二話


 辿り着いた星では、遠目に見た印象とは全く違う現実を受け止める羽目になった。
 青い、蒼い――宝石のような星。色の混ざり方が、まるで輝く青い瞳のようだとも思った。
 住んでいる人々は、自分より弱いと聞いた。きっと弱さを抱えた人たちは、それを互いに認め合うような、尊重し合うような優しい生き方をしているのだろう。そうやって、勝手に理想を抱いていた。

 しかし、現実は違った。結局は、神楽は利用されるだけだった。
 置かれた状況を自らにとって不幸だと言うのなら、それは単なる不幸になるだろう。しかし、衣食住に事欠かない生活を不幸と呼ぶのなら、それは多くを敵に回すに違いない。
それでも皆、目の前に横たわる問題を注視する以外に、日常を生き抜く術を知らないのだから仕方がない。自分が現実を受け止めてしまえる理由を、神楽は知っていた。

「――神楽」

「次の仕事だ。来い、神楽」
 呼び声は、恐ろしさを演出しようとしているのかもしれない。精いっぱいの虚勢を、迫力を見せつけようとしているのかもしれない。
 暗がりから、逆光に照らされた男の姿を見た。虚ろに応じて立ち上がるその目の中に映るのは、その男の首筋だった。

 ――こんなもの、ひと捻りで殺せる。
 
 なんて、脆い。そんなものを一つ潰したところで自分が何を得るだろう――何も得ない。そんな結論には簡単に帰着する。それでもその得るものも失うものも、自分にはもうないのではないかと彼女は思っていた。
 あまりにも、無為だ。
 誰かを傷つけて、殺しかけて、それで得る安寧はどれほど居心地が悪いか、こいつらは知らない。痛みにもがく最後の苦しみを、こいつらは理解できていない。

 失うものは、この身一つしかなかった。だから、この組織ごと全て殺しつくしてしまうのも、ある意味で手ではあった。ただ、実行には移さなかった。――あくまで彼女は、優し過ぎた。自らに不平を強いる彼らにも、きっと慈しむ人々がいると考えると、伸ばした腕を押さえつけることが出来てしまった。
 心を捨てきることが出来たらどれほど楽なのか、彼女はおそらく知っていた。それでも捨てきれなかったのは――どこまでも、彼女は寂しかった。
 誰かに、必要とされる居場所が欲しかった。





「――神楽」
 その呼び声が、尊さではなく日常の象徴になったのはいつからだろう。多分もう、彼女は覚えていない。
 掛かった声は、あまりに聞き慣れた声だった。最初の頃こそこそばゆかったというのに、今はとても、おかしなくらいに普通だった。
「銀ちゃん」
 振り返ると、応じるように片手を上げた。傘を持ち上げる手が自然と少し胸元に寄る。

「どこで道草食ってんのかと思ったら――ん、なんだこの人だかり」
「……誰か、死んだみたいアル」
「見物か。趣味のいいもんじゃねーな」
「同意するネ。銀ちゃん、行こ」
 ぐい、と銀時の袖を引くが、彼は立ち止まったまま動かない。
「どっかで、見た顔だ――と思ったんだが」
「知り合い、アルカ?」
 神楽は不安そうな気の毒そうな、それに反して自分が心配することを抑えるような複雑な表情をした。
「ん――っつーほど知り合いじゃねェと思うんだが」
 三体ほどの転がる死体の中、一人の顔に目を凝らした。

