主人と伊都と他の客と、いつものようにくだらない談笑をしていると、あっという間に夜も更けていく。
 少しずつ客たちが帰り始め、店も徐々に静かになる。いつもは途中で帰る左近だが、今日は遅くまで残っていた。
「珍しいですね。左近さんがこんな時間まで残っているなんて」
「……そう? まぁ今日は気分がいいからさ」
「博打で当たったからですか?」
「んー……それもあるけど……」
 酒を片手に、横目で伊都をちらりと見る。
 こんな時間まで働いていても、嫌な顔ひとつしない。口では早く帰れだの、博打はダメだのとうるさく言うくせに、俺たちの話を本当に楽しそうに聞いてくれる。

 ――こういうところが好きなんだよなぁ……。

 賭場の仲間からこの店を教えてもらい、頻繁に訪れるようになってから、いつの間にか伊都のことが気になるようになっていた。確かに整った顔立ちではあるが、それを除けば、どこにでもいるいたって普通の女だと思う。
 だが、そこがいいのかもしれない。
 伊都は自分とは違い、一切の穢れがないように思えた。生まれてからずっと、オヤジさんから、店の客から、愛されて笑って育ってきたのだろう。薄暗い日陰で、汚いものにまみれて生きてきた俺とは違う。清らかで純粋で……その眩しい笑顔で周りの人間を幸せにできるんだ伊都は。
 この気持ちはある意味、自分もそうありたかったという憧れなのかもしれなかった。



「左近さん? どうしたんですか、ぼーっとして」
 伊都が心配そうに左近の顔を覗き込んだ。店の客は、いつの間にか左近だけになっていた。
「えっ……ああ、いや大丈夫、大丈夫! ちょっと飲み過ぎただけ!」
「もう……だから言ったじゃないですか、いい加減にお城に帰ったら? って。明日もお仕事あるんでしょう?」
「ああ、まぁ、ね……」
「……はぁ……わかりました。近くまで送って行ってあげるから、今日はもう帰りなさい」
「え!? マジで!? 伊都ちゃんが送ってくれるとか……俺、もう嬉しすぎて死ぬかも……」
「はいはい、わかったから酔っぱらいは黙って。ほら、行きますよ」
 実を言えばまったく酔ってなどいなかったのだが、ただ伊都の優しさに甘えたかった。
 伊都は、座っていた左近の腕を掴んでよいしょっと立たせ、背中を押して店の外へ連れていく。
「父さん、ちょっと左近さん送ってくるね」
 さすがに眠いのか、主人はあくびながらに、おう、とだけ返事をした。



