「…ということは、迷子、ですか?」
「ぅ…、まぁ、そういうことになるな…」
何の疑いも浮かんでいない瞳で、真っ直ぐに見つめられ、思わず肩を竦める。
鉄柵の向こうの少女は、響架、と名乗った。
藍色に近い黒髪を引き摺り、同じ色をした瞳に少しの困惑を浮かべ、訪ねてきた。
―――貴女は誰ですか、と。
薄汚れた巫女装束のような着物に細い身体を包み、手足につけられた枷から覗く紫色の痣は、あまりに痛々しかった。
そしてこの少女、十六歳だと言う。
見た目は十二歳程の子供にしか見えない、が、幼い頃からこんな所に閉じ込められているというのなら、合点がいった。
「―――大丈夫、ですよ」
不意に彼女が口を開き、顔を上げる。
長い睫毛に縁取られた、綺麗といえる澄んだ瞳を見つめ返し、何が"大丈夫"なのか問い返そうとした。
瞬間移動同然にこの樅の木の中に迷い込み、聴こえてくる歌声を探していたら、響架の元に辿り着いたのだった。
歌声の主は、恐らく彼女。
彼女なら、何か知っているのではないかと、一瞬考えた。
「――何を根拠に、そんなこと……」
「大丈夫です」
響架は、微笑んでいた。
「今夜はきっと、―――朧夜、ですよ」
響架は、鉄柵越しに空を見上げた。
その言葉が何を意味するのかは、分からなかったが、彼女に釣られるように、澄んだ碧空を仰いだ。
「…咲喜」
「え?」
「まだ名乗ってなかっただろう?私の名だ」
「咲喜、さん?」
こてりと首を傾げて、慣れない様子で教えたばかりの名前を口にする。
ああ、そうか。
鉄柵を隔てる、目の前の少女は――――人の名を呼ぶことを、知らないのか。
「………」
「……?ど、どうかしました?」
突然黙り込んだ咲喜に、響架が心配そうに声を掛ける。
機嫌を損ねた、とでも思ったのだろうか。
「咲喜さん?あの…」
響架が身体を屈め、鉄柵越しに咲喜の顔を覗き込もうとした。
が、それより、咲喜が顔を上げる方が早かった。
今度は咲喜が、響架、という彼女の名を呼んだ。
「響架」
「ふぇ?は、はい」
間の抜けた声が出てしまったことを恥じるように静々と正座し直す響架に、思わず微笑む。
そして、真っ直ぐにその瞳を見つめながら、言った。
「…歌を、聞かせてくれないか」
「歌、ですか?」
「ああ、さっき歌っていた歌だ。…駄目か?」
「いいえ!全然!……って、き、聞いてたんですか………」
頬を朱に染め、顔を伏せる響架に、また口元が緩み、微笑が零れた。
不思議な少女だ。
天然で純粋で、その割りにふ、と思い出したように聡い部分を見せる。
響架は瞳を伏せ、口を開き、息を吸い込んだ。
先程まで話していた声とは全く違う。圧倒される歌声。
この華奢で細い身体のどこに、こんな力があるのか。
透明感と艶のある、凛とした歌声に、咲喜は聞き惚れる。
少しでも良い。彼女に、触れたかった。
それは、性質、と呼ばれる"何か"か。
実際のところ、咲喜にも良く分からない。
けれど、それでも良い。そう思えるのだった。
夜は、近付く。
そうして、彼女の言った朧夜は、少しずつ顔を出してきていた。
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