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上手なクズの絆し方



金曜日の二十一時。学校はとっくに終わって、任務も終えて、月曜提出の宿題も片付けて、食堂で夕飯にうどんをかきこんで。あとは自室に帰って風呂を済ませて、楽しい楽しい週末を迎えるだけというこのタイミングで時間を無為に消費するのは、もう四回目だった。
正しくは、無為に過ごしているというのは少し語弊があるのだが、本部基地のベンチでだらだらと携帯をいじって金曜の夜を過ごすというのは、はたから見ればどう考えても時間の浪費に過ぎないだろう。
あの人から「もうちょっとで終わるから待っててね」と言われてから、早一時間。開発室の出入り口の正面のベンチに座って、苗字さんの仕事が終わるのをただ待っていた。

あの人のもうちょっとの感覚がどれくらいかは知らないが、この前も、そのまた前も、一番最初も、毎度数時間待たされた記憶がある。だからきっと今日もまた、それくらいは待たされるのだろうと、最初から覚悟の上だった。まだ来ない、まだ来ないとスマホから顔を上げては、開発室の中にいる彼を見る。いまだ、苗字さんが作業を終える素振りはない。
今来むと言ひしばかりに長月の――。今の自分の状況に、百人一首の一つが重なる。流石にそこまで待たされることはないと思いたいが、可能性がないとも言い切れない。
すぐ終わらせる気がないんやったら、まだ終わらんって素直に言ってくれはったらええのに。まだかかると言われても、すぐ終わると言われても、こちらはどうせ、ただ待つことしか出来ないのだ。

手慰みにしていたマインスイーパーにも飽きてきたころ、スニーカーのゴムが硬い廊下を踏む音がしてスマートフォンの液晶から視線を上げる。迷彩柄の上着を着た金髪の男は、自分を見て訝し気な表情を浮かべた。

「水上じゃねえか、こんなところで何やってんだ」
「何て……、強いて言えば待ちぼうけですわ」

珍しく煙草を咥えていない諏訪さんに見下ろされたまま、どーも、と気の抜けた挨拶を返して、開発室の中を指差す。特注トリガーの特権を持つA級隊員ならまだしも、開発室に用事のあるB級隊員は多くない。自分が知る限りでは、ここに足しげく通うのは、普通のB級とは言い難い東さんか、トリガーに関心深い蔵っちくらいだ。
廊下にはめ込まれた窓ガラスの向こう、大量の配線コードが入り乱れる部屋の中でパソコンと向き合っている苗字さんは、俺と相対するときにはそうそう見せない真剣な表情を浮かべていた。約束をしていた上に、先ほど自分から「待っててね」と声をかけた俺のことなど、きっとすっかり忘れているのだろう。
ああして集中しとる姿はただの仕事が出来るイケメンなんやけどなあ。残念なことに彼は、人間として少しネジが外れている節がある。口を開けば残念なんて話じゃない。常識や倫理観や、そういう大事なものを分かっていて、その上でそれらを軽視している。科学者なんていうものは、もしかしたらそうじゃないとなれないものなのかもしれないが。いや、流石にそれは大多数に失礼か。やっぱりただあの人がクズなだけやな。

「待ちぼうけ? 誰待ってんだよ」
「苗字さんっす」
「あぁ?」

俺が挙げた名前に、諏訪さんは途端に顔をしかめる。あの人の変人っぷりというか、人間としてアレなところは、よく知れ渡っている話だった。諏訪さんたちの世代と苗字さんは学年こそ違うが大学の在学時期も多少かぶっていたし、噂だけでなく実際にそういった面を目の当たりにしてきているに違いない。

「いつから待ってんだ」
「一時間くらい前ですかね」
「はあ? 中入りづれえなら、俺が声かけてやろうか?」
「いや――、」

諏訪さんの善意の提案を断ろうとしたところで、開発室の扉が開く音に諏訪さんが振り返る。彼と約束をしていたらしい寺島さんが、ボディバッグを肩にかけながら出てくるところだった。

「諏訪、お待たせ」
「おい雷蔵。苗字さん待ちらしいぞ、こいつ」
「苗字さん?」

寺島さんは俺をちらと見ると、自分がたった今通ってきた扉を一瞬戻り、中を一瞥する。苗字さんの様子を確認すると、首を横に振って諦めろのサインを示した。

「あの人、まだ全然終わらないと思うけど」

集中したら周り見えなくなる人だし。と付け足された一言に諏訪さんはため息をついた。仕事がまだまだ終わらないことも、仕事にのめりこむと他のことをすべて忘れてしまうのも知っている。伊達に今まで三度も待ちぼうけを食らってはいないのだ。