「――わかった。桂んとこの奴じゃ……」
「攘夷志士、アルカ……?」
「多分、そうだろうな」
 物騒だ、と呟きながら行き交う人々は、他人事だと言いたげに足早に入れ替わりに過ぎ去っていく。少し立ち止まっていた二人も、どちらということなくふいと足を動かした。
 日常に非日常が食いこむとき、口数が少なくなるのがこの二人の常だった。互いに思うところはあるが、詮索はしない。
「帰るぞ」
「――ウン」
 人ごみの中で、神楽は思わず銀時の着物の袖を掴んだ。それを確認したように歩き出す銀時の背中を、暗闇の中の行燈のように見つめた。
 言葉も無く歩くと、すぐに人ごみを抜ける。するりと離した手は手持無沙汰で、神楽は両手でぐいと傘を引き寄せて俯いた。
「――大丈夫か」
 大丈夫だろう、という確信を感じるような問いだった。どちらかというと、大丈夫だという言葉を欲しているような銀時の問いに、神楽は頷いた。
「大丈夫ヨ、銀ちゃん。ヅラは――」
「気にするほどのことじゃねーよ。なんだかんだ言ってもあいつのやってることは危険だっつーことだ」
 不干渉のスタンスを貫く彼は、少しだけ言葉に不安を滲ませた。意図を把握していた神楽は、銀時の顔を見上げた。
「誰がやったんだろうネ……」
「……」
 警察がやったのだとしたら、即座にその場で事後処理をすればよい。ああして人だかりができている時点で、警察の手によるものではないことは、火を見るよりも明らかだ。
「私、ちょっぴヅラが心配アル」
「あいつもそれなりに強ェんだから、まあ夜兎のお前ほどじゃねーけど。心配すんな」
「……人間は、弱くていけないネ」
「……まあな」
 強いと言って否定してほしかった言葉を、銀時は肯定してしまった。その言葉に神楽は僅かな失望はしたものの、求めるものが同じであることを確認したようで、少し安心した。

「銀さん、神楽ちゃん! 二人とも遅いですよもう!」

 坂道の上に、手を振る新八の姿が目に見えた。僅かにあげた傘の隙間から入った日差しの眩しさに、新八から思わず顔を背ける神楽の頭を、銀時の手が覆った。
 どこか泣き出しそうな心地がして、神楽は思わず俯いた。
「――どうして、みんな死ぬんだろうネ。どうせ死ぬのなら、出会いたくなかったヨ」
 目の前に居る人、全てが愛おしくてたまらなかった。弱いと知っていても、なおのことその弱さがきれいだと思えてならなかった。だから、傍に居たいのに。ささやかな願いすら叶わないから。
 息のような小声を、傍らに居た銀時は正確に聞きとっていた。柔く、神楽の頭を撫ぜる。
「――わかってるんだろ、神楽」
「――何を、アルカ」
 言い聞かせるような優しげな声に、神楽は僅かに身を縮めた。

「そう感じた時点で、そう思った時点で――出会いに意味がないと言い切れなくなるって」

 陽だまりの様に暖かい声が、頭上に響いた。胸の中でもがいていた冷たい不快感が、ふっと落ち着いた気がした。

 ――そうだ。出会ってすらいなかったら、後悔だってできやしなかった。
 それでも後悔してしまうこの心は、まだ子供のままだと言わせてほしい。折り合いなんてつけられるほど、大人じゃないから。
 神楽は傘の下で、甘えられる自分の幸福に笑った。





 くつくつくつ。
 煮立つ音と甘い香りが、部屋中を覆っていた。
「新八? 何作ってるアルカ?」
 神楽が顔を出すと、台所で作業をしていた新八が振り返った。
「ああ、神楽ちゃん! ちょうどいいし、味見する?」
「味見……?」
 神楽は新八の近くへ寄って、手元を見る。
「……ジャム!」
「そう、いちごのね。この間の依頼人さんが、はじきだからって持ってきてくれたんだ」
「食べてもいいアルカ!?」
「熟れすぎててそのままじゃちょっとおいしくなさそうだったから、ジャムにしてみたんだ。はい」
 新八が差し出した匙を、すいと口に運ぶ。
「――ん」
「どう?」
「ん! おいしいアル!」
「よかった。もう少し煮詰めるけど、瓶に入れて姉上と僕の分も貰っていくから。あと九兵衛さんとか吉原の人達にもおすそ分けできたらなって思ってるけど」
「うちの分は少なくなっちゃうアルナー」
 口に匙を含みながら、暢気な雰囲気で呟く。
「多めに入れとくよ」
「別にいいアル。銀ちゃんはあるだけ食べそうだから、少ない方が糖尿対策になるネ!」
「あはは、確かに。神楽ちゃんは銀さんに過保護だなあ……そういえば、今日、銀さんは?」
「前々回の依頼料が昨日払われて、臨時収入だったから――喜んでパチンコネ。帰りは遅くなるダロ」
「そっか。じゃあ瓶詰してとっておけばいいか」
「私も帰ってきたら食べるネ!」
「神楽ちゃんも出かけるの?」
「ウン、遊ぶ約束があるから! ついでに晩ご飯のパンでも買ってくるアル」
「久々に卵かけごはんじゃないね」
「……さりげなく卵かけごはんディスってんじゃねーゾ、眼鏡のくせに」
「眼鏡関係ないでしょ!」
 そんな普段通りのやりとりを背中に、神楽は傘を片手に玄関へと向かう。
「僕もこれが終わったら帰るから、銀さんによろしく」
「ハイヨー」
 後ろ手に手を振って、晴れやかな空の下に飛び出した。

