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「なんだ、もしかして初めてなのか?」
「……っ」
「ふぅん……そりゃあ、さすがにまずかったか? ま、少しくらい羽目を外したほうが楽しい思いができるってもんだ」
 からかうようにするり、するりと嬲る指先に抗った手が、何かにぶつかり、がしゃ、と派手な音を立てた。
 硝子の、猫。
 マクシミリアンが弄んでいた、小さな硝子の置物だ。
 それを掴むと、飛は力任せに傍らの卓子に叩きつけた。
 開いた指の間から、硝子の欠片と共に丸い粒がぱらぱらと零れ落ちる。

 阿片――

 砕けた硝子がてのひらを傷付けた、その痛みに助けられて、飛は相手を睨む瞳に力を込める。
「羽目を外して楽しめ、と……?」
 無責任な言いように、ぐつぐつと腹が煮えるような怒りが湧く。
「あんたにそうして誘われなければ……余計な苦痛を舐めずに済んだ者もあったはずだ」
 阿片をぐ、と握りしめ、無理やりに身体を起こす。手指を伝って流れた血の色が寝台を汚した。
 その赤色に怯む男の手を、飛はぴしゃりと払いのける。

 誘惑に乗ったことについては、当人にも責任があるのかもしれない。あるいは誘われずともいずれ自ら手を出していたかもしれない。阿片が金を生む以上、他人を不幸に陥れてでも売り付けようとする輩はいくらでもいるだろう。この男一人を責めたところで、どうなるものでもないのは分かっている。
 だとしても、親切面をしながら他人を闇に誘い込もうとする行為を許すことなどできるはずもない。
「俺の目の前で……この街に、こんなものを持ち込ませはしない」



 いまさっきまで快楽に溶けようとしていたはずの漆黒の瞳が、強い光を宿しておのれを射るさまを、アランは驚きを込めて見つめた。
 まるで本土居留区の夜のような深い闇の色。
 けれど、まっすぐな眼差しはどこまでも澄んで深い。

「怖い番犬に噛み付かれたようだな」
「……ああ。すっかり思惑が外れた」
 いつからそこにいたのか、油断がならないのは相変わらずだと苦笑して、アランは戸口に立って冷笑を浮かべる古い知り合いを見返した。
「お綺麗すぎておまえには物足りないんじゃないかと思ってたんだがな……」
 乱れた黒髪に触れようとした手をぴしゃりと拒まれて、惜しい、と、指先がしばし宙を迷う。それを知ってか知らずか、マクシミリアンがくく、と喉で笑った。
「おまえが他人を羨む性質だとは知らなかったぞ」
「は、まったくだ」
 はたして、羨んでいるのは、上等の珍珠を得た昔馴染みであるのか。それとも。

 思えば、ずいぶんと自分らしくない真似をしたものだ、と、自嘲をしたのはこれで二度目。こいつと関わったばかりに、と後悔したことを忘れたわけではなかったはずが、四龍島西里の領主の名を聞いてつい、挨拶に立ち寄ってみようなどという気紛れを起こした。
 毒を仰ぐことにも、身を傷付けることにも無頓着で、愚かと知りつつ虚しい遊びに手を伸ばしていたあの子どもが、いったいどんな顔で『龍』なぞをやっているのだろうか、と。
 幼かった彼を罠に誘い込んだのは自分であったから、助けてやったなどとは口が裂けても言えないが、それでも閉じかけた網から逃がしてやるについてはそれなりの無茶をしたものである。
 願わくばおのれとは異なる明るい道を、と、考えなかったわけではない。
 だが同時に、それが本当に叶うとも思っていなかった。
 だから島への船に乗ったのだ。
 見えた『白龍』が、昔と同じ飢えた瞳をしていたなら、いったい自分はどうしていただろう。

 けれど、もう考える必要もないことだ。彼はもう、アランの知る少年ではないのだから。

「仕方ねえ。おまえの怖い番犬の目は盗めそうもないからな、本業の方は諦めるさ。ただ、表向きの商売については考えといてくれ」
「いいだろう」
「取引はうちの下の連中に任せる。どの道、俺とはもう会うこともないだろうが……ま、そんなことを寂しがってくれるようなおまえじゃねえよな」
「ほう。わたしに寂しがってほしかったとは、意外」
 ただの皮肉なのか、案外に本気で言っているのか分からないそんな台詞に、苦い想いが込み上げるのをアランは苦笑ひとつで誤魔化した。
 じっとこちらを睨んだきりの若者をちら、と見て、
「手強いお嬢ちゃんだが、おまえには似合いかもな」
 まあ上手くやれよ、と昔馴染みの肩を小突いた。