「駄目元で声かけてこようか」
「や、ええですよ。待ってたらいつか終わるでしょ」

諏訪さんや寺島さんが声をかけたところで徒労に終わるのは分かっているので、気持ちだけ受け取っておく。

「いつかっていつだよ」
「多分、深夜までかかるよ。諦めて帰った方がいいんじゃない?」
「どうせ宿舎住まいやし平気ですよ。もし限界んなったらすぐ帰れるんで」

本部の宿舎区画にある自分の部屋までは、エレベーターで上がって徒歩三分だ。寝落ちしそうになったとしても、最悪帰宅までは耐えられるだろう。
俺の帰るつもりがない様子を見て、目の前の彼らは顔を見合わせる。

「……見るたび変わってる、横で侍らせてる女もそうだけど、一体あの人の何がそんないいんだろうな」
「モテない男の僻みは醜いよ諏訪」
「ちげえわ」

諏訪さんの言いたいことは分かる。苗字さんの人格は最悪。モラルなんて持っちゃいない、真摯に人と向き合うことなんかしてくれない。ワンナイトを繰り返しては浮名を流して、当の本人はどこ吹く風で新しい女を口説いている。
そんなどうしようもない人間にどっぷりとはまってしまう阿呆が、男女問わずいるのだ。自分を筆頭に、大勢。

あの人は、苗字さんは自分の隊長とは違うタイプの人誑しだ。イコさんのカリスマ性が健全で眩しいものであるのに対して、苗字さんは不健全で薄暗いそれによって、人を魅了する。誘蛾灯や食虫植物のような性質のそれは、イコさんとは似ても似つかない。その表現では彼に惚れこんでしまった自分が虫になってしまうが、それ以上にぴったりの例えがないのだから仕方ない。惹かれてしまったが最後、逃れるすべはないのだ。

「顔じゃない?」
「いや顔なら嵐山とかの方がいいだろ」
「嵐山さんは高嶺の華なんとちゃいます?」
「まあ抱いてくれって言って軽率に抱いてくれる相手じゃないよね」
「お前言い方」

高校生の前だぞ、と諏訪さんが窘める。今さら気を遣ってもらう歳でも性格でもないが、まさに彼の倫理観の無さを利用して「抱いてくれ」と迫った過去があるので、彼らの配慮が少し後ろめたい。決して顔には出さないが、咄嗟に気まずさを誤魔化すように口を開いた。

「あと、口の上手さやないですか」
「ああ、たしかに。馬鹿な女の子を口説くにはオーバースペックだと思うけどね」
「不特定多数を馬鹿とか言うなよ……。あの人の被害者みてえなもんだろ」
「違うって、あの人が言ってたんだよ。『賢い子より馬鹿な女の子のほうが好きだ』って」
「……へえ、そうなんです?」

へえ。あっそう。
彼について良し悪し問わず様々な噂を耳にしてきたが――もちろん悪い噂の方が多い――、それは初耳だった。もし人間を馬鹿なやつと賢いやつに二分した場合、自意識過剰でもなんでもなく、自分は賢い方にカテゴライズされるだろうと知っている。つくづく彼の好みは自分とかけ離れているのだと、まさかこんな場で知ることになるとは思わなかった。

「高給取りなとこもポイント高いんじゃない?」
「エンジニアって実際どんくらいもらってんだよ」
「諏訪は防衛隊員の方が向いてるからやめといたほうがいいよ」
「べつになりてえわけじゃねえよ。……こうやって挙げてくと意外と良いとこあんな」
「まあそうじゃなきゃモテないだろ」

諏訪さんと寺島さんの、気が置けない仲特有のぽんぽんと飛び交う言葉のやり取りを聞きながら、ぼうっと窓の向こうにいる彼の横顔を眺める。
悪すぎる女癖と難のある人間性。それを補って余りある、面の良さと口の上手さ。相手が欲しい言葉を瞬時に察する頭脳。人好きのする人柄を装うのだって、あの人にとっては容易なことだ。人から好かれるには十分な能力だった。

「あとはやっぱり、めちゃくちゃ上手いらしいよ」
「回数こなしゃ誰だってそうなんだろ」

寺島さんの言葉に、諏訪さんは今日一で渋い顔をした。
上手いって、そりゃまあそういう、夜の話だろう。そういう噂って、誰が流すんやろ。やっぱりそういうことをした相手本人だろうか。あの人が好きだという『馬鹿な女の子』だから、口も軽いに違いない。きっとそういう話が広まっていくのも必然なのだろう。
それにしても。