 弾む足取りは、朝から上機嫌だった。臨時収入が入るたびに銀時は駄賃をくれたりするのだが、そのかわりに家を空けるようになる。それは、神楽としてはあまり好ましくなかった。
 しかしながら、朝から新八が用意していたジャムで気分も良くなり、神楽は鼻歌交じりに公園へとたどり着いた。
「あ、神楽ちゃん!」
「おはよーネ! みんな早いアルナ」
「神楽ちゃんと一日遊べるのは休みの日だけだから、いっぱい遊べたらなって思って」
「――そうアルカ! じゃ、いっぱい遊ぶネ!」
「うん!」
 数人の女の子がボールを手に駆け寄って、神楽の提案する奇抜な遊びに目を輝かせた。喜ばせることは嬉しい、と神楽は僅かに照れくささを隠して声を張り上げた。
 なるべく、本気を出さないように。気遣いが上手くなった頃、こうして友達が出来たのは、神楽にとっては奇跡でもあり学習でもあった。このぐらいの感覚――人間の感覚を掴むたび、差を思い知らされるのではあったが。

「いくよー!」
「ハイヨー!」
「あっ、神楽ちゃん」
 遠目に立って居た友達の一人が挙げた声に応えてすぐ、真横の一人が神楽へと声を掛ける。
「何アルカ?」
「……なんか神楽ちゃん、甘いにおいがする……?」
「甘い、におい――ああ、ジャムネ! うちの新八が今朝イチゴジャム作ってたから」
「へえ、手作りかあ! すごいなあ神楽ちゃん家って。うちは買ったのばっかりだよ」
「私も初めて食べたアル! すっごくおいしかったヨ!」
「そっか、今度作ってみたいなあ」
「食べるんじゃなく?」
「……ふふふ、どっちも!」
「んふふ! じゃあ今度、新八に聞いてくるネ」
「ありがとう、神楽ちゃん!」
 にこり、とその少女は笑い返した。彼女はとても少女らしく器用な子で、料理や裁縫が趣味ながらも、動きが鈍い所があった。雰囲気の柔らかさが、神楽はとても好きだった。
「味見させてネ?」
「もちろん! 神楽ちゃんにいちばんに食べさせてあげる」
「えへへ、楽しみアル〜!」
 頬緩めると、顔の真横をボールが掠めた。
「神楽ちゃん、集中しないと怪我するよ!」
 遠くから響く声に笑った。怪我をしたフリは、ちょっと上手くなった。





「ただいまヨー」
 誰もいない室内に響いた声が返ってくる。予想は出来ていたことだし、鼻孔をくすぐる甘い匂いが幸せだった。昼食は出先で軽く食べた。夜は新八が用意していたジャムをパンにでもつけようとパンを買って帰ってきていた。
「ん、牛乳無いネ」
 定春へ餌をやりながら冷蔵庫を開ければ、瓶詰のジャムしか見当たらない。白さと赤みが目立つ冷蔵庫の中、軽く首を傾げた。銀ちゃんが、飲んでしまったのだったっけ。
「……仕方ないアルな、今朝貰った小遣いで買ってくるアル」
 定春の心配げな鳴き声に、ぽんぽんと頭を撫でる反応を返して玄関の扉を開けた。午後八時、傘なんていらない。五百円玉を握って飛び出した。
 普段から行くスーパーマーケットは十二時閉店だ。夜の歌舞伎町と言うだけあって、この時間は昼間よりも活気がある。明るいネオンに照らされた道を歩いても、普段見かける顔見知りの子供たちはいない。
「……」
 折角だから、寄り道でもしよう。
 普通の少女ならば、こんな時間帯に、危機感がないと咎められそうなものだが、神楽に至っては心配する人間がいないのだから仕方がない。人通りのほとんどない、路地裏の方へと足を向けた。