 別れは二度目。だが、おそらく二度と顧みることはない。



 人騒がせな男が立ち去った後。
 仮にも知り合いである相手を見送る素振りすら見せず、マクシミリアンは荒い息を吐いて寝台に手を着いた飛を見下ろした。
「いかにも危うげな男を相手にこんな油断をするとは、随分と優秀なことだな、花路の頭」
 つい、とくちびるに触れれば、射殺しそうな視線を向けられる。
「危うく貞操を奪われるところだったぞ」
「……あんたに、それを咎められる筋合いはない」
 いったい、アランに何を吹き込まれたものか。苦しげな呼吸の下から、それでもなお強い語気で吐き出される台詞に、マクシミリアンが、くっくっ、と嗤う。
「なるほど。それで大人しく組み敷かれたわけか、おまえは」
「……っ」
「そんなことで、わたしを捉えられると思うのか」
 どうなのだ、と責めれば、飛が、ぎり、とくちびるを噛んだ。
 震える肩を掴んで、熱を孕む身体を寝台の上に抑えつけ、脅すように首筋にくちびるを寄せる。
「花路の“龍玉”……おまえのその役目を、甘く見てもらっては困るぞ。誰にでもできるようなやり方で、このわたしを繋ぎ止めておけると思うのなら、早々に考えを改めることだ」
 おまえに楽はさせてやらん。
 酒に酔い痴れ、薬に溺れ、快楽に身を任せるなど、簡単なこと。
 それらは容易く人を惑わす甘い毒だ。
 けれども、抗えるはずがない、などと、無様に諦めるさまを見せるなよ、と。「おまえが気に掛けるのは、その目に映るわたしだけでいい」
 だからいちいち余所見をするなと言い聞かせて、深い闇色の瞳を手のひらで覆う。
「余計なことを考える暇があるなら、わたしを愉しませることだけを考えていろ」
 細い顎を捕らえて、噛み付くようにくちづけた。
「ん……ぅ」
 普段ならばおとなしく受けるはずもないものを、なす術もなく受け入れて、息苦しさに喘ぐ。
 ぎこちないながらも応えてくるのが、おそらくは無意識。寝台の布をもどかしげに引き掻き、互いの隙間をわずかでも埋めようとするかのように懸命に身体を預けてくる。
「……おまえがそうしてわたしに縋ってみせるのは、あの男に飲まされた酒のせいか」
「マ、ク……」
「この場にいたのが他の誰でも、おまえはそんな顔を見せるのか」
「っ、ちがう!」
「では、なぜわたしにこんな真似を許す」
 似たような機会ならば、これまでにもあったはず。
 そのたびごと、情欲なぞ知らぬげな顔をしてきたものを、なぜいまに限って受け入れるのだ。
 それは、薬に侵され持て余した身体を、都合よく慰められたいからではないのか、と。
 そう責めると、飛が身体を震わせ、息を呑んだ。
 やがて、震える指がマクシミリアンの袍の胸元を握り締めて、
「……違う、マクシミリアン」
 自嘲するように、途切れ途切れの笑い声をこぼし、快楽に歪むくちびるで、飛は吐き捨てた。

「あんただからだ……」


 ままならない欲に身を喰われたからといって、あの男に触れられることを望みはしなかった。それでもしばし迷ったのは、あんたと少しでも近く――かなうのならば同じ場所にありたいと、願ったから。
 あの男の手があんたに触れたのだと聞かされて、たぶん、彼の持つあんたの欠片を奪ってしまいたいと思った。

 奪ってでも欲しいのだ、と。
 欠片でさえも、余人に渡したくはない、と。
 そんなふうに思うのは、たった一人。

 すべてを手に入れても、きっと足りない。
 たとえ互いの胸に刃を付き立て、相手の命を得たとしても、決して満たされはしないだろう。けれど、いっときでもあんたが俺のものとなり、あんたが俺を手に入れたと思えるのなら。
 そんな不確かな証でさえも、得られるものなら少しも余さず掴んでおきたいのだと、こんなときになってようやく気が付いた。
 遅いと詰られても仕方がない。
 それでも、こうして得た答えは、きっと間違いではない。
 欲しいのは慰めなどではなく、

「あんたが。……欲しいと、思うからだ」

 襟を引き寄せ、形よいくちびるに噛み付くと、マクシミリアンが目を瞠る。
 互いの吐息を感じるほどの距離で、冷たい銀灰の瞳の奥に炎を見たと思った。

 まるで、蜜に誘われる虫のような。

 抗いがたい誘惑に駆られて、くちびるを重ねる。
 触れたそばから手荒なやりかたで呼吸を奪われる。
 折り砕く気かと詰りたくなるほどに強く背を抱かれて、

「……――飛蘭」

 初めて聞くような、その声音。
 あんたらしくもない、と嗤おうとして、胸苦しさに息が詰まった。嗚咽にも似た喉の震えに、情けなく声が揺らぐ。
「……待たせた。すまない」