「諏訪さん、苗字さんと仲良えですね」
「はあ!? 今の話聞いててなんでそうなんだよ」

諏訪さんが一方的に陰口を叩くような人間でないということは、ボーダー内では周知の事実だ。その彼がこう言うということは、つまりそれが許される間柄ということだろう。

「そうそう、仲良しなんだよ俺たち」
「げっ!」
「お疲れさまです、苗字さん。終わったんですか、仕事」
「お疲れ雷蔵。もうしばらくかかるかな。今はちょっと休憩」

いつの間に開発室から出てきていたのか。思わず諏訪さんとそろって肩をびくりと震わせた。苗字さんは腹に一物ありそうな笑みを浮かべて諏訪さんの肩を抱き寄せる。

「三人で仲良くなにしてるのかと思って見に来たら、後輩になに吹き込んでんの」
「見りゃ分かんだろ、苗字さんの陰口だよ」

当人の登場に驚きこそすれど、悪びれずに諏訪さんは答えた。顔をしかめて自分の肩に添えられた苗字さんの手を払いのける。

「ひどいなあ。俺、諏訪くんに嫌われるようなことした?」
「大学のとき、諏訪の彼女と寝てましたよね」
「そうだっけ」
「そうだよ。なに忘れてんだ」

自分のしでかしたこともすっかり忘れて頭上にはてなを浮かべる苗字さんに、諏訪さんは肩パンをする。いやどう見ても仲良しでしょあんたら。

「痛い、痛いって。……あー。あれはさ、違うじゃん、あっちの方から誘ってきたんだもん」
「俺の彼女なのは知ってたよな?」
「でも断ったら女の子に恥かかせちゃうしさ」
「まあ付き合ってすぐにそういう子だって分かって良かっただろ」
「雷蔵お前どっちの味方だよ」

なるほどそういう経緯があったのかと、聞いているだけの俺は無言で納得する。とはいえそれでよく諏訪さんは苗字さんと軽口を叩ける仲になれるものだ。彼を恨んだところで生産性はないからか、自分の女運の無さを嘆いているのか、はたまたその両方か。

「それより苗字さん、水上待たせてんだろ? 早く終わらせてやれよ」
「え? ああ、そうだったそうだった。悪いね水上くん。もうちょっとだけ待っててよ」

思い出したかのような口ぶりで、苗字さんは俺に声をかける。というよりも、実際まさにたった今俺との約束を思い出したのだろう。すこし恨めがましく思いながらも、「かまへんけど」と返事をする。

「水上お前、悪いこと言わねえから帰った方がいいぞ……」
「どれくらいで終わるんですか」

急かすことも具体的な時間を聞くこともできない俺に代わって、寺島さんが質問する。苗字さんは腕にしているスマートウォッチを見て、うーんと少し考えこんだ。

「夜明けまでには終わらせるよ」
「ほんとふざけてんな」
「待っててくれる? 水上くん」
「待っとりますよ」

健気に良い子に待っているとも。ふたたび約束を忘れられようと、有明の月が見えようと、仕事を終えてここを出るときに捕まえればいいだけの話だ。自分は、逢瀬の約束をした男をただ待つだけの平安貴族の女ではないのだから。
良い子だね、と苗字さんの手が俺の頭を撫でる。人よりボリュームのある毛髪のせいで手の感触はほとんど伝わらなかったが、満足そうに彼は微笑んでひらりと手を振ると、開発室へと戻っていった。



「……なあ水上」
「なんです」
「お前らまさか、そういう関係じゃねえよな?」
「まさか。んなわけないでしょ」
「諏訪、失礼すぎ」
「だよな、悪い」

諏訪さんは脳に浮かんだ最悪の可能性を、頭から物理的に払うように手のひらで顔を覆いながら首を大きく横に振った。
まさか、そんなわけがない。彼が邪推しているような関係ではない。望んだところで、まだそんな関係にさせてもらえてはいないのだから。

「そもそもお前と苗字さん、何つながりだよ」
「モテる秘訣でも教えてもらえんかなあと思ってんですよ」

まさか口説き落そうとしている最中だとは言えないので、へらへらと軽口を叩いて誤魔化す。日頃から適当なことを言っている嘘つきぶりが功を奏したのか、彼らは深く追及してこなかった。

「水上が苗字さんみたいになったら、生駒泣くよ」
「どうせならイコさんにも教えたって、女泣かせの部隊でも目指しましょか」
「隠岐だけで十分だろ」

諏訪さんは鼻で笑ってそう答える。彼らはこのあと一緒に飯に行くのか、ラーメンだの居酒屋だのの候補を挙げ始めた。
じゃあ早く帰れよと言い足を進めた諏訪さんに生返事を返して、まだこちらに目を止めたままの寺島さんに首をかしげる。

「どないしたんです?」
「気をつけなね」
「は?」
「あの人、人の人生弄ぶの大好きだから」
「…………肝に銘じときますわ」

彼の発言に、思わず口角がひきつる。全てではないだろうが、いくらかはバレているのだろう。

最後まで言い出せはしなかった。言えるはずがなく、言うつもりもなかった。
自他ともに認めるあのクズに惹かれてしまった不特定多数の人間に、自分も含まれていることも。実際に、『めちゃくちゃ上手い』という噂は、本当だということも。すでに彼に弄ばれて、手遅れだということも。

彼らが廊下の角を曲がり姿が見えなくなるのを待ってから、長いため息をついた。彼が先ほど触れた、自分の髪をくしゃりとかき混ぜる。そら待ちますよ、あんたが待て言うんならいつまでも。
このあとの『約束』を想像して、身体がほんの少しだけ、熱くなる気がした。