 暗がりには、ネオンの残り香のような光と、僅かに差し込んだ月明かりの光しかなかった。とはいえ目が慣れてしまえば、昼間のように快適だ。むしろ、太陽が苦手な神楽からすれば昼間より快適である。
 鼻歌交じりにゆっくりと歩いていたが、じんわりと鼻につく湿った匂いを感じた。
「――」
 誰かが、いる。
曲がった先を行けばそれに出くわすことだろう。湿った匂いの正体を知っている上で、そこへと向かうべきか。
 コンマ数秒悩んだ脳は、判断よりも先に足が動いていた。
 跳ねるように駆ければ、どんどんとその匂い――死臭が、濃くなっていく。正確に言えば、血の匂いだった。こんなものに敏感な自分の鼻が、神楽はあまり好きではなかった。

「――ん、コイツの仲間?」

 行き当たった先で、妙な声が聞こえた。ああ、でも、これは。

 ――これは、知っている。

 知っているから、私はここに辿り着いてしまったのだ。

 気付けば勢い込んで駆けてきたようにそこへ着くと、眼前には真赤に染まった路地が広がっていた。もうここまでくると死臭などという表現では柔だ――血液だ。血液の匂いと ――独特に感じる、夜兎の匂い。
「っなんで――オマエがここに……」
 驚きに声が震えるのに、頭の芯はどこか冷たかった。知っている。ここにこの男――兄が、神威が存在しているということをどこかで分かった上で、ここへ向かう判断をしたのだ。
 血の匂いがした時点で避けていればよかった。しかし、いや、でも――助けられる人間が居るのなら助けたいと、確かに。そのときの優しげな自分は思ったのだ。

「――アレ、神楽? なんでここにいるの、お前が」
 呆けたような声を出したのは、向こうも同じだった。とはいえ、言葉には全く危機感がない。どちらかというと、悪戯を見つかった子供のような声だった。
 ぷつりと、真っ黒い墨汁の入った、重たい風船のようなものが胸の奥ではち切れるような、そんな不快な感覚がした。それが体中を回っていくのを抑えるようにして、右手が左ひじの辺りを強く掴んだ。
「こっちの、台詞アル――!」
 鳥肌が立つ。震える手が、普段はあるはずの傘の柄を探した。ああ――そうだ。置いてきてしまったのだ。ギリ、と奥歯が鳴った。
「ふぅん……お前に用事はないんだけど。こいつら手ごたえ無くてさ」
 そう言った神威の足が、その足元に転がる体に食いこんだ。くぐもった声が漏れて――その血だまりの中、生きているのが把握できてしまう。生きて、いる。そんな、襤褸のような体で――ああ、性質が悪い。神楽は自分が受けてもいない傷の痛みを予想して、胸の奥がぎゅうと萎んだ。
「相手、してくれるかナ? 神楽」
「……」
 後ろに、一歩引く。
「――残念だけど、私は今買い物途中アル。油売りなら余所でやってヨ」
 勝ち目がない。どう探してもない。
 どうすればいい、どうすれば。こういうときは――
 
 逃げてしまえば、いい。

 ひょいと跳ねた足が、屋根の上を狙って飛んだ。ばくりと普段以上に血液を喰らう心臓が煩かったが、窮地だった。こんな場所で、こんな時間に――自分が、狂うわけにはいかない。
「神楽、逃げる気?」
 夜闇の中響く声は、酷く不機嫌なものだった。
「せんりゃくてきてったい、ネ。私は武器を持ってないアル」
「へぇ! じゃあ、武器を持ってたらいいの?」
「――それは」
 神威は、にこりと笑った。
「じゃあ来週、この時間にまたこの場所で。絶対武器は忘れるなよ」
「……」
 異論は聞かない、と頭蓋骨の裏側から声が聞こえたような気がした。屋根の上に飛び乗った足が、瓦を鳴らした。ぶるり、と夜風が体を冷やす。――ずっと、鳥肌は立ったままだった。

