「君がこの日を忘れぬように」


「塔矢ぁ!ハッピーバースデイ!!」
パァン!!と碁会所にクラッカーの音が響く。
その音に合わせ何人かがパチパチと拍手をするが、その顔はどことなく浮かない様子だ。
それは受付にいる市河も同じようで、入ってきたアキラに小さく「いらっしゃい」と声をかけながら、苦い笑みを漏らす。
「えっ…と。あ、ありが…とう?」
アキラはと言えば、室内に入った途端のクラッカー音と周りの空気についていけず、とりあえずヒカルの言葉にそう返してみた。
するとヒカルは途端に不服そうに頬を膨らませ、
「なんだよせっかく祝ってやってるのに、もっと嬉しそうにしろよぉ」
つまらないとばかりに椅子にドカリと腰かけ直す。
まったくもって訳が分からない。
「あの…市河さん?」
たまらずアキラは市河にヘルプを求めた。
いったいこの状況は何なのか。
どうしてヒカルはあんなに拗ねているのか。
「ほ、ほら、今日はアキラくんの誕生日じゃない?」
あまりに必死の形相でアキラが見てくるので、市河は若干体を後ろに引きながらアキラの問いに答えるが、
「え?誕生日?」
当の本人はそれに首を傾げた。
「ほら見ろ。塔矢は絶対に忘れてるって言ったじゃん!」
そんなアキラに、ヒカルが再び立ち上がって周りに抗議を始める。
「俺が悪いんじゃない、忘れてた塔矢が悪いんだ!」
「なに言ってんだ、本人が覚えとらんかったら余計にこっちが覚えてなきゃならんだろうが!」
そのまま常連の北島と言い合いを始めたヒカルに、やはりアキラは置いて行かれたまま呆然とそれを眺めるしかない。
「ごめんねアキラ君。誕生日にごたごたしちゃって」
市河が改めてそう謝ってくるのに、アキラはそこでようやく合点がいったように頷いた。
「ああ、そう言えば、入ってきた時に進藤がハッピーバースデーって…」
クラッカーの音と場の雰囲気に飲まれて思考が停止していたが、ヒカルが確かにそう言っていた事を思いだす。
そうか。今日は自分の誕生日だったのか。
そしてヒカルはそれを祝ってくれたらしい。
気付かなくて大変申し訳ないと思いながら、しかしそれでどうしてヒカルと北島は口論をしているのだろかと首を傾げた。
常からアキラ贔屓の北島だ。アキラの誕生日を祝うと言うのなら、喜ぶところだろう。
なのになぜ、こんなに険悪なムードになっているのだろうか。
「ああ、うん。それなんだけどね…」
何か訳を知っているのか、市河が言葉を濁す。
アキラは構わないから話してくれと市河を促した。
二人を止めるヒントが、そこに隠されているかもしれない。
ていうか怒鳴り声がうるさい。早く止めに入らなくては。
市河はそうね…と頷いて、しかしどこから話せばいいのやらと息を吐く。
すると見かねた様子で広瀬がカウンターにやってきた。
「いや、はや」と市河と同じように困った笑みを浮かべて、市河の代わりに事の顛末を話し始める。
「今日はね、アキラ先生の誕生日だからと、みんなでお祝いの準備をしていたんですよ。きっと先生は碁会所に来てくださるだろうと思ってね」
「はあ…」
まぁ確かに、仕事や遠征が入ってなければほとんどをこの碁会所で過ごしているアキラだ。
今日も仕事帰りに、いつもの習慣でここに立ち寄った。
ここにくれば高い確率でヒカルに会える…という下心も確かにあるのだが…そこは敢えて伏せておく。
それにしても、まさかみんながそんな用意をしていてくれたとは思ってもいなかったアキラは素直に感動した。
少しの恥ずかしさはあるが、祝ってもらえることは嬉しい。
むしろ自分が忘れてしまっていて本当に申し訳ない気持ちだ。
「でも、それにしてはおかしかったですよね…」
みんなが祝いをしてくれようとしていてくれたなら、場はもっと華やいでいたはずだ。
けれどもアキラが入ってきた時には、そんな賑やかさはひとつもなかった。
唯一の賑やかしはヒカルがクラッカーを鳴らしたくらいだ。
とてもこれからお祝いをしようとしているムードではなかった。
何より、アキラの誕生日となれば一番に声を上げそうな北村があの調子である。
と、そこまで考えてアキラは察した。
「…進藤が…何かやらかしましたね?」
確信を持って市河と広瀬を見れば、
「さすがアキラ君ね。その通りよ…」
コクリと頷いた市河に、アキラは深く息を吐いた。
ああ、今日はいったい何をやらかしたのか…
北島の怒っている姿から連想するに、かなりの失言をしたか、それとも悪ふざけが過ぎたのか…
恐る恐る尋ねてみると、
「ちょうど頼んでいたケーキが届いたタイミングで、まるで見計らったみたいに進藤君が来てね…」
「そのケーキを、進藤君が食べてしまったんですよ」
「……」
ははっと広瀬が困ったように笑うが、その場を思うと笑い事ではなかったのだろうと想像はできた。
きっと北島をはじめ、ほぼ全員がヒカルを責めた事だろう。
