,050円。30日で31,500円。
残業は多いもののその分しっかり手当が付くので世間的には、お金に余裕がある方だと思う。あまり欲がないし、使う時間もないから貯まっていく一方だけど。

帰ったら味噌汁とおにぎりを食べて、シャワーを浴びて、すぐに寝よう。明日も早いのだから。
どんなに辛くても、会社を休むことはできないのだ。
どんなに人恋しくても、私には抱きしめてくれる相手などいないのだ。

自宅であるマンションまであと10m。
あれ、明日って燃えるゴミの日だったかな?確認しようとゴミ捨て場を覗く。

「ひっ……!!」

人が、倒れていた。
赤いパーカーを着た、青年? 若い、男の人……?

え、なにこの人、もしかして、死んでたりとか、そういう、こういうときってどうしたらいいんだろう。保健所?いやいや野良犬じゃないんだから。救急車?だとしたら、脈を計ったりしなきゃいけないかな?それは正直少し、こわい。

「ん、んん……」
「!?」

男の人が身じろぎした。
生きてた!良かった!
ごみ捨て場の死体第一発見者なんて、いやだもの。
酔っ払いかな。でもこの寒空の下で寝ていたら死ぬかもしれない。

「あ、あの!」
「ん……」
「すみません!大丈夫ですか!」
「んん……」
「あの!大丈夫ですかー!」
「……うっせーなチョロ松!!まだ10時だろ寝かせろよ!!」
「きゃあ!」

男の人が飛び起きた。びっくりして思わず尻餅をついた。痛い。

「あ? あー……家じゃなかったんだっけ」
「え……あの……」
「あー! 悪いおねーさん。寝ぼけてたわ」

何がおかしいのか、青年はけらけら笑って手をひらひらとさせる。

何だろう、何か、嫌な予感がする。
なんだか、この人に関わっちゃいけない気がした。
まるで、身体が早く逃げろって言っているみたいにざわざわとする。

「だ、大丈夫そうですね!ごめんなさい、失礼しました!」
「あ!!!!」
「え?!」

手首を掴まれる。その場から離れようと立ち上がって逃げようとした私の腕は、青年の腕によってがっちりと捕らえられてしまった。
男の人がにやりと笑う。本当に、本当に嫌な予感がした。

「お姉さんさあ。俺のこと、一晩泊めてくれない?」


それが、彼との、松野おそ松との出会いだった。



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