「――それなりに、収穫かな」
 神威は誰にと言うわけでもなく呟いた。頬にかさつく違和感を拭えば、指に赤色が付着する。はやく処理してしまわなければ後々大変だ。懐から携帯電話を取出し、通話ボタンを押しながら思わず微笑む。
「――ああ、高杉? こっちは終わったから処理をよろしく。それと――もしかしたら、いい人員を確保できるかもしれないヨ」





 こうして大金が入った時の銀時が帰路につくのは、早くとも日付を跨ぐ。この日も当然の様に二時になってやっとスナックお登勢に辿り着いた。ある程度酔いも醒め、懐も冷えてきていた。
「よ、ババア」
「あら、アンタ一人かィ」
「さっき長谷川さんと別れたんでな。飲みなおしに来た」
「金はあんのかね」
「金が入ったから飲みに来たんだよ」
 銀時はそう言いながら、向かいの席へと座る。お登勢は手早く酒の用意を始めた。
「なら家賃を優先してほしいもんだが」
「先々月分なら払っただろうがよ」
「今月分を払えっつってんだよクソ野郎」
「そうカッカすんなや」
「そういうことは金払ってから言いな」
 そういいつつも、出したグラスへと日本酒を注いだ。それをぐいと銀時は飲み下す。お登勢はそれを流し目で見守ると、ボトルのキャップを閉めた。
「ハイ、終わり」
「ッちょ、ババア! まだ酔えてすらねーっつうの!」
「家賃来月分まで払ってからきな。何よりねェ――アンタの帰り、待ってる子がいるんだからさ」
「……」
 銀時は、僅かに溜め息を吐いた。
「チャイナ娘、今夜はちょっと買い物帰りに顔見たきりだけどね、さっきたまに覗かせたら、まだ起きてるって言うじゃないか。ソファに座って舟漕いでるからって布団で寝るように勧めたけど、アンタが戻るまで寝れないってさ。健気なもんじゃないか。夜食にホットミルクを持って行かせたんだけどねェ……まだ、寝てないだろうよ」
「……」
 ぐうの音もでない、と言わんばかりに銀時は顔を歪めた。その頑固な健気さが厄介なのだ。待たなくていい、そう言えたらどんなにいいか――馬鹿らしいことに、待ってくれていることを喜んでしまう自分のせいで、結局ははっきり拒絶など出来ずにいるのだから。
「ほら、帰りなよちゃっちゃと」
 追い打ちをかける声が大きくなる。ダメ元でグラスを押しやって続きを催促したが、それを合図にするかのように酒瓶を棚に戻したようだった。
「――オイ、ババア」
「あの子、いつもお前が帰ってくるのを起きて待ってるんだよ」
「……わーってるよ、んなことは」
 わかっているからこそ、認めがたい。あと二時間もすれば、神楽は諦めて布団へもぐるはずなのだ。しかしお登勢も神楽も、今夜はどうやら譲ってくれる気はないらしい。

「――今度からは、もっと早く帰ってきておやりよ。待たせるなんて、男のしていいことじゃない」

 くしゃり、と僅かに眉根を歪めながらお登勢は笑った。
 その言葉の奥にお登勢の内心を感じてしまい、渋々ながら立ち上がる。
「……アイツも寝て待ってりゃいいのによ」
「待っていたいんだろ。お前さんが帰ってくるのを」
「――じゃーな。いい夢見ろよババア」
「アンタこそね、風邪ひくんじゃないよ」
 暖簾をくぐると、予想以上に冷えた空気が銀時の身体を包んだ。すい、と入ってきた風が鼻孔を痛いほど冷やす。擦る様にしてそこに熱を与えて、両腕で身体を抱えて階段を上った。
 アルコールのせいか、身体は暖かい。どこかおぼつかない足元は、正直に言ってしまえば、嘘だ。そこまで酔っていないのに千鳥足を演出したのは、これから待っている神楽のことを思ったから。
 ――シラフの顔で、毛布をかけてもらうなんていう甘え方は出来るわけがない。