けれどもヒカルの事だ。
最初は謝っていたとしても、次第に逆切れした可能性が高い。
「そうそう。どうしてくれるんだって怒鳴る北島さんに、進藤君ったら、塔矢の物は俺の物だからいいんだとか言い出して」
「進藤…」
二人きりの時にそれを言われるのは嬉しいが、この場では確実に火に油の状態だ。
「それにね、進藤くんったら、アキラくんの誕生日を覚えてなかったのよ」
「え?」
仕方がない、ここはヒカルの代わりに自分が謝ろう。
そう思ったアキラだったが、しかし市河のその言葉を聞いてピタリと動きを止めた。
「え…、今、なんて…」
何か、とんでもない事実を聞いた気がするが、気のせいだろうか…
「しかも、どうせ本人も忘れてるだろうから大丈夫だとかいいだしてねぇ」
困ったもんですとポケットから取り出したハンカチで広瀬が額を拭う。
ああ、間違いない。
聞き違いでもない。
(進藤…、君、僕の誕生日を忘れていたのかい?)
途端にアキラの目の前が吹雪に変わった。
もちろんイメージではあるが。
それほどの衝撃がアキラを襲う。
まさか恋人に、誕生日を忘れられていたなんて…
(いや、僕も自分の誕生日の事は忘れていたけれど…)
自分の事は確かに忘れていたが、けれどもアキラはヒカルに関する事は覚えていた。
誕生日はもちろん、あらゆる記念日を棋譜のように完璧に脳内にインプットしている。
いやむしろ棋譜よりも正確に覚えているほどだ。
「そうしたら、案の定北島さんがそれでさらに怒り出して…」
広瀬がまだ話を続けているが、残念ながらもうアキラの耳には届いていない。
ショックで放心しているアキラに、しかし広瀬はさらに追い打ちをかけた。
「それで今度は進藤君が、誕生日を教えなかった先生が悪いんだから自分は悪くないって主張を始めてね」
困ったもんだよ、私も止めに入るのが精いっぱいで…
広瀬の話はまだまだ続く。
「それでいっちゃんがなんとか二人をなだめて、皆で一緒にお祝いしようって事になったんだけど…」
さらに市河がうんうんと広瀬の話に合わせて相槌をうち、
「だったら俺が先陣切っておめでとうって言う!って、直前まで忘れてたくせに、進藤君が急に張り切りだして」
ああ、その時の状況が目に浮かぶようだ。
「でも、誰も一番に言いたいでしょう?そこから、誰が一番に先生に「おめでとう」を言おうか話し合っている間に先生が来て…」
「で、みんなが一瞬戸惑っている隙に、進藤君がクラッカー鳴らしてお祝いを言っちゃったわけ」
場の空気を読まないと言うか、心臓が強すぎるというか…
「進藤…」
ひとこと言いたい
進藤、君は馬鹿か…
いや、そこが可愛いところでもあるのだけど…
「そんな訳でアキラ君。来てそうそうアレなんだけど、これじゃあお祝いどころじゃないから、あの二人、止めてもらってもいい?」
もう自分たちでは止められそうにない。
この場は全て、アキラに任せた。
市河と広瀬が懇願する。
それは他の者たちも同じようで。
「アキラ先生、頼むよ…」
「このままじゃあ埒があかないよ」
客たちがこぞってアキラに止めてくれと頼みだした。
そんな中、渦中の二人はと言えば、なぜか今度は誕生日ケーキはショートケーキかチーズケーキかで言い争っている。
心底どうでもいい。
というか、もう論点がずれまくりだ。
(仕方ない…)
アキラは二人に向かって歩き出した。
コツリコツリと靴音を立て、徐々に二人の傍へと近づいていく。
…なぜだろうか…
静かに二人に向かって歩いていくアキラの姿が、市河と広瀬にはなぜか般若が歩いているように見えた。
「アキラ君…もしかして怒ってる?」
ひそひそと市河が広瀬に囁く。
「そ、そうみたい…だね」
額にいっぱいの汗をかきながら、広瀬は背を震わせた。
もうハンカチはビショビショだ。
「進藤」
怒鳴り合っている二人の真横で足を止め、アキラが小さくヒカルの名を呼ぶ。
瞬間、ヒカルは何かを感じ取ったようにピタリと口を紡ぎ、アキラの居る方へ向きを変えた。
「な、なんだよ…」
「こ、これはアキラ先生…」
怒鳴るのを止めたヒカルに、北島も気付いてアキラを見る。
(あ、怖い…)
どうしたことだ。アキラの顔には笑顔が浮かんでいるのに、恐怖を感じてしまう。
「で、ではあっしはこれにて…」
なぜか時代劇風の言葉になって北島はそそくさとその場を退いた。
「おお、さすがアキラ先生。一言で喧嘩を止めたぞ」
さっさと壁際に逃げる北島を見て呑気な客たちはアキラを褒めるが、恐怖を目の当たりにしたヒカルたちやアキラの気性を知っている者たちにすればアキラが笑顔であればあるほど怖いだけだ。
出来ればヒカルもさっさとこの場を逃げ出したい。
こんな顔をしている時のアキラは実に危険だ。
わかってはいるが、足がいう事を聞かない。
(の…飲まれてねぇぞ。絶対に俺は悪くないし、負けねぇ!)
