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そうしてナマエは人間を一人、壊した。やろうと思えば殺すことだってできただろう。ただしそれでは自分はどこか遠くに移されて、形兆と会えなくなってしまう。それぐらいにはナマエの頭でも理解出来た。だから何もしなかった。部屋の隅にうずくまって嗚咽ともしれぬ音を出している男には注意を払うことなく、普段は母親とその男だけが使っていた冷蔵庫を開けて、中の牛乳を飲み干した。初めて開けたその箱の中には、ナマエが虹村家でしか食べたことがなかったようなものが沢山詰まっていた。

「・・・なぁにしてんの?」

空になった牛乳のパックをそのまま冷蔵庫に戻して、卵を一つだけ取り出した時、玄関のドアが開いた。男の名前を呼びながら、部屋の中に入ってきた母親が、冷蔵庫に触れているナマエを見て一瞬怒ったような声を出し、その後に、男の姿に気がづいた。

「なに?このおっさん、勝手に人んちに入ってきて漏らして・・・あんた止めなかったの?」
「・・・・・・」
「あ、そこ、掃除しといて。サツ呼んで引き取ってもらうから」

自分の恋人だったはずの男を一瞥して、母親はそういった。ナマエも止めなかった。ただ、母親と会話をしたのは随分と久しぶりのことだと思った。こちらに母親が注意をむけていることも、ずいぶんと久しぶりで、それは母親が男を認識していないからだろうか。今思えば、母親は常にその男と共にいたのだった。

「・・・てか、タカシは?玄関に靴あるから、帰ってきてんでしょ」

誰かと電話で一方的にしゃべっていた母親が、電話を切ってナマエにそうたずねてきた。タカシは男の名前だった。手にもった卵を握りしめながら、ナマエはどう答えたらいいか迷った。男はすぐそこにいて、狂ったように何かをつぶやき続けていた。それを母親に言って、信じてもらえるだろうか、それとも笑われるだろうか。男にたばこを押し付けられて、泣く自分を笑いながら見ていた母親の目を思い出して、背中に汗が伝った。

「ま、いいか。サンダルでどっかでかけたんだろ」

そう迷っているうちに母親は勝手に結論を出した。貸して、と言われて手の中の卵をひったくられる。台所に向かった母親の姿を目で追っていると、あと卵を2つもってきて、と声が飛んできたので慌てて冷蔵庫を開けて母の元へと走った。

「あんがと。あ、皿用意しといて。タカシいねーし、あんたも食べな」

今までのことが嘘だったかのように、自然に母親はナマエに向かって礼を言った。ちら、と視線を向けられて、体が硬くこわばった。しかしその目は今までの、道端に落ちている塵や、虫をみるような無機質な瞳ではなかった。しっかりと自分のことを見ているのだと理解して、ようやく少しだけ、肩の力が抜けた。

「座れば?」

目玉焼きを二つ乗せた皿を手に、どこに行けばいいかわからなくて立ち続けていたナマエに、母親が目の前の席を指さした。そこはいつも男が座っている席だった。恐る恐る腰かけて、手渡されたソースを目玉焼きにかけて、でもそれは手が震えていたからいろんなところに飛びちった。仕方がないなというような顔をした母親が、ティッシュでそれをぞんざいに拭いた。その行動のすべてが信じられなくて、呆けた頭で目玉焼きを食べても、味はわからなかった。記憶に残る限り始めて食べた、母親の手料理だったからかもしれなかった。


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