「――ただいま帰ったぞー、神楽」
 やけに大きい声を張り上げると、そのままブーツを脱ぎながら廊下に寝転ぶ。片足だけを脱いだ状態で、冷たい床が頬を冷やした。
「……っ銀ちゃん! おかえりネー」
 ぱたぱたと音を立てて奥から出てくる神楽の声が届いた。おかえり、という言葉が不思議にも全身を暖めた。
「あー、もう銀ちゃん! そんなとこで寝たら風邪ひくアル!」
「ん……かぐら、ただいま」
「ハイハイ、おかえりネ。立てるカ?」
「んー……いや」
「めんどくさいアルなぁ……ブーツ、片っぽ脱がすから足軽く上げるネ」
「ん」
「重い……」
 神楽は顔を顰めつつも、手際よくブーツを脱がせ、銀時の首からマフラーを抜き取った。
「歩けないアルカ? 肩は貸すから、立って欲しいネ」
「ん……肩」
「ハイ」
 神楽がグイと肩を寄せると、そこに銀時の右腕が被さる。その銀時の右腕と腰を掴み、神楽は勢いよく立ち上がった。
「んっ……重っ」
 これだから酔っぱらいは、銀ちゃんは、と小言を呟く神楽の横顔を見ると、拗ねた口調のわりにはひどく愉しげな声色だった。空元気のような明るさが、長く人気のなかったような暗い玄関に響いた。
 嘘をついている後ろめたさよりも、突然、神楽に対しての申し訳のないような思いが浮かんだ。
「もうちょっと早く帰ってこないと、私寝ちゃうとこだったアル!」
「……神楽――なんか、悪い」
 ぽつり、と呟いた銀時の声に、少しだけ視線を上げた神楽の目と目が合う。
「いいヨ銀ちゃん。私、待ってるの好きだから」
 神楽は軽く首を傾げ、人形の様に笑った。

 ――その言葉の意味を知っている。だから、なおのこと悪いと思った。
 好きなわけがない。待っているということは、神楽にとってトラウマに近いはずだ。待っている間、確実に帰ってくるのだと信じられるのならそれでいい。その待つという行為に希望が見いだせるのなら。
 待つという行為に、神楽は失敗経験しかないのだ。不安がない訳がない――それでも、自分は甘えてしまう。どうしようもなく、待っていてくれる人がいるという幸せがあまりにも得難くて、おかえりという言葉が欲しくて、その尊さを知っていたから、やめることが出来なかった。

「――――悪い、神楽」
「今日の銀ちゃんはネガティブネ」
 寒いからかナ、なんて呟いて、神楽は俺と一緒に布団へと飛び込んだ。畳の硬さで大分痛いが、神楽はもそもそと俺の身体へ布団を乗せはじめる。薄暗い中で、忙しなく動く神楽の白い肌だけが異様に浮き上がって見えた。

「……神楽は、寒くねーのか」
 白い肌が、凍てつくように冷たいような、そんな印象を与えた。
 ――ああ、雪みたいだ。
「大丈夫ネ、さっきまで毛布にくるまってあったまってるから。銀ちゃん、明日の朝きちんとお風呂入るのヨ」
「――ん」
「これであったかいアルカ?」
 その言葉に、目を閉じたまま無言で返した。
 了解して立ち上がろうとした神楽の腕を、ぐいと掴む。
「んっ――!? 銀、ちゃん?」
 布団の中へ引きずり込むようにその腕を引くと、すんなりと神楽は布団へ納まった。
「……何アルカ、一体。私はゆたんぽじゃないアルヨー」
「……寒ィ」
 酔ったふりをして、神楽の身体をぎゅうと抱きしめた。酒の匂いをわざとらしく感じさせるため、溜め息のように濃い息を神楽の眼前に吐きだした。
「――酒臭いアル、銀ちゃん」
 そういいながら、神楽は空いた方の腕で俺の頭をなだめるようにぽんぽんと撫でた。
「……」
「寝付くまで、一緒にいてやるネ」
 銀ちゃんは甘えんぼさんアルナ、なんて子守唄のような、優しげな声で耳元に囁く。その言葉になんだか心臓の奥がこそばゆさに震えて、ぎゅうと小さな体を抱きしめた。――なんて、小さい。
「ふふっ、銀ちゃん子供みたい」
 神楽はそう言って、幸せそうに笑った。
 瞼が落ちてくる。神楽は歌っている。――――子供。母親。親子。両親。家族。

 ――家族って、なんだろう。
 
 眠りに落ちる直前、そんなことを思った。


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