 再び口を塞がれて、のしかかってくる身体に腕を回した。
 首筋をきつく吸い、胸元に噛み付き、薄く色づく先端を舐って、少しも足りない、とマクシミリアンが飢えた瞳を向けてくる。
 昂ぶったものに指を絡められ、熱い舌に強引に快楽を注ぎ込まれて身悶える。
「ぅあ……ッ! あっ、ああ……――」

 自身でさえ触れたことのない身体の奥を、指先で弄られて、
「ッ、ふ――く、ん、ンっ!」
 不快なはずのその感覚をひどく甘いと感じるのは、薬のせいであるのか、それとも。
「……マ、ク……」

 いま、このときに、俺も、あんたに、何かを与えられているのだろうか。
 そんなに苦しい顔をするくらいならば、はやく奪ってしまえばいいだろう。

 あんたは、馬鹿だ。
 俺がどう詰ろうが、勝手放題に街をかき回すくせに、なぜこんなことばかりは躊躇うのだ。

「は、やく……しろ……ッ」
「……花路――」


 この目から涙が零れるのは、身のうちに注がれたものが、胸をいっぱいに満たしてあふれるからだ。
 いまだけ身体を満たして消え去っていくはずのそれが、こんなにも熱く胸を灼く。

 ――あんたもきっと同じだろう。

 これが束の間の幻だと思うのならば、また何度でも満たせばいい。
 足りないと嘆くのなら、いくらでも求めればいい。
 ときに渇いて喘ぐ苦痛さえ、あんたがもたらすものならば、この身に抱えていたいと思うから。


*

 マクシミリアンが執務室に戻ると、本を片手に囲棋の盤を睨んでいた友人が、振り返って常にない顰め面をみせた。アランと顔を合わせるのは面倒だからと、このところはずっと自室に籠もっていた、クレイである。
「例のお客は帰ったのかい?」
「ああ」
 側の卓子で書類の整理をしていた万里が、主の茶の支度に立ち上がった。
「ようやく巣穴から這い出したか。わたしを置いて雲隠れとはつれないことだな、クレイ・ハーパー」
「おまえにだけは言われたくないね。まあ、今回ばかりはおまえの心配は微塵もしていなかったし……しかし、あいつとはいかにも性が合わなさそうだなぁ、あの花路の束ね役くんは」
 花路、という名に、ふ、と口元を綻ばせた友人に気付いて、クレイが途端に不安な顔になる。
「……どうしたんだい? なんだか見たことがないくらいに機嫌がいいみたいだけど」
 せっかく綺麗な夕暮れなのに、今夜は嵐でも来そうだよ、と。
 悪気のない悪態に、いつものような皮肉を返すでもなくマクシミリアンが呟いた。
「そうだな。雨にでも打たれれば、多少はこの妙な心持ちも落ち着くかもしれん」
「マクシム?」
 友の様子がいよいよおかしい、と気が気でない様子になったクレイと、窓の外に目をやったきり動かなくなってしまったマクシミリアンとに、万里が静かに茶を差し出した。
「明日の昼、本土へと発つ船の便があります。客人が舟票を求めたようですが、お見送りしてもよいかと、花路の大兄から連絡がありましたが、『白龍』」
「ああ……客が忘れ物など思い出して引き返さずに済むよう、よくよく注意して見送っておけ」
「はい」
「――花路の頭は、主の客が旅先で危ない火遊びなどしないようにと、随分気を張っていたようだ……疲れが溜まっているようなので、今夜は屋敷に留めて休ませると伝えろ」
「はい」
「それから、アラン・バートンの使っていた客房についてだが、明日の昼過ぎまではそのままに」
 掃除は後でいい。当分の間は人を寄せるな、という主の台詞に、執事が微かに眉を動かす。
「……はい」
 手早く書類を片付けながら、淡々と頷いた後、さりげなく万里が言った。
「それで、お客人のお食事の用意はいかがいたしましょう」

 客なら帰ったという話をしていたはずなのに、どういうことかと首を傾げたクレイだったが、

「いらん。どうせあれは、しばらく目を覚まさんだろう」

 友人が、あれ、などと呼ぶ相手はただ一人である。
 マクシミリアンの愉しげな含み笑いに、上機嫌の理由をようやく悟って、クレイはじわじわと頬を赤くする。
「っ……! まったく、彼には同情するよ」
 次に会ったらどんな顔をすればいいのかとぼやきながら、あたふたと囲棋の盤を抱えこんだ。
「手当たり次第にご馳走を食い散らかしてたおまえを、たった一人で面倒みなきゃならないなんてね。早々に音を上げて逃げ出さなきゃいいけど」
「さあ……早々に干上がって、音を上げるのはこちらかもしれんぞ」
 その品のない冗談に、なんとも言えない表情を浮かべて、クレイはため息をついた。
「まあ、ともかく……よかったじゃないか」
 
おまえには、身ぐるみ全部奪いにくるくらいの相手が、きっと似合いだよ。


<了>



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