ともすれば震えそうになる足を、ヒカルは叱咤した。
後から思えば、どうしてここで負けず嫌いに火をつけてしまったのかと思う。
素直にごめんと謝っておけば、この場はきっと丸くおさまった。
しかしそれができないのがヒカルである。
反発心がムクムクと育ち、結果正面からアキラと対峙する事になった。
「俺は悪くねぇ」
ボソリと呟いて、アキラを睨み付ける。
するとアキラは、
「そうだね。悪いのは僕だ。言わなかった僕が悪い」
あっさりとそれを認めた。
認めたが…顔は怖い笑顔のままだ。
「ねぇ市河さん、せっかくの皆からの好意だけど、みんなとのお祝いは明日にしてもらってもいいかな?」
ガシリッとアキラはヒカルの腕を掴んだ。
もちろん、逃げられないようにするためである。
ヒカルは察した。逃げ道を塞がれたのだと…
(やばい…!!)
気付いたがもう遅い。
「塔…矢?」
グッと腕を引き抜こうとするが、その細い体のどこにそんな力があるのかビクともしない。
「今日と言う日を忘れないようにするために、進藤にはちょっと体で覚えてもらおうと思って」
「え?いや、あの遠慮します!」
何を言い出すんだこいつ!!
途端にヒカルの顔が真っ赤に染まった。
だがアキラは止まらない。
そのままヒカルを連れて出口へと真っ直ぐに歩いていく。
他の者たちは口を挟むこともできずにただただ二人を見送る事しかできない。
分かっている。
ここで声をかければ、あの恐怖の目が自分に向けられてしまう事を…
「忘れられない一夜にしようね?進藤。そうしたらきっと、ずっと忘れないから」
忘れられない一夜ってなんだ…。
聞きたいが、これもきっと聞いてはいけない…
「あの…塔矢?もしかして…すごく怒ってる?」
ズルズルと引きずられて歩きながら、それまでの強気を根こそぎ剥がされたヒカルが弱々しくアキラに尋ねる。
「いいや?怒ってないよ?」
アキラは即答するが、明らかに嘘だ。
「嘘だ!目が笑ってない!!絶対怒ってる!!」
「いやだなぁ進藤。悪いのは僕だよ?怒るはずがないじゃないか?」
「いや絶対に嘘だ!分かった!来年からは忘れない!絶対に忘れないから!!」
「ああ、それは嬉しいな。だったら、君からの特別なプレゼントを貰わなくちゃね。君にしかできない、最高のプレゼントをね」
「いや、あの…!!」
「それじゃ市河さん。また明日」
アキラが爽やかに笑いながら手を振って笑って市河に告げた。
「あ、ああ、うん。またね、アキラくん」
市河も、もう何も突っ込む気になれずそれを見送る。
通路に出た所でヒカルが思いだしたように「離せ」だの「鬼」だのとアキラに向かって怒鳴りつけていたが、きっとその手はアキラが目的地にたどり着くまで離れることはないのだろう。
「進藤君…生きて」
思わずボソリと呟いた。そのまま自然の流れで合掌する。
「さて。それじゃお祝いは明日にするとして、今日はもう店を閉めてもいいかしら?」
一礼を終えクルリと振り向いた市河に、意義を唱える者は誰もいなかった。
早く家に帰って今日の記憶を消したい。
思いはみんな、一緒である。

その翌年から、ヒカルはきっちりとこの日にはプレゼントを用意するようになったらしい。
兄弟子である緒方が、生暖かい目をしてそう語った。

(終)

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