Chapter 5-6
翌朝。
時計が叫びだすより先に、スィルツォードは目を開けた。
ぼんやりと霞む視界の中で、妙なざわめきが床を、壁を、そして耳を通って頭に響く。
しかし、身体はまだ深い眠りの中らしい。鉛のように重く、指先すらも動かせない。

「スィルツォードさん!!」

しかし薄闇にまどろむ意識だけは、予定外の刺激を受けて急速に浮かび上がった。
ドア越しに聞こえるその声は、ミストのものに違いなかった。しかし、彼女には似つかわしくない、これまでに聞いたことのない声量だ。
それだけで、何かが起こったと察知するには十分だった。頭が身体を叩き起こす。やにわに飛び起きて、彼はドアを開ける。いつもは先の整った長い髪が、やや乱れて広がっている。それが、彼女の焦燥を如実に表していた。
「……どうしたんだ、ミスト?」
寝起きということもあるが、努めて冷静に訊く。すると彼女はかぶりを振った。
「ああ……ごめんなさい。わたくし、少し慌てすぎているようですわ……」
思い出したように、深く息を吸い込む。そして吐く。それを数度繰り返し、ミストは平静を取り戻したようだ。いつも通りの静かな声で、続きの言葉を口にした。
「起こしてしまって、申し訳ございません。実は、夜中から明け方にかけて、何者かに一階が荒らされたようでして……」
「なんだって……?」
目を見開いて、彼は部屋の外へ出た。寝間着姿のままであるが、もしかしたら着替える時間がないほどの喫緊の事態が起こっているかもしれない。今はひとまず、階下の様子を見に行くのが先決だ。

「スィルツォードさんは今朝が早いと聞いていましたので、もしやと思ったのですが……まだお休みだったのですね」
「ああ、もうちょっとで起きる時間だったんだけど……あれ、でもミストはなんでオレが早起きするって……オレ言ったっけ?」
「いいえ……ゆうべ、たまたまリーゼさんにお会いしたときに聞きましたの。明日はスィルツォードさんに、朝の花壇のお手入れを手伝ってもらう……と」
「ああ、そういうことか……リーゼが話したんだな」

話をしながら、二人は一階へと降りていく。がやがやとした声が下から聞こえてくる。ラウンジはほぼ無人だった。どうやら皆が下の様子を窺いに行っているらしい。
しかしざわめきと反対に、階段を降りた先で、スィルツォードは声を失うこととなった。
「……!!?」
野次馬たちのその向こうに、ただならぬ様相が見える。
ミストはそれを一度見ているのだろう、痛ましげに小さく息をついた。
群衆をかき分けて進んだ向こうで、はっきりと見えた。
壁に留められていたはずの、依頼の内容が記された紙の切れ端は、その半分ほどがそこら中に飛び散っていた。テーブルは横倒しになっているものもあり、その上に置きっぱなしになっていたと思われる酒瓶が床に投げ出されて中身をぶちまけている。壁や床、いたるところに泥が跳ね、土が散らばっている。足を踏み出す度に、じゃり……という音が立つ。
壁の傷が増えているのは……気のせいだろうか。
ともあれ、異常な状況であることに違いはなかった。

まだ外は薄明るいころで、一階にいる人の数は夜ほどのものではなかった。が、この異常事態に各人が声を上げており、騒々しさは劣らない。
カウンターではルイーダが痛恨の極みといった面持ちで、椅子に身を預けるのもほどほどに、周囲の整理をしている。彼女に話を聞くのが早そうだと思ったスィルツォードは、もう一度人混みの中を進んで、ルイーダに声をかけた。
「どうしたんですか、これ!?」
「やられちまったよ……賊にでも入られたらしい」
苦虫を噛み潰した、という形容がぴったり合う顔で、ルイーダは言った。
「らしいって……誰もいなかったんですか?」
「あたしがここにいたんだけどね……ゆうべはいつもより静かだったもんで、眠たくなってきてね。ちょっと仮眠をと思って、ここを空けたんだよ。それで、つい寝入っちゃってね……さっき叩き起こされて、出てきてみたらこのありさまさ」
ルイーダの視線の先には、空間だけは広々とした酒場のフロア。
しかし床は先にスィルツォードが確認した通りである。相当派手に暴れない限り、ここまでの惨状にはならない。
「これだけの騒ぎがあって、夜中に誰も気づかなかったんですか?」
「どういうわけか、ね……あたしもそれは思ったさ。いや、あそこで寝なけりゃ、気がつけたんだろうけど……外だけならともかく、中までこんなことになってるなら、さすがにねぇ……」
そう問うスィルツォード。責任を感じているのか、答えたルイーダは苦い表情で、いつになく歯切れの悪い様子だった。
そして彼女の言葉の一端に、スィルツォードは引っかかる。

まさか――。

限りなく嫌な予感が、スィルツォードの脳裏をよぎる。
居ても立ってもいられず、彼は三度人の山を押し退け、フロアを突っ切る。そして。
「……っ!!!」
表への扉を開いたその向こうに広がる光景に、彼はまたしても言葉を失った。

冒険者を迎え入れる庭もまた、荒れ果てていた。
そして――リーゼの愛情を受けて存分に育ち、玄関口を彩っていたはずの花壇は、見るも無残な姿へと変わってしまっていた。黒土は踏み荒らされ、七色の花弁たちは地に落ち、引き裂かれ、泥にまみれ……土から伸びる茎は、途中でぐにゃりと曲がって力尽きていた。台風が通り過ぎたとしても、ここまでひどいことにはならないだろう。
どのくらいそこに立っていただろうか、ふと左の頬に、ほんのりとした暖かさを感じた。地平線の向こうから覗く朝陽が、東の空を曙色に染め上げている。光を受けて、花の表面が露できらめく。それはまるで、命尽きたことを知った花々が涙しているようにも見えた。
これほど哀しい朝焼けは、スィルツォードにとって初めてだ。

「……スィルツォードか」
脇から聞こえてきた野太い声。いつの間にか、ダンケールが隣に立っていた。
「おはようございます、ダンケールさん。これ……」
「おそらくは、賊の仕業だろう。俺も昨夜は不思議なほど寝入ってしまっていてな……不覚だった」
「ルイーダさんもそう言ってましたけど……賊って誰なんですか? なんでこんなことを……」
「そこまでは俺にも分からん。ただ、うちのやっていることが気に入らない連中も確実にいるってこった」
ダンケールは身動きせずに、人々がちらほらと行き交う大通りを眺めている。どうやら外の人間はまだギルドの事件を知らないようだ。しかし、今こそまだ人の流れは少ないが、空も明るんでおり、花壇は通りから見える位置にある。いつ騒ぎが大きくなってもおかしくはない。
スィルツォードは、荒れた花壇の中に、いくつか足跡があるのを見つけた。少し観察してみると、どうやら人のものではない。犬か猫か――その辺りの動物のような、そんな足跡がちらほら。
だが、どこかの飼い犬や飼い猫が逃げ出してきたにしては、数が多いような気もするし、そもそもこんな惨状に至るとは考えにくい。

何か、何か他に手掛かりはないだろうか。
スィルツォードが思案していたとき、軋む音を立てて、背後の扉が開いた。中から出てきたのは、今は最もこの花壇を目にしてはいけない少女だった。
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