 空いっぱいの星のおかげで、夜道はそれほど暗くなかった。
 並んで歩く伊都の袖が、時折自分の腕をかすめる。直接肌が触れているわけでもないのに、なぜだか緊張してしまう。
 何か話題を、と考えた矢先、左近はあることに気付いて突然大声を上げた。
「……って、ああ!? こんな遅くに女の子に送らせるとか、俺、マジありえないっしょ!? ごめん、伊都ちゃん!」
 立ち止まり、伊都に向き直って両手を合わせて謝った。
 伊都は突然のことに戸惑ったものの、頭を下げる左近に呆れたようにため息をつく。
「……はぁ……本当今さらですね。別にいいですよ。店からそう遠くないし、大丈夫です」
「いやいや、そうは言ってもこのままじゃ俺の男が廃るっていうか……やっぱ戻ろう! 送るよ!」
「え、でももうお城の方が近いですよ? ほら」
 伊都が指差したすぐ先に、大阪城の立派な門が見えた。いつのまにかこんなに近くまで来ていたらしい。
「あ……」
「ね? 私は大丈夫ですから、今日は早く休んでください」
「いやでも」
「……私、効率の悪いことは嫌いなんです。このまま戻ったら、時間の無駄でしょう?」
 伊都は有無を言わさぬ目で左近をまっすぐ見つめた。
 これは自分のことを気遣って言ってくれている――そう思い、左近はしかたなく引き下がることにした。
「……わかった。……本当ごめんね?」
「いいえ、お気になさらず。もうこの辺りでいいですよね。……ではまた今度」
 にっこり笑って引き返そうとする伊都を、左近は思わず引き止めた。
「あ! ちょ、ちょっと待って!」
 ただなんとなく、このまま別れたくないと思った。
「……なんですか?」
 不思議そうに振り返る伊都の横顔が、星明りに照らされてとても綺麗だった。光を宿すその瞳に、引き込まれるような強い感覚を覚え、その美しさに息を飲みながら左近は決心した。
 ふと博打仲間に抜け駆けするなと釘を刺されたことを思い出したが、こんな好機は二度とないかもしれないのだ。左近は心の中でそっと謝り、意を決して口を開いた。
「あ、あのさ、あの、伊都ちゃんにちょっと言いたいことが、あるんだけど……」
「はい?」
 きょとんと首をかしげる伊都がとても可愛らしくて、顔が熱くなった。
「あ、いや、えっと……」
 いざ口にしようと思うと言葉が出てこない。左近は自分を奮い立たせようと、一歩伊都に近づいた。
 手を伸ばせば触れられる距離。
 それでも、そんな勇気は出なかった。
「…………」
 ただ自分の素直な気持ちを伝えるだけ。それだけのことなのに、そう思えば思うほど、気持ちとは裏腹に言葉が出てこなかった。
「……あの?」
 伊都が困ったように左近を見つめる。
「あ……ごめん、えっと……俺、さ……その、伊都ちゃんのこと……」
 絞り出すような声で言う左近の頬が、見たこともないくらいに赤く染まっていた。
「……ふぅん」
 それを見た伊都が、聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「私がなに?」
 大きく開いていた目を少し細め、今度は厳しい目つきで左近を見つめる。声もどこか冷たかった。
「えっと……俺は伊都ちゃんが……」
 そこまで言ってまだ黙る。
 はぁ、と大きくため息をついて、伊都がまた呟いた。
「……ふん、意気地なし」
「……え?」
 左近が聞き返そうとした直後、伊都が左近の腕を掴んで引き寄せ、側の町屋の壁に投げるように叩きつけた。
 痛っ、と小さく呻き声を上げる左近にすり寄り、壁に押し付けるようにして互いの体を密着させる。
「え、ちょっと伊都ちゃ――っ!」
 開いた口を伊都のふっくらした唇に塞がれた。そのまま、強く強く押し付けられる。
 息が苦しい。
 何が起こっているのか理解できないまま固まっていると、ふっ、と伊都が力を緩めた。
 繋がっていた唇がわずかに離れる。互いの息が顔にかかる程の距離。 
 朦朧とする意識の中、左近は伊都の目をじっと見つめた。それは、先程までの無垢な少女のものではなく、れっきとした一人の女のものだった。
 艶めかしく揺れる瞳に、気持ちばかり紅潮した頬。色っぽく吐く吐息が左近の頬をかすめる。
「……ごめんね? 私、あなたが思ってるほどウブな女じゃないの」
 目を細め、わずかに口の端を上げただけの、ひどく挑発的な笑みを浮かべて囁く。今までとは違う、ねっとりとした喋り方。
「え……あの、伊都ちゃん……?」
 目の前の女が、自分が焦がれた女と同一だとは思えなかった。
 伊都はふふ、と妖しく笑い、体を離す。
「案外ウブなのね、左近?」
 最後にそう言うと、伊都は何事も無かったかのようにいつもの少女の笑顔を作り、ひらひらと手を振って、じゃあまたね、と去って行った。








 一人取り残された左近は、伊都の背中を追いかけるように見つめ続けた。











「……なんなんだよ……こんなのイカサマ過ぎんだろぉ……」












「なんで……なんで俺は反応してんだよ……」












 ぼそっと呟いた左近は、その見事に真っ赤になった顔を隠すためか、それとも別の理由か、壁にもたれかかったまま、その場にずるずるとしゃがみこんだ。






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