Chapter 5-8
階段を二段ほどずつすっ飛ばし、他のギルドメンバーとすれ違うのにもお構いなしに、ただ自分の部屋を目指して走るスィルツォード。
あまりリーゼを待たせたくはなかった。ダンケールとティマリールがすぐそばにいるとはいえ、もしリーゼが一人になったら……と思うと、落ち着いてもいられない。
ものの一分もしないうちに、スィルツォードは自室の前まで戻ってきた。ドアを乱暴に開けて、着ていた寝巻きをまとめてベッドに脱ぎ捨てた……そのとき。

「こらこら、着替えくらいはドアを閉めてやりなさいな」

自分の世界で時間と闘っていたところから、彼は突然現実に引き戻された。
開け放ったままの扉の向こうに、人影が立っている。
「あ、すいません……! 急いでて」
慌てて昼間の服を手に取って、彼は扉の先の影に謝る。
「謝ることはありません。まあ、あなたが周りからそういう評価をされてもいい……というなら、それはそれで構いませんが」
「いや、さすがにそれは……」
「否定はいいから急いだ急いだ。ドアは閉めておきますから」
ほどなくして扉が閉まる。スィルツォードはすぐに着替えをすませ、一番近くに置いてあった剣をつかんだ。のんびりと武器の選定をしている暇はない。
「ありがとうございます、隠してもらって」
開けたドアの向こうには、まだ人影があった。
部屋の前にいたのは、見慣れない旅装束を着た男だった。しかし彼も、先ほどのリーゼと同じように顔が隠れてわからない。笠帽子を手で押さえ、目元が見えないようにしていた。
「お気になさらず。たまたま通りかかっただけですから」
「……ところで、あなたは?」
「……私がわかりませんか?」
悪戯っぽさを含んだ声が、男から発せられる。しかしその声にも、スィルツォードは過去に聞き覚えがない。
「すいません、その服を見たことも声を聞いたことも……。どこかで会いましたっけ……?」
そう訊ねると、今度は笑い混じりの声が返ってきた。
「いけませんよ、スィルツォードくん。人を目と耳からの情報だけで決めるのは……」
男はそう言うと、懐から一冊の本を取り出した。
「これを」
「?」
ただ一言の意味を読み取れず、首を傾げるスィルツォード。展開の速さに、頭がついていけない。それを察してか、男は言葉を継ぎ足した。
「お貸ししましょう。時が来るまでは、あなたが持っていてください」
分厚い装丁のそれが、手の上に置かれる。覗き込んだ表紙に刻まれているタイトルは、スィルツォードの記憶に新しい。『世界の賢人』――いつか、もう一度読み直さねばと思っていた本だ。
そして、スィルツォードはそこで初めて、目の前の人物の正体に気がつく。

「まさか……ゼノンさん!?」
「……おや、やっと気がつきましたか。まあ、身なりも声も変わっていてよく分かった、ということにしておきましょう」
笠が上がり、顔があらわになる。が、やはり見覚えがない。それというのも、以前出会ったときは道化の化粧をしていたのだ。スィルツォードが覚えていたゼノンは、真っ白な顔のピエロに他ならない。
「いや、この前はピエロの格好だったし、それに声ももっと高かったような……なんでそんな」
「スィルツォードくん、遊び人がピエロの格好だけをすると、誰が決めたのですか? 決まった枠組みに囚われていては、真に人を見ることはできませんよ」
「は、はぁ……」
「さあ、そんなことより待たせている人がいるのでしょう。呼び止めておいてなんですが、私にかまわず行くといい」
理由を聞く前に、スィルツォードは先を急かされる。
「あ……そうだった。すいません、とりあえずこの本はお借りします」
ひとまず受け取ったその本を、スィルツォードは枕元に置いた。戻ってきたら、ゆっくり読むつもりで。
それから旅装束の男――ゼノンに会釈して、スィルツォードは庭で待つリーゼのもとに向かった。階段を忙しなく駆け下りていく後ろ姿を見送って、ゼノンは一言呟いた。

「廊下や階段は走ってはいけないと、教わっているはずなんですけどねえ……」


「待たせたな、リーゼ」

そこからやはり一分足らず。玄関口へ戻ってきたときには、リーゼだけでなく、ティマリールも支度が終わっているようだった。
「ボクもついてくことにしたよ。いいよね?」
「ああ、頼む」
屈伸運動をしながら、ティマリールが言う。スィルツォードは二つ返事で頷いた。断る理由は特にない。話を聞いて、何かのときに自分だけでリーゼを止められるか不安なところもあったのだ。
そのリーゼはというと、なおうつむき加減に花壇を見ている。
「あれ、ダンケールさんは?」
ふと、扉のそばの大きな体が消えていることに気がついた。
「あれ、すれ違わなかったんだ? ボスならついさっき自分の部屋に戻ってったよ。ここと中の片付けを、みんなとやってくれるって」
「そっか。犯人探しは任せたぞってことかな」
「だね。そのかわりシスターをよろしく、って言われちゃった」

まかせて、と言わんばかりの得意げな顔で、ティマリールは自分の胸をぽんと叩く。
しかし、スィルツォードは彼女を初めて目にしたとき、よからぬ輩に裏路地で絡まれていたことを思い出した。先行きに、ほんの少しの不安がよぎる。注意する対象は、リーゼだけではないのかもしれない。
それでも、一番気にかけるべきはリーゼであることには変わらない。
「リーゼ、大丈夫か?」
出発の前に、スィルツォードはずっと無言のまま花壇を見つめる少女に声をかけた。リーゼは振り向いて、「大丈夫です」と答える。いつもよりさらに弱々しげなその表情は、しかしこの日初めて見せたほんの少しの微笑みでもあった。

「……よし、それじゃ行こう」
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