万事屋の鋭い視線に、俺は怯んだ。どういうわけか、後ろめたいと感じた。理由は全くわからない。斬り合いであれば初太刀で殺られていただろう。

 万事屋はさりげなく女を後ろに庇った。そして俺から目を離さず睨みつけながら、じゃ、またな、と女に向かって優しい声をかけた。なんだそれ一発芸か。笑いながら怒れるヒトなのかお前は。それに今日だけにすんじゃねーのかよクソ天パ。

 朝早いから辺りには殆ど人がいない。俺たちが向き合ってることに苦情を申し立てる者もいない。

 ここにいれば万事屋の餌食になりそうだ……ああ、そうでもねえか。関心なかったんだったな。大方女の顔を見られて怒ったとか、そんなんだろう。
 衝撃の正体は、女が立ち去ったことで少し見えてきた。


 テメェ、ミツバは?


 そう言われても万事屋には関係ない。たまたまミツバが最期の時間を過ごしたのが万事屋だったのであって、万事屋は仕事をしたに過ぎない。ミツバの墓参りをしたからといって、あの男とミツバに何があった訳でもない。
 なのに俺には衝撃だったのだ。
 お前はミツバを忘れたのか、と。

「言いふらしたりしねえよ。安心しろ」

 声が震えないように、あらゆる筋肉を使って注意深く俺はヤツに話しかけた。

「何を……ああ。どうも」

 万事屋は万事屋で、何かを堪えているようだが俺の知ったことか。ただ、次のひと言は引っ掛かった。

「俺は言いふらしちゃうかもよ。副長サンの朝帰り」


 真っ先に浮かんだのは、何故俺が朝帰りしちゃいけねーんだという単純な疑問だった。テメェも朝帰りだろうが。下半身事情は似たようなモンだろ。きっかけは同じじゃないとしても。
 そして次に、やっぱりコイツ少しは俺に関心があるのだろうかという微かな望み――微かではあったが、確かに望みが起きた。

「俺ァたいして困らねえが、テメェはなんか疚しいことでもあんのか」

 言い返してやると、奴は一瞬キッと片眉を跳ね上げたがすぐにそのまま眉を顰めた。

「俺も困らねえ。けどおめーは……悪いこた、してねえよな」

 それから万事屋は一人考え込んでしまった。俺が目の前にいることも忘れたらしい。まあその程度だろうな。とはいえ今のは何だったんだろう。女との関係を隠したかったのか、女そのものを隠したかったのか。どっちにしろそれにしては連れ歩き方が不用意だ。
 奴の仕事の部類か。もうひと言ふた言、万事屋から引き出せば真相がわかるかもしれない。


 と思ったところで我に返った。
 真相なんぞ知ってどうする。万事屋にとってはミツバも、ただの依頼主だったということだ。あるいはもう少し思い入れがあったかもしれないが、俺は何を思ったかこいつはもう少しミツバを大事にしてくれるんじゃないかと勘違いしていた。だが現実は俺が思うほどヤツにとってミツバは大切じゃなかった。それは当たり前のことであって、万事屋を責めることでもない。

 だが俺はなぜか、何か途轍もなく大きな物を失った気がしてならない。
 今度こそ万事屋と俺の間には、なんの関係もなくなったような気がして。


「じゃあな。帰るわ」


 万事屋は結局最後まで不機嫌な顔を崩さなかった。きっと俺の、ミツバへの裏切りに憤ってるんだろう。
 でもな、万事屋。
 俺はずっと前からこんな調子だ。
 ミツバが生きていて、俺が武州にいた頃からずっと。
 お前も近藤さんたちと同じだろうな。俺がミツバに一途だったとなぜか思い込んでいる。
 一途だったことを否定はしない……だが、彼女は美しすぎて俺が触れていい人ではなかったのだ。考えることすら罪な気がして、目が合えば申し訳ないと思い、俺は意気地なく影から彼女を見守ることしかできなかった。
 だからこそ、生身の万事屋がミツバを救ってくれればと願ったのだ。意気地ない俺の代わりに、ミツバを守って欲しいと。


 しかしそう上手いこと世の中はいかない。
 今だからこそそう思えるのであって、当時は違った。覚えている。ミツバが倒れた時、俺は手を伸ばそうとした。だが意気地なしの俺はとっさに動けなかった。動いたのは万事屋で、気づけばヤツはミツバを抱え、血痰で窒息しないように処置していた。万事屋の着物が汚れるのを気にするミツバに、いいんだよと言って笑って取り合わなかった。ミツバにしてみればどんなにこころ強かっただろう。入院後は煎餅を届けたり話し相手になってやったり、ミツバはいつでも笑っていた(と山崎が言ってた)。

 その位置は本来なら俺のものだった。だがそんなことはいいのだ。自分から手放したのだから後のことをとやかく言う権利もない。
 あのとき山崎を引き摺って帰りがてら、一瞬だがミツバと目が合ったのを覚えている。そしてそのことに胸が熱くなり、同時に痛んだことも忘れてはいない。
 なのに俺はもう、その熱さや痛みを再現することができないのだ。そう感じた事実は忘れなくても、感触を思い出せない。
 これが俺の冷ややかさだ。俺が万事屋に、人間として及ばないところだ。ミツバが万事屋に関心を寄せるのは無理もない。だから万事屋に救って欲しかった。あの美し過ぎる人を。ヤツなら安心だと思った。胸のあたりがチク、と痛んだがそれはミツバに長年懸想していたのだからやむを得まい。実らせるつもりもない。ただ幸せになってほしい。それだけだ。


 俺はその足でミツバの墓へ行った。浮気、というのはこの場合当たらないと思う。俺ときたら、墓石にすら触ることができない。線香をあげるでもなく、ただ墓前で煙草を吸う。これでミツバに寄り添えたのだろうか。わからない。が、俺自身はかなり落ち着いた。屯所に帰っても勘のいいヤツにああだこうだとつきまとわれない程度には。


 万事屋に見られたら、とわずかに考えたが、俺は頭を振って無理にその思いつきを消した。
 関わり合いのない男が何を考えていても、俺には関係ない。

「またな」

 とミツバの墓に告げて、俺は屯所へと足を向けた。



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